第三十七話 そして聖女の平穏(?)は続く
約束された「一週間のポテチ休暇」は、夢のように過ぎ去っていった。
ノクトからの理不尽な指令も、貴族からの虚しい社交もない、文字通り「何もしなくていい」至福の時間。
聖女アイリスは、その天国のような日々を、心ゆくまで満喫していた。
そして、休暇最後の日。
自室のベッドで目覚めた彼女は、自分の心と体が、驚くほど軽くなっているのを感じていた。
あの、全てを蝕んでいた鉛のような倦怠感は、完全に消え失せ、代わりに、清々しい活力が内側から湧き上がってくる。
(よし…! やりましょう!)
久しぶりに感じた、その前向きな感情。
あの悪魔の契約によって奪われていた「やる気」が、今、確かに、自分の心に戻ってきている。
アイリスは、これから始まる聖女としての日々を、晴れやかな気持ちで迎えようとしていた。
侍女が、今日のスケジュールが書かれた羊皮紙を、恭しく、差し出してくる。
「アイリス様、本日の、ご予定でございます」
「ええ、ありがとう」
アイリスは、にこやかに、その羊皮紙を、受け取った。
そして、その、びっしりと書き込まれた、おびただしい文字の量に、目を、見開いた。「……………え?」
羊皮紙には、信じられないほどの数の、予定が、詰め込まれていた。
午前九時、隣国からの使節団との、歓迎式典。
午前十時、貴族のご婦人方との、定例お茶会。
午前十一時、同じく、別の派閥の貴族のご婦人方との、緊急お茶会。
正午、王国騎士団の、特別訓練の、視察。
午後一時、王立魔術学院の、新校舎落成式典への、出席。
午後二時、商業ギルドからの、新商品発表会への、来賓としての参加。
午後三時、王都の孤児院への、慰問。
午後四時、国王陛下主催の、ガーデンパーティー。
午後五時、六時、七時…。
予定は、深夜まで、分刻みで、びっしりと、埋め尽くされている。
彼女の、平穏な日常は、一夜にして、地獄の戦場へと、変貌していた。
「…こ、これは、一体、どういうことですか…?」
アイリスの、震える問いに、侍女は、心底、嬉しそうな顔で、答えた。
「はい、アイリス様! 皆様、やる気を、取り戻されたのです! それはもう、素晴らしいことでございます!」
そうなのだ。
王国に、活気が戻った。
それは、同時に、あらゆる人々の活動が、以前の、数倍、数十倍に、活発化したことを、意味していた。
貴族たちは、やる気に満ち溢れ、これまで以上に、派閥争いと、社交に、精を出すようになった。
その結果、お茶会の数は、三倍に増えた。
国王もまた、やる気に満ち溢れ、これまで以上に、式典や、パーティーを、開催するようになった。
その結果、聖女の、公的な出番は、五倍に増えた。
騎士団は、やる気に満ち溢れ、これまで以上に、過酷な訓練に、明け暮れている。
その、士気高揚のため、聖女の視察は、毎日、必須となった。
ジーロスは、やる気に満ち溢れ、ピンクとゴールドの校舎の次に、プラチナとダイヤモンドで、新たな校舎を建ててしまった。
その、落成式典に、聖女が出席しないわけにはいかない。
そして、何よりも、厄介だったのが、あの、不徳の神官だった。
テオは、やる気に満ち溢れ、あの「聖女の涙」ピクルスに続き、『聖女のため息』という、ただの空き瓶を、新たな商品として、売り出してしまったのだ。
その、新商品発表会に、モデルである聖女本人が顔を出さないわけにはいかないという、あまりに理不尽な論理。
アイリスは、その、絶望的なまでに、長いリストを、ただ、呆然と、見つめていた。
やる気は、ある。
だが、その、戻ってきた「やる気」を、遥かに凌駕する、物理的な業務の量。
悪魔の契約によって、心を蝕まれていた、あの日々。
そして、王国全体の、過剰なまでの「やる気」によって、体を蝕まれようとしている今日。
(…どちらが、幸せ、なのでしょうか…)
彼女は、遠い目で、窓の外を、見つめた。
その、彼女の、僅かな休息の時間を、無慈悲に打ち破るかのように、脳内に、あの、忌まわしき、しかし、どこか聞き慣れてしまった声が、響き渡った。
『―――おい、新人。休暇は、終わったようだな』
ノクトだった。
その声は、至高のポテチに満たされた、満足感と、そして、新たなゲームへの、期待に、満ち溢れていた。
『次の、クエストだ。王国の西で、新たな、限定ポテチの噂を、聞いた。…『幻のトリュフ塩味』だ。…さあ、行くぞ。準備は、いいか?』
「……………」
アイリスは、固まった。
そして、ゆっくりと、天を仰いだ。
(…ノクト様…。悪魔は、いなくなりましたが…)
彼女の心に、悪魔アウディトール以上に、理不尽で、厄介な存在の顔が、浮かび上がっていた。
(…私の、本当の敵は、いつだって、あなた様、なのですね…)
その日の、夕暮れ。
全ての、公務(という名の、地獄)を、こなし終え、もはや抜け殻のようになったアイリスは、王城のテラスで、一人、風に当たっていた。
そこに、二つの見慣れた人影が、やってきた。
「ひひひ…! よう、アイリス! 『聖女のため息』、今日も、完売だったぜ! お前の、ため息は、金になるなあ!」
「アイリス! 見てください! 今日も、虹色のお花畑は、見つかりませんでした! ですが、とっても、綺麗な、夕焼けです!」
テオと、シルフィだった。
相も変わらず、強欲な男と、相も変わらず、天然なエルフ。
アイリスは、その、あまりに、変わらない二人の姿に、ふっと、口元が緩んだ。
「…そう、ですか。それは、何よりです」
彼女の、その、疲れ果てた、しかし、どこか、穏やかな笑顔。
テオは、その顔を見て、にやりと、笑った。
「ひひひ…。なんだ、アイリス。…いい顔、してんじゃねえか」
「…え?」
「やる気がなくて、死んだ魚みてえな目をしてた、お前より。…今の、その、死ぬほど疲れてるが、それでも、なんとか立ってやがる、お前の方が、よっぽど、『聖女様』らしいぜ」
その、あまりに、テオらしくない、不器用な、賛辞。
アイリスは、少しだけ、目を見開いた。
そして、ぷい、と顔をそむける。
「…うるさい、です」
彼女の、頬は、ほんのりと、赤く染まっていた。
やる気は、ある。
だが、平穏は、ない。
聖女の苦悩は、形を変えて、これからも続いていくのだろう。
ノクトの、理不尽な指令に振り回され、貴族たちの、面倒な社交に付き合わされ、そして、この二人の規格外の仲間たちに、頭を悩ませながら。
だが、それでも。
あの、全ての色を失った、灰色の世界よりは、きっと、ずっと、いい。
アイリスは、夕焼けに染まる、活気に満ちた王都の街並みを、見下ろした。
そして、心の底から、ほんの少しだけ、思った。
「…まあ、これも、悪くは、ない、かもしれませんね」
彼女の、その、小さな、前向きな呟きは、隣で、「夕焼け味のため息、か…。いや、それじゃ、意味が分からねえな…」と、真剣に次の商品を考えている、詐欺師の耳には、届かなかった。
その、あまりに馬鹿馬鹿しい独り言と、真剣な横顔のギャップに、アイリスは、ついに、堪えきれなくなった。
「…ふふっ」
一度こぼれた笑いは、もう、止まらなかった。
「あ、はは…。ふふふ、あははははっ!」
聖女の、久しぶりの、心からの笑い声が、活気を取り戻した王都の空に、どこまでも、響き渡っていった。




