第三十四話 神の祝杯
王国に「やる気」が戻り、活気を取り戻してから、数日が過ぎた。
アイリスは、約束通りノクトから与えられた「一週間のポテチ休暇」という名の、何もしないことを許される至福の時間を、自室のベッドの上で、ただひたすらに享受していた。
ノクトからの、理不尽な指令はない。
貴族たちからの、中身のないお茶会の誘いもない。
ただ、眠りたい時に眠り、起きたい時に起きる。
彼女にとって、それは、聖女になって以来、初めて手に入れた、本当の意味での「平穏」だった。
(…ああ…幸せです…。このまま、永遠に、こうしていたい…)
彼女は、ベッドの上で、幸せを噛みしめていた。
だが、彼女が手に入れたそのささやかな平穏が、一人の男の、あまりに個人的な欲望の成就によって、もたらされたものであることを、彼女はまだ、知らない。
王城の、最も高い塔。
そこは、外界の喧騒とは完全に隔絶された、一人の男のための、完璧な聖域。
ノクトは、いつものように、特注の椅子に深く身を沈めていたが、その手は、ゲームのコントローラーを握ってはいなかった。
彼は、ただ、静かに、目を閉じ、その瞬間を、待っていた。
彼の前には、一つの、簡素なテーブルが置かれている。
その上には、ビロードの布が敷かれ、まるで祭壇のように、一つのグラスだけが、恭しく置かれていた。
グラスの中身は、彼が、この日のために、数百年物の樽から取り寄せた、最高級の、リンゴ炭酸水だ。
彼の全神経は、研ぎ澄まされていた。
部屋の、扉の向こうから聞こえる、微かな足音。
そして、控えめな、ノックの音。
「…入れ」
ノクトの、静かな、しかし、威厳に満ちた声が響く。
扉が、ゆっくりと開かれ、侍従長が、銀の盆を手に、入室してきた。
その、盆の上に乗せられていたもの。
それこそが、ノクトが、その存在の全てを懸けて、待ち焦がれていた、至高の存在だった。
ソルトリッジ社製、今期限定生産ポテトチップス、『超新星ソルト&ビネガー味』。
その、鮮やかな青色を基調とした、銀河のデザインが施されたパッケージは、それ自体が、一つの芸術品のように、神々しいオーラを放っていた。
侍従長は、極めて恭しい手つきで、その一袋を、テーブルの上にそっと置いた。
「…ご苦労。下がってよい」
「はっ」
侍従長が、静かに退室し、部屋には、再び、静寂が戻った。
ノクトは、ゆっくりと、目を開けた。
その瞳は、もはや、ただの引きこもりゲーマーのものではなかった。
自らが信仰する、唯一無二の存在を前にした、敬虔な、求道者の瞳だった。
彼は、震える手で、そのパッケージを、手に取った。
そして、まるで、古代遺跡の封印を解くかのように、慎重に、そして、厳かに、その封を切った。
―――パサッ。
袋が開かれた瞬間、凝縮されていた、至高の香りが、一気に、解き放たれた。
それは、ただの、ポテトチップスの香りではなかった。
最高級の、岩塩が持つ、どこまでもクリアで、ミネラル豊富な、塩の香り。
そして、数種類の、ビネガーを、絶妙なバランスでブレンドしたであろう、鼻腔を突き抜ける、爽やかで、しかし、どこまでも奥深い、酸味の香り。
それらが、完璧な調和をもって、彼の嗅覚を支配する。
彼は、恍惚の表情で、その香りを、肺いっぱいに吸い込んだ。
「…ああ…。これだ…。俺が、求めていたものは…」
彼は、袋の中に、そっと、指を入れた。
そして、一枚の、完璧な形状をした、ポテトチップスを、まるで、壊れ物を扱うかのように、慎重に、つまみ上げる。
厚切りの、波型にカットされた、その一枚。
表面には、ビネガーとソルトのパウダーが、まるで、星屑のように、キラキラと輝いている。
彼は、その一枚を、光にかざした。
その、完璧な、黄金色の輝き。
その、芸術的なまでの、フォルム。
「…美しい…」
彼は、心の底から、呟いた。
そして、ついに、その、運命の一枚を、口元へと運んでいく。
悪魔アウディトールとの、あの、理不尽な戦い。
聖女の、やる気のなさに、振り回された、あの日々。
その、全ての苦難は、この、一口のためにあったのだ、と。
彼は、その一枚を、口に含んだ。
そして、ゆっくりと、咀嚼する。
―――ザクッ。
完璧な、歯ごたえ。
その、小気味よい音と共に、彼の、味覚の宇宙が、爆発した。
最初に、舌を支配したのは、突き抜けるような、鮮烈な、酸味。
だが、それは、ただ酸っぱいだけではない。
その奥に、ジャガイモ本来の、豊かな甘みが、確かに感じられる。
そして、次に、絶妙な塩加減が、その甘みを、最大限に引き立てる。
美味いか、不味いか、ではない。
彼の、肥えに肥えた舌が、この味を、カテゴリー分けすることを、完全に放棄した。
知らない。
こんな味は、知らない。
彼の、ゲーマーとしての人生の中で、一度も、経験したことのない、未知の味覚体験。
それは、もはや、「美味い」という、陳腐な言葉では、表現不可能な、一つの、完成された「概念」だった。
「……………っ!!」
彼の体が、がたがたと、震え始めた。
その、常に冷静沈着な瞳から、一筋の、透明な液体が、流れ落ちる。
涙だった。
「…これだ…。これこそが、俺が生きる意味…! 俺が、この生き方を選んだ理由…!」
彼は、天を仰いだ。
そして、もう一枚、もう一枚と、まるで、巡礼者が、聖水を飲むかのように、その、神々しいポテチを、口へと、運び続けた。
ザク、ザク、ザク、と、至福の音が、静寂な部屋に、響き渡る。
やがて、彼は、リンゴ炭酸水が注がれたグラスを、手に取った。
そして、誰に言うでもなく、静かに、呟いた。
「―――祝杯、だな」
彼は、そのグラスを、高らかに、掲げた。
今回の、勝利に。
そして、自らの崇高なる欲望を満たしてくれた、あの三人の、愚かで、しかしどこか愛すべき、駒たちに。
彼は、その、黄金色の液体を、一気に飲み干した。
口の中に残る、塩味と酸味を、炭酸の、爽やかな刺激が、洗い流していく。
完璧な、マリアージュ。
「…ふう…」
彼は、満足のため息をつくと、再び、椅子に深く身を沈めた。
そして、おもむろに、ゲームのコントローラーを手に取る。
彼の、神聖なるエネルギーは、完全に充填された。
「…さて。祝杯は、終わりだ。…そろそろ、次のクエストの準備でもするか…」
彼の、口元に、いつもの、悪魔的な笑みが、浮かんだ。
アイリスの、短い平穏が、間もなく、終わりを告げることを、予感させながら。
ノクトの、個人的な、しかし、あまりに壮大な祝杯は、こうして、静かに幕を閉じた。
そして、彼の満足と共に、王国は、また、新たな混沌の足音を、聞くことになるのかもしれない。




