第三十三話 王国の目覚め
地獄の監査局、局長代理、悪魔アウディトールが、一瓶のイチゴピクルスの前に、その論理と存在を崩壊させてから、数秒後。
彼が消滅した跡に残された、黒い革のファイル――千年前の呪いの契約書が、まるで風化したかのように、さらさらと、黒い粒子となって霧散した。
その、最後の粒子が、完全に消え失せた、まさにその瞬間だった。
王国全土で、奇跡が起きた。
王都ソラリア、大通り。
臨時休業の張り紙を出し、店の奥で、ただぼんやりと天井を眺めていたパン屋の主人は、突如として、雷に打たれたかのように、ベッドから跳ね起きた。
「…はっ!? い、いかん! 俺は、一体、何をしていたんだ! 新作の、リンゴとシナモンのデニッシュの試作が、まだ途中だったというのに! うおおおおおっ! 燃えてきた! なんだか、無性に、パンが焼きたいぞ!」
彼は、まるで何かに取り憑かれたかのように、厨房へと駆け込んでいく。
眠っていた彼のパン職人としての魂が、今、再び、熱い炎を取り戻したのだ。
王立魔術学院。
テラスで、虚空を見つめ、「美とは、何か…」などと、らしくない哲学的な問いに沈んでいたジーロスは、突如として、自らの頬を、ぱん、と強く叩いた。
「…私としたことが、どうかしていた! 美とは、心の中にあるもの、だと!? 馬鹿な! 美とは、創造するもの! 形にするもの! そして、他者に、強制するものだ!」
彼の目に、いつもの、狂気の芸術家の輝きが戻っていた。
「そうだ! この校舎は、まだ、美しくない! ピンクでは、足りん! 次は、ゴールドだ! 全ての壁を、純金でコーティングし、さらに、七色の宝石を、モザイク状に埋め込むのだ! それこそが、究極の美! それこそが、私の、芸術だ!」
彼は、設計図を手に取り、再び、学院の美化という名のテロ活動へと、その情熱を燃やし始めた。
そして、王国騎士団、第一訓練場。
木剣を枕に、穏やかな昼寝を楽しんでいた騎士たちは、まるで同期されたかのように、全員が一斉にその場から飛び起きた。
「…はっ!?」
「…な、なんだ…? 俺は、今まで、何を…?」
「…そうだ! 訓練だ! 訓練を、しなければ! ギル教官の、あの、愛のある檄に応えなければ!」
彼らの目に、戦士の闘志が、再び、宿っていた。
まるで、長い夢から、覚めたかのように。
「うおおおおおっ! 俺は、やるぞ! この城壁を、二百回、持ち上げてみせる!」
「腕立て伏せ、千回だ!」
その、あまりの、変わりように、ただ一人、呆然と、その光景を眺めていたギルは、涙を流していた。
「…おお…! 皆…! やっと、戻ってきてくれたのでありますな…!」
彼の、熱い涙。
だが、次の瞬間、その涙は、激情の炎へと変わった。
「…だが、たるんどる! 貴様ら、まだ、目が覚めたばかりのひよっこのようだ! 全員、この城を、肩車して、スクワット、三千回でありますぞ!」
理不尽な檄が、再び、訓練場に、響き渡った。
王国は、その「やる気」を、完全に取り戻したのだ。
◇
一方、その、奇跡の中心にいた、三人の英雄たちは。
アウディトールが消滅した、元『最終監査・品質保証課』のオフィスで、ただ、呆然と、立ち尽くしていた。
「…おい。…なんか、外が、急に騒がしくなったぜ」
テオが、壁に耳を当てて、呟く。
「わあ! なんだか、とっても、楽しそうな声がします! きっと、お祭りが、始まったのですね!」
シルフィが、無邪気に、手を叩いた。
アイリスは、もはや、何も感じなかった。
ただ、ひたすらに、疲れていた。
(…終わった…。やっと、終わったのですね…)
彼女は、その場で、崩れ落ちるように、座り込んだ。
その、彼女の脳内に、久しぶりに、ノクトの、上機嫌な声が、響き渡った。
『―――やったな、新人! よくやった!』
その声は、これまでにないほど、弾んでいた。
『たった今、ソルトリッジ社の、生産ラインが、完全に復旧したとの、情報が入った! これで、俺の、『超新星ソルト&ビネガー味』が、ようやく手に入る…! お前の、今回の働き、高く評価しよう!』
(…はあ…。それは、ようございました…)
アイリスは、力なく、答えた。
『よし! 報酬だ! 約束通り、一週間のポテチ休暇を、お前に与える! …だが、その前に、だ』
ノクトの声が、真剣なトーンに変わる。
『…祝杯だ。祝杯を、あげるぞ。…とりあえず、いつもの「厚切りコンソメ味」を、大至急、五十袋、国王に献上しろ。話は、それからだ』
「……………」
アイリスは、固まった。
一週間の、休暇。
だが、その前に、特大の、パシリの任務。
彼女は、ゆっくりと、天を仰いだ。
(…神様…。悪魔は、いなくなりましたが…)
彼女の心に、悪魔アウディトール以上に、理不尽で、厄介な存在が、浮かび上がっていた。
(…私の、本当の敵は、あなた様、なのかもしれません…)
テオは、ほくそ笑んでいた。
「ひひひ…! 王国も、元に戻ったようだし、俺様の、報酬交渉も、始めねえとなあ!」
シルフィは、お腹をさすっていた。
「なんだか、お腹が空きました! 虹色のお花畑は、どこにあるのでしょうか?」
そして、アイリスは、ただ、ひたすらに、虚無を感じていた。
「…もう、何も、考えたく、ありません…」
こうして、王国に、「やる気」は戻った。
だが、その、王国を救ったはずの聖女の心だけは、以前よりも、さらに深く、どん底の「無気力」へと、沈んでいくのだった。
彼女の、本当の戦いは、まだ、始まったばかりなのかもしれない。
地獄の迷宮から、元のオフィスへと戻ってきた三人は、その、あまりの温度差に、ただ呆然と、立ち尽くすしかなかった。
彼らの、長くて、面倒くさくて、そして、どこか、奇妙で、楽しい冒険は、今ようやく、その終わりを告げたのだった。




