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第二十六話 写真撮影と無限の修正地獄

 やる気のない聖女の、「全てを放棄したい」という究極の「誠意」によって、『魂の価値査定課』という理不尽な試練を突破した一行。

 テオは目の前に現れた次への扉を、もはや何の期待も抱かずに、ただ見つめていた。

 この迷宮では、知恵も、金も、善意さえも、聖女の「無気力」には勝てないのだから。

 彼の詐欺師としてのプライドは、もはやズタボロだった。


 次なる部署の扉は、これまでで最も荘厳だった。

 黒曜石で作られた、巨大な両開きの扉。

 そこには、『最終本人確認・肖像画記録課』という、いかにも、最終局面にふさわしい物々しい名前が、銀文字で刻まれている。

「…最終本人確認、だと…?」

 テオが、ごくりと喉を鳴らす。

「わあ、なんだか、難しそうです…」

 シルフィが、不安げにアイリスの袖を掴んだ。

 アイリスは、もはや、何も感じなかった。

 ただ、早く、この全てが、終わってほしい。

 その一心だけだった。


 扉を開けると、そこは、まるで写真スタジオのようだった。

 壁には様々な背景を描いた巨大な絵画がかけられ、天井からは被写体を照らすための、角度調整が可能な魔力光がいくつも吊るされている。

 そして、部屋の中央には、一つの古めかしい、巨大な魔導写真機が三脚の上に鎮座していた。

 その写真機の隣で、一人のベレー帽を被り、芸術家気取りのスカーフを巻いた、神経質そうな悪魔が腕を組んで三人を待っていた。

「…遅いね。僕を待たせるとは、いい度胸だ」

 彼の名は、ダンタシオン。

 この『最終本人確認・肖像画記録課』の課長であり、魂の最も深い部分を写し出すという、「魂魄(こんぱく)写真術」の大家だった。

「さあ、さっさとそこに並びたまえ。君たちの魂の記録を、この僕が永遠に記録してやる」

「魂の、記録?」

 テオが、訝しげに尋ねる。

「ああ。最終承認の前に、代理人候補者三名の公式な肖像画が必要なのだ。これは、地獄の、最も古く、そして重要な儀式の一つだよ。さあ、まずは君からだ。そこの、強欲そうな男」

 ダンタシオンは、テオを値踏みするように、じろりと見つめた。


 テオは、自信満々に写真機の前に立った。

(ひひひ…! 俺様の、この、知略に満ちた悪魔的天才の顔を、後世に残してやるぜ!)

 彼は、最も知的で、狡猾に見えるキメ顔を作った。

 だが、ダンタシオンはファインダーを覗き込み、深いため息をついた。

「…だめだ。全く、なっていない」

「はあ!? どこがだよ!」

「君の魂は、あまりに欲望にまみれている。その下品な金への執着が、顔に滲み出ているのだよ。もっとこう…神に仕える者として、清廉で敬虔な表情をしたまえ」

「け、敬虔…?」

 テオは、必死に聖職者らしい柔和な笑みを顔に貼り付けた。

 だが、ダンタシオンはまたしても首を横に振る。

「…嘘は、やめたまえ。君の魂がその表情を拒絶している。写真にノイズが走るのだよ。…ああ、もういい! 君は後だ! 次! そこの、何も考えていなさそうな、エルフ!」


 次に、シルフィが、きょとんとした顔で写真機の前に立った。

「わあ! なんだか、眩しいです!」

 彼女は、ただそこに立っているだけ。

 何のポーズも表情も作らない。

 だが、そのあまりに無垢な姿に、ダンタシオンは初めてその目を見開いた。

「…おお…!」

 彼の、芸術家としての魂が、震えていた。

「…素晴らしい…。その、空虚! その、魂の、無垢なる白! 何も考えていないが故の、究極の受動性! 君は、最高の被写体だ! いいぞ、いい、そのまま動くなよ!」

 ダンタシオンは興奮しながらシャッターを切った。

 パシャ、と魔力光が一閃する。

 彼は現像された写真を見て満足げに頷いた。

「完璧だ! この、虚無を見つめる瞳! 世界の理不尽さを全て受け入れたかのような、諦観の表情! これぞ、芸術だ! …よし、君は合格…」

 彼がそう言いかけた、瞬間だった。

「…おや?」

 彼は写真を光にかざした。

「…なんだね、これは。…君の左目のまつ毛が一本、ほんの僅かにカールしている…。完璧なシンメトリーが崩れているではないか! …やり直しだ!」

「ええっ!?」

 シルフィはその後も何度も何度も写真を撮り直された。

 だが、その度に、「今度は、右の眉がコンマ一ミリ上がっている」「髪の毛のアホ毛が一本立っている」「口の端にクッキーの食べかすが付いている」など、常人には到底理解不能な理由で、やり直しを命じられ続けた。


 そして、最後。

 アイリスの番だった。

 彼女はもはや何も考えていなかった。

 ただ、この不毛な時間が一刻も早く終わることだけを願っていた。

 彼女は写真機の前に、ただ立った。

 何の表情も浮かべずに。

 そのあまりにやる気のない、虚無の姿。

 それに、ダンタシオンは再び雷に打たれたかのような衝撃を受けた。

「…おお…! おおお…!」

 彼は震える指でアイリスを指さした。

「…その瞳…! その、全てを諦め、全てを拒絶する、深淵の如き虚無の瞳…! 素晴らしい! なんて素晴らしいのだ! 君は、シルフィ君の、その受動的な無、とは違う! もっと、能動的な、攻撃的な『無』だ! 世界そのものを否定する、究極の虚無! …いい、いいぞ! そのままだ! 動くな!」

 ダンタシオンは我を忘れてシャッターを切り続けた。

 パシャ! パシャ! パシャ!

 そして、現像された写真を見て、恍惚の表情を浮かべる。

「完璧だ…。この、魂の抜け殻のような表情…。これぞ、私が生涯をかけて追い求めてきた、究極の被写体…!」

 彼がそう叫んだ瞬間だった。

 アイリスの我慢が限界を超えた。

 彼女はくるりと写真機に背を向けた。

「…もう、結構です」

「…は?」

「私は、もう疲れました。撮るなら、どうぞご自由に。私は、もう一歩も動きませんので」

 彼女は写真機に背を向けたまま、その場に座り込んでしまった。

 聖女の、二度目のストライキ宣言。

「な、何を…! こっちを向きたまえ! 君のその虚無の瞳を撮るのだ!」

 ダンタシオンが叫ぶ。

 だが、アイリスは動かない。

 そのあまりに斬新な撮影拒否。

 その光景に、ダンタシオンの芸術家としての脳がこれまで経験したことのない領域へと突入した。

(…背中…? …被写体が自らの顔を拒絶する…? …それはつまり、肖像画という概念そのものへの反逆…? …いや違う! これは新しい芸術の地平線だ…!)

 彼は震える手で再び写真機を構えた。

「…素晴らしい…! なんと前衛的な試みだ…! 被写体が撮影者を拒絶するという、この緊張感…! 顔を見せないことで、逆にその魂の深淵を表現する、だと…!? …天才か、君は…!」

 あまりに壮大な勘違い。

 アイリスのただの「やる気のなさ」が生んだ偶然の産物。

 それを、ダンタシオンは究極の芸術的パフォーマンスだと完璧に誤解したのだ。

「…撮らせていただこう…。君のその孤高の魂の『背中』を…!」

 パシャアアアアッ!

 これまでで最も強い光が部屋を満たした。


 数分後。

 現像された一枚の写真。

 そこには、ただ力なく座り込む一人の女性の、寂しげな「背中」だけが写っていた。

「…完璧だ…」

 ダンタシオンは涙を流していた。

「…私の芸術は、今日、完成した…。ありがとう、聖女よ…。君たちは、合格だ…」

 彼は震える手で最後の承認印を書類の束に押した。

 彼の芸術家としての魂は、完全に満たされていた。

 地獄の迷宮はまたしても攻略された。

 今度は一人のやる気のない聖女の、「究極のサボタージュ」によって。

 テオは、もはや何も言う気がしなかった。

 この迷宮では、知恵も、金も、善意さえも、聖女の「無気力」には勝てないのだから。

 三人の前には、次へと続く、最後の扉が、静かにその姿を現していた。

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