第三話 『神』の逆鱗
王城の最も高い塔。
そこは、外界の混沌とは完全に隔絶された、一人の『神』のための、完璧な聖域。
ノクトは、特注の椅子に深く身を沈め、目の前の巨大な魔力モニターに映し出された、壮大なファンタジー世界に没頭していた。
新作MMORPG『フロンティア・ワールド・オンライン』。
サービス開始から数週間、彼は、その卓越したゲームセンスと、圧倒的なまでの時間投資によって、すでにトッププレイヤーの一角に君臨していた。
「フン。この程度のダンジョン、初見でクリアできなくてどうする、雑魚どもめ」
パーティーチャットに、初心者を煽るような、しかし的確なアドバイスを打ち込みながら、彼は、指先一つで、自らのキャラクターである「Nokuto」を華麗に操る。
完璧な回線、完璧な環境、そして、パシリである聖女が献上する、完璧なポテチ。
彼の引きこもりライフは、今、至上の輝きを放っていた。
王都で、静かなる無気力が蔓延していることなど、彼の知ったことではなかった。
いや、正確には、その予兆は、彼の世界にも、すでに現れていたのだ。
「…ん?」
ノクトは、眉をひそめた。
彼が所属する、サーバー内最強と名高いギルド『月光の騎士団』。
今夜は、週に一度の、最高難易度レイドダンジョンへの挑戦日だった。
いつもであれば、開始時間には全員が集合し、綿密な作戦会議の後、完璧な連携でダンジョンを攻略しているはずだった。
だが、今日のパーティーチャットは、どこか、閑散としていた。
『すまん、Nokuto。なんだか今日、ログインするのが億劫で…今日のレイドはパスさせてくれ』
『私もだ。一日中、ベッドから出られなかった…』
『なんかもう、頑張ってレア装備手に入れても、虚しいだけな気がして…』
ギルドの仲間たちから、次々と、信じられないような「やる気のない」欠席連絡が届く。
いつもであれば、誰よりも熱心にレイドの参加を呼び掛けていたギルドマスターでさえ、『今日は、なんだか、そういう気分じゃないんだ…』という、謎のポエムのような書き込みを残して、オフラインになってしまった。
「…なんだ、こいつら。急に、集団でサボり始めたのか…?」
ノクトは、舌打ちした。
仕方なく、彼は野良でメンバーを募集し、ダンジョンへと挑んだ。
だが、そこでも、異変は起きていた。
パーティーを組んだプレイヤーたちは、皆、動きが鈍く、明らかに集中力を欠いていた。
ヒーラーは回復のタイミングを忘れ、タンクは敵のヘイト管理を怠り、アタッカーは、ただ棒立ちになっている。
『ごめん、なんか、ボタン押すのも面倒で…』
チャットに流れてきた、その一言に、ノクトの堪忍袋の緒が、ぷつりと、切れそうになった。
「このゲームのプレイヤー層は、一体どうなっているんだ…! 俺以外、全員、やる気がないではないか!」
ノクトの苛立ちは、募っていった。
だが、まだ、それは、彼の神聖なるゲームライフを根底から揺るがすほどの、絶望ではなかった。
本当の絶望は、ゲームの世界からではなく、現実の世界から、あまりにも突然に、そして、あまりにも理不尽な形で、彼に襲いかかってきたのだ。
その日、アイリスは、数週間ぶりに、国王レジスからの呼び出しを受けていた。
彼女は、いつものように、完璧な聖女の笑みを浮かべながら、重い足取りで、執務室へと向かっていた。
王国中に蔓延する「無気力」の病は、彼女の精神をも、深く蝕んでいる。
だが、国王陛下の呼び出しを無視するほどの「やる気のなさ」は、まだ、彼女には訪れていなかった。
執務室では、国王が、心底申し訳なさそうな、そして胃が痛そうな顔で、彼女を待っていた。
「おお、アイリスか。すまないな、またしても、『神』の使いを頼むことになってしまって…」
「いえ、これも私に与えられた、重要な任務ですので」
アイリスは、そう言うと、携えてきた庶民的な菓子の袋(いつもの「厚切りコンソメ味」)を、恭しく国王に差し出した。
国王は、深いため息をつきながら、その袋を受け取った。
「今日は、特に機嫌が悪くてな…。一日中、楽しみにしていた新作が、まだ届かないと、催促が止まらんのだ」
国王が言う「楽しみにしていた新作」。
それは、ノクトが、その発売を、一日千秋の思いで待ち焦がれていた、ソルトリッジ社製の、新作限定ポテチ。
その名は、『超新星ソルト&ビネガー味』。
その発売日が、今日だったのである。
「…それで、アイリスよ。例の件、どうなっている?」
国王が尋ねたのは、ポテチのことではない。
王国中に広がる、謎の無気力現象についてだった。
「はっ。各地の領主からの報告をまとめましたが、状況は芳しくありません。商業、農業、そして、軍事…あらゆる分野で、生産性の低下が報告されております。ですが、原因は未だ…」
アイリスが報告している、まさにその時だった。
彼女の脳内に、突如として、ノクトの、いらだった声が割り込んできた。
『…おい、新人。どうなっている。今日は、待ちに待った『超新星ソルト&ビネガー味』の発売日のはずだ。なぜ、まだ届かない? お前の手配ミスか?』
あまりに一方的で、あまりに真剣な詰問。
アイリスは、国王との会話を中断せざるを得なかった。
彼女は、かろうじて残った気力を振り絞り、テオの商業ギルドのネットワークを使って、ソルトリッジ社の工場に、直接、問い合わせを行った。
数時間後。
彼女は、恐る恐る、その調査結果を、脳内で報告した。
(か、神様…。申し上げにくいのですが…)
『…なんだ。言え』
(『超新星ソルト&ビネガー味』ですが…その…発売が、無期延期になった、とのことです…)
静寂。
全ての音が消え去ったかような、完全な、沈黙。
やがて、ノクトの、震える声が、響いた。
『…なぜだ? 理由を、言え』
(は、はい…。工場の、従業員の方々の…その…)
アイリスは、意を決して、報告した。
(…『やる気が、出ない』ため、だそうです…)
―――ゴトリ。
塔の最上階で、何かが、床に落ちる、乾いた音がした。
ノクトが、手にしていたコントローラーを、無意識に、取り落とした音だった。
アイリスの脳内に、彼の、信じられないことを聞くような、絶望に満ちた呟きが、木霊した。
『やる気…が…、出ない…?』
その瞬間、彼の頭の中で、全ての線が、繋がった。
ゲームの世界で、やる気をなくし、レイドをサボる仲間たち。
現実の世界で、やる気をなくし、訓練を放棄する騎士たち。
そして、パン屋の、あの張り紙。
全ては、同じだったのだ。
王国中に蔓延する、この静かなる病。
それは、ついに、彼の、最も神聖で、最も大切な領域――彼の、生きがいである「限定ポテチ」の供給ラインを、断ち切ったのだ。
それは、もはや、単なる「不具合」ではない。
それは、彼の、完璧な引きこもりライフに対する、明確な「攻撃」だった。
セーブデータが破損した、あの悪夢の再来。
いや、それ以上だ。
データは、復旧すればいい。
だが、生産されないものは、手に入れることすら、できないのだ。
それは、存在しないはずのエンディングを、永遠に待ち続けるに等しい、無限の絶望。
アイリスの脳内に、地獄の底から響くような、ノクトの、静かな、しかし、絶対的な怒りの波動が、叩きつけられた。
『…どこの、どいつだ…?』
その声は、もはや、人間のものではなかった。
自らの世界の、根幹を揺るがされた、ノクトの、純粋な、殺意だった。
『俺の、ポテチを…。俺の、最大の楽しみを、奪った奴は…。…絶対に、許さんッ!!』
私怨は、再び、極致に達した。
ノクトは、モニターに映し出された、活気のないゲームの世界を、憎悪に満ちた目で見つめた。
彼は、自らの聖域を守るため、そして、失われたポテチの未来を取り戻すため、この、王国を蝕む「やる気ゼロ」の病の根源を、徹底的に、そして完膚なきまでに、叩き潰すことを、固く、固く、決意した。
ノクトの怒りが、再び、この国を、新たな混沌の渦へと、巻き込もうとしていた。