表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/37

第三話 『神』の逆鱗

 王城の最も高い塔。

 そこは、外界の混沌とは完全に隔絶された、一人の『神』のための、完璧な聖域。

 ノクト()は、特注の椅子に深く身を沈め、目の前の巨大な魔力モニターに映し出された、壮大なファンタジー世界に没頭していた。

 新作MMORPG『フロンティア・ワールド・オンライン』。

 サービス開始から数週間、彼は、その卓越したゲームセンスと、圧倒的なまでの時間投資によって、すでにトッププレイヤーの一角に君臨していた。

「フン。この程度のダンジョン、初見でクリアできなくてどうする、雑魚どもめ」

 パーティーチャットに、初心者を煽るような、しかし的確なアドバイスを打ち込みながら、彼は、指先一つで、自らのキャラクターである「Nokuto」を華麗に操る。

 完璧な回線、完璧な環境、そして、パシリである聖女が献上する、完璧なポテチ。

 彼の引きこもりライフは、今、至上の輝きを放っていた。

 王都で、静かなる無気力が蔓延していることなど、彼の知ったことではなかった。

 いや、正確には、その予兆は、彼の世界にも、すでに現れていたのだ。

「…ん?」

 ノクトは、眉をひそめた。

 彼が所属する、サーバー内最強と名高いギルド『月光の騎士団』。

 今夜は、週に一度の、最高難易度レイドダンジョンへの挑戦日だった。

 いつもであれば、開始時間には全員が集合し、綿密な作戦会議の後、完璧な連携でダンジョンを攻略しているはずだった。

 だが、今日のパーティーチャットは、どこか、閑散としていた。

『すまん、Nokuto。なんだか今日、ログインするのが億劫で…今日のレイドはパスさせてくれ』

『私もだ。一日中、ベッドから出られなかった…』

『なんかもう、頑張ってレア装備手に入れても、虚しいだけな気がして…』

 ギルドの仲間たちから、次々と、信じられないような「やる気のない」欠席連絡が届く。

 いつもであれば、誰よりも熱心にレイドの参加を呼び掛けていたギルドマスターでさえ、『今日は、なんだか、そういう気分じゃないんだ…』という、謎のポエムのような書き込みを残して、オフラインになってしまった。

「…なんだ、こいつら。急に、集団でサボり始めたのか…?」

 ノクトは、舌打ちした。

 仕方なく、彼は野良でメンバーを募集し、ダンジョンへと挑んだ。

 だが、そこでも、異変は起きていた。

 パーティーを組んだプレイヤーたちは、皆、動きが鈍く、明らかに集中力を欠いていた。

 ヒーラーは回復のタイミングを忘れ、タンクは敵のヘイト管理を怠り、アタッカーは、ただ棒立ちになっている。

『ごめん、なんか、ボタン押すのも面倒で…』

 チャットに流れてきた、その一言に、ノクトの堪忍袋の緒が、ぷつりと、切れそうになった。

「このゲームのプレイヤー層は、一体どうなっているんだ…! 俺以外、全員、やる気がないではないか!」

 ノクトの苛立ちは、募っていった。

 だが、まだ、それは、彼の神聖なるゲームライフを根底から揺るがすほどの、絶望ではなかった。

 本当の絶望は、ゲームの世界からではなく、現実の世界から、あまりにも突然に、そして、あまりにも理不尽な形で、彼に襲いかかってきたのだ。


 その日、アイリスは、数週間ぶりに、国王レジスからの呼び出しを受けていた。

 彼女は、いつものように、完璧な聖女の笑みを浮かべながら、重い足取りで、執務室へと向かっていた。

 王国中に蔓延する「無気力」の病は、彼女の精神をも、深く蝕んでいる。

 だが、国王陛下の呼び出しを無視するほどの「やる気のなさ」は、まだ、彼女には訪れていなかった。

 執務室では、国王が、心底申し訳なさそうな、そして胃が痛そうな顔で、彼女を待っていた。

「おお、アイリスか。すまないな、またしても、『神』の使いを頼むことになってしまって…」

「いえ、これも私に与えられた、重要な任務ですので」

 アイリスは、そう言うと、携えてきた庶民的な菓子の袋(いつもの「厚切りコンソメ味」)を、恭しく国王に差し出した。

 国王は、深いため息をつきながら、その袋を受け取った。

「今日は、特に機嫌が悪くてな…。一日中、楽しみにしていた新作が、まだ届かないと、催促が止まらんのだ」

 国王が言う「楽しみにしていた新作」。

 それは、ノクト()が、その発売を、一日千秋の思いで待ち焦がれていた、ソルトリッジ社製の、新作限定ポテチ。

 その名は、『超新星ソルト&ビネガー味』。

 その発売日が、今日だったのである。

「…それで、アイリスよ。例の件、どうなっている?」

 国王が尋ねたのは、ポテチのことではない。

 王国中に広がる、謎の無気力現象についてだった。

「はっ。各地の領主からの報告をまとめましたが、状況は芳しくありません。商業、農業、そして、軍事…あらゆる分野で、生産性の低下が報告されております。ですが、原因は未だ…」

 アイリスが報告している、まさにその時だった。

 彼女の脳内に、突如として、ノクト()の、いらだった声が割り込んできた。

『…おい、新人。どうなっている。今日は、待ちに待った『超新星ソルト&ビネガー味』の発売日のはずだ。なぜ、まだ届かない? お前の手配ミスか?』

 あまりに一方的で、あまりに真剣な詰問。

 アイリスは、国王との会話を中断せざるを得なかった。

 彼女は、かろうじて残った気力を振り絞り、テオの商業ギルドのネットワークを使って、ソルトリッジ社の工場に、直接、問い合わせを行った。

 数時間後。

 彼女は、恐る恐る、その調査結果を、脳内で報告した。

(か、神様…。申し上げにくいのですが…)

『…なんだ。言え』

(『超新星ソルト&ビネガー味』ですが…その…発売が、無期延期になった、とのことです…)

 静寂。

 全ての音が消え去ったかような、完全な、沈黙。

 やがて、ノクト()の、震える声が、響いた。

『…なぜだ? 理由を、言え』

(は、はい…。工場の、従業員の方々の…その…)

 アイリスは、意を決して、報告した。

(…『やる気が、出ない』ため、だそうです…)

 ―――ゴトリ。

 塔の最上階で、何かが、床に落ちる、乾いた音がした。

 ノクト()が、手にしていたコントローラーを、無意識に、取り落とした音だった。

 アイリスの脳内に、彼の、信じられないことを聞くような、絶望に満ちた呟きが、木霊した。

『やる気…が…、出ない…?』

 その瞬間、彼の頭の中で、全ての線が、繋がった。

 ゲームの世界で、やる気をなくし、レイドをサボる仲間たち。

 現実の世界で、やる気をなくし、訓練を放棄する騎士たち。

 そして、パン屋の、あの張り紙。

 全ては、同じだったのだ。

 王国中に蔓延する、この静かなる病。

 それは、ついに、彼の、最も神聖で、最も大切な領域――彼の、生きがいである「限定ポテチ」の供給ラインを、断ち切ったのだ。

 それは、もはや、単なる「不具合(バグ)」ではない。

 それは、彼の、完璧な引きこもりライフに対する、明確な「攻撃」だった。

 セーブデータが破損した、あの悪夢の再来。

 いや、それ以上だ。

 データは、復旧すればいい。

 だが、生産されないものは、手に入れることすら、できないのだ。

 それは、存在しないはずのエンディングを、永遠に待ち続けるに等しい、無限の絶望。

 アイリスの脳内に、地獄の底から響くような、ノクト()の、静かな、しかし、絶対的な怒りの波動が、叩きつけられた。

『…どこの、どいつだ…?』

 その声は、もはや、人間のものではなかった。

 自らの世界の、根幹を揺るがされた、ノクト(創造主)の、純粋な、殺意だった。

『俺の、ポテチを…。俺の、最大の楽しみを、奪った奴は…。…絶対に、許さんッ!!』

 私怨は、再び、極致に達した。

 ノクトは、モニターに映し出された、活気のないゲームの世界を、憎悪に満ちた目で見つめた。

 彼は、自らの聖域を守るため、そして、失われたポテチの未来を取り戻すため、この、王国を蝕む「やる気ゼロ」の病の根源を、徹底的に、そして完膚なきまでに、叩き潰すことを、固く、固く、決意した。

 ノクト(ゲーマー)の怒りが、再び、この国を、新たな混沌の渦へと、巻き込もうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ