第三十話 史上最低の料理決戦
「…む、無効化条項…だと…?」
アウディトールの、完璧なポーカーフェイスが、完全に崩壊していた。
自らの絶対的な権威の根拠であるはずの契約書に、初代国王の食い意地が書き加えた、あまりに馬鹿馬鹿しい「無効化条項」。
それは、彼の数千年に及ぶ官僚人生において、最大の汚点であり、想定外の不条理だった。
「ひひひ…! どうだ、旦那! ルールはルールだろ? あんたが、いつも、俺たちに言ってきたことじゃねえか!」
テオは、ここぞとばかりに、勝ち誇った笑みを浮かべた。
戦いの流れは、完全に、逆転した。
武力も、魔力も、もはや意味をなさない。
この勝負の行方は、ただ一本の、酢漬けの野菜に委ねられたのだ。
アウディトールは、数秒間、固まっていたが、やがて、ゆっくりと体勢を立て直した。
その顔からは、先ほどの動揺は消え、再び、冷徹な中間管理職の表情へと戻っていた。
「…ええ、その通りです。ルールは、絶対です」
彼は、自らの敗北を認めたのではなかった。
彼は、この、あまりに馬鹿馬鹿しいルールを、自らの土俵で、厳格に執行することに決めたのだ。
「よろしいでしょう。ならば、これより、最終査察を開始します。あなた方には、今、この場で、『王家の公式なピクルスのレシピ』を超える、新たなピクルスを調理していただきます」
彼が、指を鳴らすと、殺風景だったオフィスが、まるで早送りのように、変形を始めた。
床からは、清潔な調理台と、最新式の魔導コンロが出現し、壁には、ありとあらゆる調理器具が、整然と並べられていく。
そして、部屋の中央には、一人の審査員が座るための、やけに豪華なテーブルと椅子が、設置された。
「審査は、この私、アウディトールが、厳正に行います」
その、あまりに当然のような一言に、テオが待ったをかけた。
「おいおい、待った! あんたが審査員? ふざけるな! 敵であるあんたが、公平な審査なんざできるわけねえだろうが! 第三者の、中立な審査員を立てるのが、筋ってもんだろ!」
テオの、詐欺師としての、当然の抗議。
だが、アウディトールは、その言葉を、冷たく一蹴した。
「却下します」
「なっ!?」
「いいですか、テオ殿。この無効化条項の争点は、『契約時よりも、美味しくなったかどうか』。つまり、『改善』が認められるかどうか、です。その『改善』を判断できるのは、契約の、そして、その背景にある千年前の王家の味覚基準を、完全に理解している者でなければならない。そして、その基準を、この場で最も正確に、そして『ルールに則って』判断できるのは、この契約の執行責任者である、この私しかおりません」
あまりに官僚的で、あまりに理不尽な、しかし、完璧な正論だった。
「ぐ…!」
テオは、言葉に詰まった。
この男を、ルールで打ち負かすのは、不可能だ。
「調理時間は、一時間。材料は、そちらの棚にあるものを、自由にお使いいただいて、結構」
調理台の横には、世界中の食材で満たされた、巨大な棚が出現していた。
「そして、もし、あなた方が作ったピクルスが、初代国王のレシピを『改善』したと、私が、ルールに則って判断した場合、契約は無効。…ですが、もし、及ばなかった場合は…」
アウディトールの眼鏡が、キラリと光る。
「…その申し立てを不当なものとみなし、これまでの数々の規則違反に対する最終罰則として、皆様の魂は、永久に、この監査局の備品として、差し押さえさせていただきます」
それは、地獄の迷宮の最後に待ち受けていた、あまりにくだらない、しかし、あまりにリスクの高い、最終決戦のゴングだった。
「ひひひ…! 面白い! やってやろうじゃねえか! 料理なんざ、やったことはねえが、要は、新しい商品を開発するのと同じだろ! アイリス! シルフィ! お前ら、やるぞ!」
テオは、まるで歴戦の料理人のように、自信満々に、腕まくりをした。
だが、その呼びかけに、アイリスは、力なく、首を横に振った。
「…もう、無理です…。ピクルスとか、ポテチとか…。もう、何も、考えたく、ありません…」
彼女は、ふらふらと、部屋の隅に歩いていくと、その場に座り込み、壁に寄りかかって、完全に、省エネモードに入ってしまった。
『…おい、新人! ここで、ストライキか!?』
(…神様…。私には、もう、きゅうりを、見るのも、嫌です…)
脳内に響くノクトの叱責さえも、もはや、彼女には届いていなかった。
「ちっ、あの、やる気のない聖女め…! ならば、シルフィ! お前がやれ!」
「わあ! お料理ですか? 私、お手伝いします!」
この、絶望的な状況で、唯一、シルフィだけが、目を輝かせていた。
彼女は、楽しそうに、調理台へと駆け寄る。
「よし! いいか、シルフィ! 俺が、完璧なプロデューサーになってやる! 俺の言う通りに、動け! この、史上最低の料理決戦を、最高のビジネスチャンスに変えてやるぜ!」
こうして、王国の未来を懸けた、最終決戦の舞台が、整った。
指揮をとるのは、料理経験ゼロの、詐欺師。
調理するのは、やる気という概念が存在しない、天然エルフ。
そして、審査員は、ルールに厳格な、悪魔の中間管理職。
史上最も、混沌として、そして、最低な、料理決戦が、今、始まろうとしていた。




