第三十一話 奇跡のピクルス
史上最も混沌として、そして最低な、料理決戦の火蓋が、無情にも切って落とされた。
審査員席では、この迷宮の主である悪魔アウディトールが、表情一つ変えずに腕を組み、冷徹な視線で調理台を見つめている。
彼の手元には、砂時計が置かれ、制限時間である一時間が、刻一刻と減っていくのが見えた。
「よし、始めるぞ、シルフィ! いいか、これはただの料理じゃねえ! 王家の伝統という、巨大な既存勢力に、俺たちのベンチャー精神を叩きつける、革命だ!」
指揮をとるテオは、料理経験ゼロにもかかわらず、まるで敏腕プロデューサーのように、自信満々な態度で、シルフィに檄を飛ばしていた。
彼の頭の中では、もはやピクルス作りは、壮大なビジネスプロジェクトへと変換されていた。
「まず、現状の分析からだ! アウディトール! その『王家の公式なピクルスのレシピ』とやらを、開示しろ!」
「…よろしいでしょう」
アウディトールは、どこからともなく、一枚の古びた羊皮紙を取り出した。
そこには、初代国王が悪魔との契約で手に入れたという、門外不出のレシピが記されている。
「きゅうり、最高級の岩塩、千年物のワインビネガー、そして、数種類の秘伝のハーブ…。ひひひ、なるほどな。王道にして、完璧な布陣だ。だがな、完璧すぎるものは、逆に、脆い! 技術革新の余地が、ないからな!」
テオは、したり顔で頷いた。
「いいか、シルフィ! 俺たちの目的は、『改善』だ! つまり、この完璧なレシピに、何か一つ、誰もが予想しなかった『付加価値』を加えるんだ! 味、香り、見た目、なんでもいい! 奴らの想像の、斜め上を行くんだよ!」
「はい! 斜め上、ですね!」
シルフィは、元気よく返事をしたが、そのエメラルド色の瞳は、全く何も理解していない、純粋な輝きを放っていた。
調理が始まった。
テオの、矢継ぎ早な、しかしどこか見当違いな指示が飛ぶ。
「まず、きゅうりを切れ! だが、ただ切るんじゃねえ! 素人のように、実直に切るな! もっとこう、アーティスティックにだ! 断面に、物語性を、持たせろ!」
「はい! 物語、ですね!」
シルフィは、言われるがままに、包丁を握る。
だが、彼女が作り出したのは、物語性のある断面ではなく、厚さがバラバラで、所々つながっている、およそプロの仕事とは思えない、素人以下のきゅうりの輪切りだった。
「ち、違う! そうじゃねえ! …まあ、いい! 次だ! 塩を振れ! だが、ただ振るな! 天空から舞い降りる、聖女の祝福のように、だ!」
「祝福、ですね!」
シルフィは、塩の入った壺を、高く掲げ、ぱらぱらと、楽しげに塩を振りまいた。その半分以上は、調理台の外へと、こぼれていった。
テオの額に、青筋が浮かぶ。
(…だめだ、こいつ。抽象的な指示は、一切、通じねえ…!)
彼は、戦略を切り替えた。
「…よし、シルフィ! もう、俺の言うことは、聞かなくていい!」
「え?」
「お前の、本能のままに、動け! お前が、『こうすれば、もっと、素敵になる』と、思うものを、何か一つだけ、あの、巨大な食材棚から、選んでこい!」
それは、テオの、苦肉の策だった。
シルフィの、常識外れの天然が、これまで、数々の奇跡を起こしてきた。
ならば、この、絶望的な料理決戦においても、何か、化学反応が起きるかもしれない。
彼は、半分、神頼みのような気持ちで、彼女の、その予測不能な感性に、全てを賭けたのだ。
「はい! 分かりました!」
シルフィは、嬉しそうに、巨大な食材棚へと、駆け寄った。
棚には、世界中から、いや、おそらくは地獄や天界からさえ集められたであろう、見たこともないような、珍しい食材が、星の数ほど、並べられている。
テオは、固唾を飲んで、彼女の選択を見守った。
(頼む…! 何か、とんでもない、高級食材を…! 百年に一度しか採れない、幻のスパイスとか、そういうやつを、選んでくれ…!)
だが、シルフィの目は、そのような、地味なものには、向かなかった。
彼女の、エメラルド色の瞳が、棚の一番上で、ひときわ鮮やかな色彩を放つ、一つの果物に、釘付けになった。
それは、太陽の光をそのまま閉じ込めたかのように、真っ赤に輝く、大粒の苺だった。
「わあ…!」
シルフィの、口から、感嘆のため息が漏れた。
「…なんて、綺麗なのでしょう…。まるで、宝石みたいです…」
彼女の頭の中では、すでに、一つの、完璧な結論が、導き出されていた。
(この、茶色くて、地味なピクルスに、この、真っ赤で、可愛い苺さんを入れれば、きっと、とっても、カラフルで、素敵になるに、違いありません!)
味や、相性など、彼女の思考には、一切、存在しない。
ただ、ひたすらに、「可愛い」から。
彼女は、その、山盛りの苺が入った籠を、嬉しそうに、抱きしめると、調理台へと、戻ってきた。
「…おい、シルフィ…。そ、そいつは、なんだ…?」
テオの、引き攣った声が、響く。
「はい! とっても、可愛い、苺さんです! これを、入れましょう!」
「馬鹿野郎おおおおおおおっ!!」
テオの、悲痛な絶叫が、こだました。
「誰が、ピクルスに、苺なんざ、入れるか! それは、デザートだろうが! 酢と、塩と、ハーブの中に、苺を入れたら、どうなるか、分からんのか! ただの、甘酸っぱい、ぐちゃぐちゃの、ゴミになるだけだぞ!」
だが、シルフィは、全く、聞いていなかった。
彼女は、テオの絶叫を、ただの応援歌か何かと勘違いしたのか、にこやかに、その、真っ赤な苺を、次々と、きゅうりが入った、漬け込み用の瓶の中へと、放り込んでいく。
トプン、トプン、と、無慈悲な音が響く。
真っ赤な苺が、透明な酢の海へと、沈んでいく。
「あ…ああ…」
テオは、その場で、膝から崩れ落ちた。
「…終わりだ…。俺の、ピクルス独占販売権が…。俺の、莫大な、富が…」
部屋の隅で、その一部始終を、虚ろな目で見ていたアイリスもまた、深いため息をついた。
(…そうですね…。終わりましたね…。もう、どうでも、いいです…)
脳内のノクトも、完全に沈黙している。
おそらく、あまりのクソゲー展開に、回線を切断したのだろう。
誰もが、失敗を確信した。
審査員席のアウディトールでさえ、その眉間の皺を、ほんの少しだけ、深くしたように見えた。
その時だった。
―――トプン。
シルフィが、最後の一粒の苺を、瓶の中へと、落とした、まさにその瞬間。
瓶の中の、透明だったはずの液体が、まるで、魔法のように、ほんのりと、淡い、桜色に、染まり始めたのだ。
「…え?」
テオが、顔を上げる。
それは、ただの色水ではなかった。
苺の、甘く、芳醇な香りと、ワインビネガーの、すっきりとした酸っぱい香り、そして、千年物の秘伝のハーブが持つ、複雑で、奥深い香り。
その、本来であれば、決して交わるはずのない三つの香りが、奇跡的なバランスで、混じり合い、これまでに、誰も嗅いだことのない、神々しいまでの、芳香となって、部屋中に、満ち満ちていったのだ。
「…な、なんだ、この匂いは…?」
テオは、呆然と、その瓶を見つめた。
瓶の中では、桜色の液体が、まるで生きているかのように、きらきらと輝いている。
それは、もはや、ただのピクルスではなかった。
失敗作のはずだった、その一瓶は、今、誰も予想しなかった、奇跡の産物へと、変貌を遂げようとしていた。
シルフィの、純粋な「可愛い」という感性だけが生み出した、偶然の奇跡。
史上最低の料理決戦は、誰もが予想しなかった、奇跡のフィナーレへと、向かおうとしていた。




