第四話 悪魔の契約書
私怨は、再び、極致に達した。
王城の最も高い塔で、ノクトは、自らの聖域を汚した見えざる敵への、絶対的な報復を決意した。
彼の怒りは、もはや熱い激情ではない。
失われたポテチの未来を取り戻すという、ただ一点の目的のためだけに最適化された、冷徹な分析能力へと昇華されていた。
国王の執務室では、アイリスが、脳内に響き渡るノクトの殺意の波動に、身を固くしていた。
目の前の国王レジスは、アイリスが突然沈黙し、一点を凝視し始めたことに、困惑の表情を浮かべている。
「…アイリス? どうかしたのか?」
その声に、アイリスは、はっと我に返った。
そして、脳内に響くノクトの、新たな指令を聞く。
『新人。動くな。俺は今から、この「やる気ゼロ」の病の根源を特定する。貴様は、俺の解析結果を、リアルタイムで国王に報告しろ。これは、もはや俺個人の問題ではない。王国の、存亡がかかっている。ということにしておけ』
(…はい、神様)
ノクトの最後の一言が気になったが、アイリスは、国王に向き直り、できる限り、聖女らしい、厳粛な表情を作った。
「陛下。今、私に、神託が下りました。この国を覆う、奇妙な無気力の原因が、間もなく判明いたします」
「な、なんと!?」
国王の顔に、緊張が走る。
ノクトの意識は、すでに、彼の塔のシステムと完全に一体化していた。
彼は、王城の結界を中継点として、王国全土のマナの流れを、『神』の視点からスキャンし始めた。
モニターには、王国全土の、複雑な魔力地図が映し出される。
その地図の上を、まるで薄汚いインクをぶちまけたかのように、微弱だが、広範囲にわたる、寄生的な魔力のパターンが覆っていた。
『…見つけたぞ。これは、呪いの類ではないな。もっと、たちの悪いものだ。対象の魂から、「活力」という概念だけを、選択的に吸い上げる、寄生型の魔術だ。…そして、この術式の構成…古すぎる。まるで、千年前の古文書から抜け出してきたかのような、古典的なスタイルだ』
ノクトの額に、青筋が浮かぶ。
『…フン。俺の塔の結界が、この程度の魔術汚染を通すはずもないな。俺自身への直接的な影響はゼロだ。…だが、この汚染が王国全体の社会機能を停止させているということは…つまり、俺のポテチの生産ラインも、例外なく停止している、ということか…!』
ノクトは、その寄生魔術の痕跡を、逆探知し始めた。
魔力の流れは、王都の一点へと収束していく。
王城の、さらに地下深く。王立古文書館の、最奥。
そこは、建国以来の重要書類が、魔術的に封印されている、禁断の書庫だった。
『…新人、国王に伝えろ。原因は、古文書館の禁断書庫にある、と』
アイリスが、その言葉を国王に伝えると、国王は驚愕に目を見開いた。
彼は、震える手で、宮廷魔術師長を呼び出し、禁断書庫の封印を、一時的に解くよう命じた。
数分後。
ノクトの意識は、古文書館の奥深くへと侵入していた。
そして、ついに、全ての元凶を発見する。
それは、おびただしい数の古文書の中で、一つだけ、禍々しい、しかし極めて整然とした魔力を放つ、一枚の、古い羊皮紙だった。
『…これか。…ああ、間違いない。これは、「契約書」だ』
ノクトは、その契約書の内容を、遠隔で、一瞬にして読み解いた。そして、そのあまりの馬鹿馬鹿しさに、怒りを通り越して、絶句した。
『…新人。今から、俺が読み上げる内容を、一言一句、違えずに、国王に伝えろ』
アイリスは、頷いた。
『契約締結日、旧王国歴三十二年、双子の月が重なる夜。契約者、ソラリア王国初代国王、アレスター・フォン・ソラリア。契約相手…地獄の監査局、局長代理、悪魔アウディトール』
その名前に、国王が息を呑む。
『契約内容。「究極においしいピクルスのレシピ」を提供する対価として、契約者の血族が統治する土地における、全住民の「労働意欲、向上心、達成感」、すなわち「やる気」を、担保とする』
「…ピ、ピクルスの、レシピ…?」
国王の口から、間の抜けた声が漏れた。
『返済期限、千年後。…双子の月が重なる夜、か。確か、それは、一週間前の夜だったな。…つまり、返済期限は、とっくに過ぎているというわけだ』
全ての謎は、解けた。
この、王国を揺るがす大事件の、全ての始まりは、千年前の王が、悪魔と交わした、ピクルスのレシピについての契約が原因だったのだ。
国王が、そのあまりに情けない建国の秘密に、頭を抱えて崩れ落ちた、まさにその時だった。
執務室の中央の空間が、まるで黒いインクが水に落ちるように、静かに、歪み始めた。
騎士たちが、慌てて剣を抜く。
だが、そこから現れたのは、炎でも、怪物でもなかった。
黒い歪みの中から、ゴト、という音と共に、まず、一つの、おそろしく事務的な、書類棚が出現した。
そして、その書類棚の影から、一人の、くたびれた男が、ゆっくりと姿を現した。
彼は、黒い、仕立ての良いスーツを着ていたが、あちこちが少し擦り切れている。度のきつそうな眼鏡をかけ、その手には、分厚い革の鞄を握っていた。
その顔には、邪悪さも、威圧感も、何もない。
ただ、終わりのない残業に疲れたような、深い倦怠感が漂っていた。
「…どうも」
男は、ぺこり、と、極めて事務的に、頭を下げた。
「私、地獄の監査局、債権回収担当のアウディトールと申します。本日は、先日、期限を迎えました、契約番号六六六-B、『ピクルスレシピ契約』の、資産差し押さえの件で、ご挨拶に伺いました」
その、あまりに丁寧で、あまりに場違いな口調。
悪魔は、そこにいた。
だが、それは、物語に出てくるような、恐怖の象徴ではなかった。
ただの、生真面目な、中間管理職だった。
「な、何者だ、貴様!」
アルトリウス騎士団長が、剣を構えて叫ぶ。
アウディトールは、鞄から、一枚の、おそろしく長い羊皮紙を取り出した。
「こちらが、正式な召喚状と、差し押さえ許可証になります。千年前の契約に基づき、本日より、当王国の皆様の『やる気』に関する所有権は、全て、我が監査局に移行いたしました。皆様には、ご不便をおかけいたしますが、何卒、ご理解と、ご協力のほど、よろしくお願い申し上げます」
その、あまりに官僚的な物言いに、誰もが、言葉を失った。
アイリスの脳内では、ノクトが、信じられないという声で、呻いていた。
『…官僚、だと…? 俺の、ポテチの未来を奪った元凶が…地獄の、お役所仕事だと…!?』
彼の怒りの矛先は、今、目の前の、くたびれた悪魔へと、一直線に向かっていた。
アウディトールは、さらに、別の書類の束を取り出した。
「なお、本件に関しまして、異議申し立てを希望される場合は、こちらの申請書三六二-Dに、必要事項をご記入の上、三枚複写で、我々の部署までご提出ください。ただし、審査には、標準的な太陽歴で、五百年から七百年ほど、お時間をいただく場合がございますので、あらかじめ、ご了承ください」
「ご、五百年…!?」
国王が、悲鳴を上げる。
それは、もはや、戦いですらなかった。
ただの、絶望的なまでの、手続きの壁だった。
物理的な攻撃も、魔法も、この悪魔には、一切通用しないだろう。
彼を守っているのは、結界でも、魔力でもない。
「契約」という、絶対的な、そして、あまりにも面倒くさい「ルール」なのだから。
この、どうしようもない膠着状態。
その中で、ノクトの思考は、活路を見出すため、猛烈な速度で回転していた。
『…フン。なるほどな。こいつは、戦闘AIではない。イベント進行を司る、ただのNPCだ。攻撃コマンドは、そもそも存在しない。…つまり、これは、武力で解決するクエストではない。特定のキーアイテムを持ってくるか、特定のフラグを立てるか…そういう種類の、面倒なクエストだ』
ノクトは、この状況を、一つの、壮大な「クソゲー」として、捉え直した。
そして、クソゲーには、必ず、製作者が意図しない「抜け道」や「不具合」が存在する。
『面白い。ならば、こちらも、ルールに則って、ゲームをプレイしてやろうじゃないか』 とは言っても、千年前のピクルスのレシピなど、時の流れの中で、とっくに失われている。
返済しようにも、返済する現物が無かった。
ノクトは、彼の魔力スキャンの範囲を、王国全土へと、再び広げた。
ノクトの瞳が、ゲーマーとして、そして、この世界の不具合を見つけ出す、デバッガーとしての、危険な輝きを放った。
『…新人。国王に伝えろ。少し、時間を稼げ、と』
(神様…?)
『この事件の契約書が、全ての人間に作用する、という前提が、そもそも、間違っている可能性がある。どんなゲームにも、システムの穴を突く、イレギュラーな存在はいるものだ』
ノクトは、彼の魔力スキャンの範囲を、王国全土へと、再び広げた。
今、探しているのは、魔力の流れではない。
この、悪魔の契約という、絶対的な「ルール」から、逸脱している存在。
この、王国全体を覆う「やる気ゼロ」の状態異常にかかっていない、規格外の魂を。
モニターに、王国全土の人々の、魔力オーラが、無数の光点となって表示される。
その、ほとんどが、生気を失った、灰色の光を放っている。
ノクトは、その灰色の光の海の中から、違う色で輝く光を探し始めた。
それは、広大な砂漠の中から、たった一粒の、ダイヤモンドを探し出すような、途方もない作業。
だが、彼の、神の領域にある情報処理能力と、何よりも、ポテチへの執念が、それを可能にする。
アイリスは、脳内に響く、ノクトの、静かな、しかし、確かな闘志を感じていた。
物理的な戦いは無い。
だが、この事件をクリアするための、神による、壮大な「デバッグ作業」は、今、始まったばかりだった。