第三十二話 悪魔の一口
誰もが、失敗を確信した、その瞬間。
シルフィの純粋な感性だけが生み出した「イチゴピクルス」は、神々しいまでの芳香を放ち、桜色にきらきらと輝いていた。
それはもはや、ただの酢漬けではなかった。
錬金術の果てに生まれた賢者の石のように、常識を超えた存在感を放っていた。
「…な、なんだ、これは…?」
膝から崩れ落ちていたテオは、呆然と、その光景を見つめていた。
彼の詐欺師としての経験と知識の、完全に外側にある現象。
脳が、理解を拒絶していた。
部屋の隅で全てを諦めていたアイリスでさえ、そのありえない光景に、虚ろだった瞳を、わずかに見開いている。
『…おい、新人。何が起きている…? 俺のモニターに、計測不能の、未知のマナ反応が表示されているのだが…。まさか、あのエルフ、無から、神話級のアイテムでも錬成したのか…?』
アイリスの脳内に響くノクトの声もまた、困惑に満ちていた。
そして、その異常事態は、審査員席に座る、鉄壁の官僚、アウディトールさえも、動揺させていた。
「…ば、馬鹿な…。ありえない。ただのピクルスから、このような、多幸感をもたらす香りが、発生するはずが…」
彼の、千年に及ぶ知識と経験をもってしても、目の前の現象は、説明不可能だった。
だが、その動揺を、彼は、すぐさま、冷徹な官僚の仮面の下に隠した。
「…フン。見た目や、香りで、ごまかそうという、小細工ですか。いいでしょう。ですが、審査の基準は、あくまで『味』。それも、『初代国王のレシピを、超えているか否か』。その一点です」
彼は、自らの威厳を保つように、咳払いを一つした。
その時だった。
砂時計の、最後の、一粒の砂が、静かに、落ちた。
調理時間、一時間の、終了だった。
「…時間、ですね」
シルフィが、こくん、と首を傾げた。
「さあ、提出したまえ。その、ふざけた色の、液体を」
アウディトールの、その声に、テオは、はっと我に返った。
「お、おう…!」
彼は、まだ半信半疑のまま、その、桜色に輝くピクルスの瓶を、アウディトールの前の、審査用のテーブルへと運んだ。
アウディトールは、その瓶を、値踏みするように、じろじろと眺める。
そして、蓋を開けた瞬間、凝縮されていた、甘く芳醇な香りが、一気に解き放たれた。
アウディトールの、眉間の皺が、ほんの僅かに、深くなる。
彼は、銀のフォークを手に取ると、瓶の中から、きゅうりと共に、鮮やかな赤色を保ったままの、一粒の、苺を、取り出した。
「…フン。邪道だ」
彼は、そう、吐き捨てた。
「ピクルスとは、野菜の、そのものの味を、酢と塩で引き立てるもの。果物の、安易な甘さに頼るなど、言語道断。初代国王の、伝統に対する、冒涜ですらある」
その、あまりに、理不尽な、言い掛かり。
「て、てめえ…! まだ、食ってもいねえくせに、ケチつけやがって!」
テオが、激昂する。
だが、アウディトールは、全く、動じなかった。
彼は、その、イチゴピクルスを、口元へと運んでいく。
テオは、固唾を飲んで見守った。
アイリスも、シルフィも、息を止めて、その瞬間を見つめている。
王国の、そして、彼らの魂の運命が、今、この、悪魔の一口に懸かっていた。
アウディトールは、その、イチゴピクルスを、一口、食べた。
咀嚼する。
そして、
―――固まった。
その、完璧なポーカーフェイスが、まるで、時間が止まったかのように、静止した。
彼の、口の中で、何が起きているのか。
テオたちには、知る由もなかった。
それは、味覚の、革命だった。
最初に、舌を刺激したのは、千年物のワインビネガーが持つ、キレのある、しかし、どこまでもまろやかな酸味。
次に、苺の、凝縮された果実の甘みが、その酸味を優しく包み込む。
そして、最後に、秘伝のハーブが持つ複雑な香りが、鼻腔を駆け巡り、甘みと酸味を完璧に調和させる。
美味いか、不味いか、ではない。
彼の脳が、この味を、カテゴリー分けすることを、完全に放棄した。
知らない。
こんな味は、知らない。
彼の、数千年に及ぶ人生の中で、一度も経験したことのない、未知の味覚体験。
初代国王の、あの、完璧だと思っていたレシピが、まるで、子供の遊びのように、陳腐に感じられる。
これは、もはや、「改善」などという、生易しいレベルの話ではなかった。
全く、新しい、概念の、創造だった。
「……………っ!!」
アウディトールの体が、がたがたと震え始めた。
その、度のきつい眼鏡の奥の瞳が、これまでにないほど、大きく見開かれている。
「…こ、これは…! これは、なんだ…!? 美味いか、どうかは、分からん…! 分からんが…!」
彼の、官僚としてのプライド。
ルールを、絶対視する、その魂。
それが、今、目の前の、この、ちっぽけな赤い果物によって、根底から揺さぶられていた。
「…間違いなく、『改善』、されている…! それも、私の、理解と、論理を、遥かに超える形で…!」
彼は、頭を、抱えた。
認めたくない。
だが、認めざるを得ない。
ルールは、絶対なのだ。
そして、そのルールに、このイチゴピクルスは、完璧に、勝利してしまった。
「ぐ…! ぐあああああああっ!」
彼の体から、黒い、霧のような魔力が、噴き出し始めた。
契約の執行者としての、彼の存在そのものが、この、予期せぬ「無効化」によって、崩壊を始めているのだ。
「…我が、完璧な、監査記録に…! このような、非論理的な結末が、記されるなど…! あっては、ならん…! あっては、ならんのだあああっ!」
彼の、悲痛な、しかし、どこか満足げな絶叫が、響き渡る。
「―――ルールに厳格な我が身としては…! これを、認めざるを、得ない…!」
彼は、最後の力を、振り絞り、高らかに、宣言した。
「契約は―――無効だぁあああああっ!!」
その言葉と同時に、彼の体は、まるで、風に吹かれた砂のように、さらさらと崩れ始めた。
そして、その、崩れゆく、最後の瞬間。
彼は、確かに、笑っていた。
「…見事、でしたよ…。非論理的な、魂たちよ…」
その、最後の言葉を残して、地獄の監査局、局長代理、悪魔アウディトールは、完全に消滅した。
後に残されたのは、一枚の古びた契約書と、ほのかに甘酸っぱい香りを漂わせる、イチゴピクルスの瓶だけだった。
静寂。
やがて、テオの、震える声が、響いた。
「…か、勝った…のか…?」
「…みたい、ですね…」
アイリスが、力なく、答える。
シルフィだけが、きょとんとして、言った。
「あの人、とっても満足そうな顔で、消えていきましたね!」
史上最もくだらない最終決戦は、こうして幕を閉じた。
王国を、そして、ノクトのポテチの未来を救ったのは、英雄の剣でも、聖女の祈りでもない。
ただ、一人の、天然エルフが、偶然と、「可愛い」という感性だけで生み出した、一瓶の、奇跡のピクルスだったのだ。




