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第二十九話 米粒ほどの無効化条項

 地獄の官僚主義迷宮、その最後の番人として立ちはだかったのは、怒れる中間管理職、アウディトールその人だった。

「第一の査察! 『書類不備の嵐』!」

 アウディトールの号令と共に、部屋中の引き出しから噴出したおびただしい数の羊皮紙が、鋭い刃と化して三人に襲いかかる。

 一枚一枚の紙の端が、剃刀のように鋭利な魔力を帯びていた。

「わあ! 紙飛行機がたくさんです!」

 その、殺意に満ちた嵐の中、シルフィだけが、目を輝かせていた。

 彼女は、襲い来る紙の刃を、まるで蝶を捕まえるかのように、ひらりひらりとかわし、その数枚を器用に掴み取る。

「えいっ!」

 彼女が、捕まえた羊皮紙を、折り畳んで投げ返すと、それは見事な紙飛行機となって、アウディトールの眼鏡をかすめて飛んでいった。

「…面倒、です…!」

 一方、アイリスは、殺意のオーラを放ちながらも、その本質は、やはり、やる気のない聖女だった。

 彼女は、次から次へと飛来する紙の刃に、うんざりした表情を浮かべると、構えていた魔剣を、まるで蠅を払うかのように、気だるそうに、しかし超高速で、一閃させた。

 紫色の斬撃が、扇状に広がり、襲い来る羊皮紙の群れを、一瞬にして、紙吹雪へと変える。

「ひひひ…! やるじゃねえか、お前ら! その間に、俺様が、こいつの弱点を丸裸にしてやるぜ!」

 テオは、二人が稼いだ僅かな時間を利用し、アウディトールという、最強の「役人」を、詐欺師の目で分析していた。

(物理攻撃は、効いてる。だが、俺たちが叩くべきは、奴の権力そのものじゃなく、俺たちをこの場所に縛り付けている、たった一つの根拠…全ての元凶である、千年前の、あの『契約書』だ!)


 アウディトールは、眉一つ動かさず、次の攻撃へと移行する。

「第二の査察! 『承認プロセスの遅延』!」

 彼が、指を鳴らすと、三人の足元に、突如として、黒く、粘着質な沼のようなものが現れた。

「なっ!? 体が、動かねえ…!」

 テオの足が、その沼に囚われる。

 それは、物理的な拘束ではなかった。

 何かをしよう、という意思そのものを、無限の「承認待ち」状態にする、精神攻撃だった。


「第三の査察! 『予算執行の凍結』!」

 アウディトールの、その声に、アイリスが握っていた魔剣から、禍々しいオーラが、すうっと、消えていく。

 シルフィの弓の弦も、魔力を失い、だらりと垂れ下がった。

 全ての行動に必要な「魔力」という名のエネルギーが、一方的に凍結されたのだ。

「何をしても無駄です。この迷宮において、私こそが、ルールそのものなのですから」

 アウディトールは、勝利を確信し、ゆっくりと、三人に歩み寄った。

 その手には、全ての元凶である、黒い革のファイル――千年前の契約書の原本が、握られていた。

「これが、全ての根拠。あなた方のやる気を、未来永劫、搾取し続ける、絶対的な権利の証明書です」

 彼が、そのファイルを、誇示するように、掲げた、まさにその瞬間だった。

 テオの、詐欺師としての目が、キラリと、光った。

(…見えたぜ)

 アウディトールの、完璧な勝利宣言。

 その、ほんの一瞬の油断。

 そして何より、役人という生き物が持つ、自らの権威の根拠を、相手に見せつけずにはいられない、哀しい性。

 その全てが、テオに、千載一遇の好機を与えた。

 彼の、人間離れした動体視力が、アウディトールが掲げた契約書の、その羊皮紙の、一番下の、隅の方に、まるで埃か、染みのようにしか見えない、米粒ほどの大きさで、びっしりと書き込まれた、追加条項の一文を、捉えていたのだ。

『―――新人、聞こえるか』

 突如として、アイリスの脳内に、ノクト()の指令が響く。

『目標を変更する。奴を倒すな。奴が手にしている、あの契約書だ。…何でもいい、奴の手から、あのファイルを叩き落とせ!』

 その、あまりに具体的な指示。

 アイリスは、瞬時にその意図を理解した。

 あの契約書にこそ、活路があるのだ、と。

 彼女は、魔力を失ったただの鉄塊と化した魔剣を、最後の気力を振り絞り、アウディトール本人ではなく、彼が掲げる契約書のファイルを目掛けて、騎士としての精密さで、力任せに投げつけた。

 それは、もはや斬撃ですらない。

 だが、王国騎士団の一員としての、完璧な投擲だった。

「…させる、とでも?」

 だが、アウディトールは、その狙いを正確に見抜いていた。

 彼は、迫り来る魔剣に対し、指先で、小さな斥力結界を瞬時に展開する。

 神聖な契約書に、傷一つ付けさせる気はなかった。

 魔剣は、その目に見えない壁に阻まれ、「ガン!」という鈍い音を立てて、明後日の方向へと弾き飛ばされる。

 誰もが、失敗を確信した、まさに、その瞬間だった。

「あ!」

 それまで黙って成り行きを見守っていたシルフィが、素っ頓狂な声を上げた。

 彼女には、アウディトールの結界が、剣を弾くいじわるな魔法に見えたのだ。

(助けてあげないと!)

 彼女は、純粋な善意と、仲間を思う心だけで、弓を構えた。

 アウディトールの魔術によって、弓の魔力は失われ、その力は普段の十分の一にも満たない。

 だが、彼女は、構わなかった。

 彼女が放った一本の矢は、魔力なきが故に、ふらふらと、頼りない軌道を描いて飛んでいく。

 だが、彼女の、天性の幸運が、その矢を、弾き飛ばされた魔剣の柄へと、奇跡的に導いた。

 カツン、と、矢が柄に当たる。

 その、あまりに小さな衝撃。

 だが、斥力結界によって不規則な回転を与えられていた魔剣の軌道を、ほんの僅かに、修正するには、十分すぎた。

 軌道を変えられた魔剣は、まるでブーメランのように、ありえない角度で、アウディトールの手元へと舞い戻り、彼が掲げていた、契約書のファイルに、その切っ先が、深々と、突き刺さった。

「なっ!?」

 アウディトールの、驚愕の声。

 ファイルが、彼の拘束を離れ、宙を舞い、テオの目の前に、ばさりと、落ちた。

「ひひひ…! ご開帳と、いこうじゃねえか、旦那!」

 テオは、そのファイルを開き、先ほど、その目に焼き付けた、追加条項のページを、血眼になって、探した。

 そして、ついに、それを見つけ出し、高らかに、読み上げた。

「―――あったぜ! ここに、書いてある! 『追記事項、第九千九百九十九条! 王家の公式なピクルスのレシピが、契約時よりも美味しくなった場合、本契約は、その効力を完全に失うものとする』!」

 その、あまりに間抜けで、あまりに場違いな一文が、静まり返った迷宮に、響き渡った。

 アウディトールの、完璧なポーカーフェイスが、初めて、ガラガラと、崩れ落ちる。

「ば、馬鹿な…!? そんな、条項が、あるはずは…!」

 彼は、震える手で、テオが突きつけた契約書を、覗き込んだ。

 そこには、確かに、初代国王の、遊び心と、食い意地だけで書き加えられたであろう、米粒ほどの、しかし、絶対的な効力を持つ、無効化条項が、記されていたのだった。

 千年の時を経て、最強の中間管理職を、絶望の淵へと叩き落としたのは、武力でも、魔法でもない。

 ただ、初代国王の、食い意地と遊び心だけで書き加えられた、たった一行の、あまりに馬鹿馬鹿しい条項の存在だった。

 戦いの流れは、今、完全に、逆転した。

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