表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/37

第二十五話 魂の価値査定課

 やる気のない聖女の、「無」の心が引き起こした奇跡によって、『総合調整課』という禅問答のような試練を突破した一行。

 テオは、もはや自らの知略が無力であることを悟り、この迷宮の攻略を、半ば、アイリスとシルフィという二人の規格外の存在に委ねていた。

(…もう、知るか。俺は、ピクルスの権利さえ手に入りゃ、それでいい…)

 彼のプライドは、数々の理不尽の前に、都合よく「省エネモード」へと移行していた。


 次なる部署の扉は、これまでで最も荘厳だった。

 黒曜石で作られた、巨大な両開きの扉。

 そこには、『魂の価値査定課』という、物々しい名前が、銀文字で刻まれている。

「…魂の、価値、だと…?」

 テオが、ごくりと喉を鳴らす。

「わあ、なんだか、難しそうです…」

 シルフィが、不安げに、アイリスの袖を掴んだ。

 アイリスは、もはや、何も感じなかった。

 ただ、早く、この全てが終わってほしい。

 その一心だけだった。


 扉を開けると、そこは、まるで古代の神殿のような、だだっ広い空間だった。

 天井はドーム状に高く、ステンドグラスから、七色の不気味な光が差し込んでいる。

 そして、その部屋の中央に、一つの巨大な天秤が鎮座していた。

 天秤の左の皿には、彼らが、血と涙と、イカサマと、偶然と、無気力で、手に入れてきた、全ての申請書類が、すでに、置かれている。

 そして、天秤の前には、一人の、裁判官のような厳格な法衣をまとった悪魔が、腕を組んで立っていた。

「…ようこそ、諸君。『魂の価値査定課』へ」

 悪魔は、重々しい声で、告げた。

「当課の試練は、ただ一つ。そこの天秤を、釣り合わせること」

「釣り合わせる、だと…?」

 テオが、尋ねる。

「左の皿には、君たちの、これまでの『申請』の重みが、置かれている。君たちには、右の、空の皿に、その申請に込められた『誠意』と、寸分違わぬ重さの『対価』を、置いていただきたい」

「たいか、だと…? 金か?」

「金でも、宝石でも、よかろう。だが、その価値を決めるのは、我々ではない。この、『真実の天秤』だ。天秤が、君たちの『誠意』と、差し出した『対価』が、釣り合っていると認めれば、道は開かれる。…だが、もし、釣り合わねば…」

 悪魔は、そこで、言葉を切った。

「君たちの、これまでの努力は、全て無に帰す。健闘を祈る」

 それは、これまでで、最も抽象的で、そして、最も意地の悪い、試練だった。


「ひひひ…! 面白い! やってやろうじゃねえか!」

 だが、テオは、不敵な笑みを浮かべた。

 価値、誠意、対価。

 それは、彼が、最も得意とする、土俵だったからだ。

(この、クソみてえな迷宮を、ここまで攻略してきた、俺たちの『努力』の価値。それを、示せばいいんだろ? 簡単なことよ!)

 彼は、懐から、金貨がずっしりと詰まった、革袋を取り出した。

「どうでえ! まずは、これで、様子見だ!」

 彼が、その革袋を、右の皿に置いた瞬間。

 天秤は、ぴくりとも、動かなかった。

「…は? …足りない、か。ならば、これならどうだ!」

 彼は、次々と、懐から、これまでの冒険でくすねてきた、高価な宝石や、魔術の触媒を、皿の上に乗せていく。

 だが、天秤は、まるで石のように、静まり返ったままだ。

「な、なぜだ…!? これだけの価値があれば、辺境の村の一つや二つ、買えるほどの金額だぞ!?」

 テオの、顔が、青ざめていく。

 彼の、信奉する「金」という価値が、この天秤の前では、全くの、無価値だったのだ。


「あのう…」

 その、絶望的な光景を、眺めていたシルフィが、おずおずと、手を挙げた。

「その、お皿、なんだか、寂しそうです。私が、何か、置いてあげても、いいですか?」

 彼女は、そう言うと、先ほどの冒険の途中で、休憩室の悪魔たちからもらった、小さな焼き菓子を、そっと、右の皿の上に置いた。

 テオが置いた、金銀財宝の山の上に、ちょこんと乗せられた、一つの、素朴な菓子。

 その、あまりに、場違いな光景。

 だが、次の瞬間、誰もが、目を疑った。

 あれだけ、微動だにしなかった天秤が、

 ―――ギ、

 と、ほんの僅かに、しかし、確かに、右に傾いたのだ。

「…な…!?」

 テオが、驚愕の声を上げる。

 シルフィの、純粋な「善意」は、テオが積み上げた、全ての「強欲」よりも、ほんの少しだけ重かったのだ。

 だが、それでも、天秤は釣り合わない。

 左の皿に乗せられた、「申請」という名の、これまでの、混沌の冒険の重さ。

 それは、まだ、遥かに、重かった。


「……………」

 アイリスは、その光景を、ただ、無感情に、見つめていた。

 金でも、善意でも、ない。

 ならば、一体、何を、置けばいいというのか。

 もう、何もかも、どうでもよかった。

 早く、帰りたい。

 早く、休みたい。

 早く、この不毛な全てから、解放されたい。

 彼女は、ふらふらと、まるで、夢遊病者のように、天秤の前へと進み出た。

 そして、右の皿――シルフィの菓子と、テオの財宝が乗った、その皿に、そっと自らの手を置いた。

「…おい、アイリス!? 何を…!」

 テオの、制止の声。

 だが、アイリスは、何も、聞こえていなかった。

 彼女は、ただ、その冷たい金属の感触を感じながら、心の底から思った。

 ただ、ひたすらに、純粋に。

(…もう、疲れました…)

(聖女で、いるのも、騎士で、いるのも…)

(神様の、パシリで、いるのも…)

(もう、全部、やめたい…)

(ただ、故郷に帰って、一日中、眠っていたい…)

 それは、聖女の、あるまじき、願い。

 全ての責任を放棄したい、という、あまりに誠実な、怠惰への渇望。

 彼女が、そう心の底から願った瞬間だった。


 ―――ギギギギギギギッ!!!


 天秤が、これまでとは比較にならない、凄まじい音を立てて、動き出した。

 彼女が手を置いた右の皿が、まるで鉛のように、重く沈み込み、そして、申請書類が乗った左の皿が、まるで羽のように、軽々と持ち上がった。

 天秤は、釣り合わなかった。

 それどころか、完全に、逆転してしまったのだ。

 アイリスの、純粋な「無気力」と「怠惰への渇望」。

 その、あまりに誠実な「誠意」は、この、官僚主義の迷宮を、攻略しようという、不純な「申請」の重さを、遥かに、凌駕してしまったのだ。


「…こ…こ…!」

 裁判官の悪魔が、信じられないものを見る目で、その光景に、震えていた。

「…こんな誠意は、ありえない…。純粋な、無…。虚無への、渇望…。なんという、冒涜的な、魂の形…!」

 彼の、厳格なルールブックには、こんな事態は、想定されていなかった。

「…み、認めん…。こんなものは、断じて、認めん…!」

 彼が、そう、叫んだ、その時だった。

 アイリスの脳内に、ついに、あの、ノクト(絶対者)の声が、響き渡った。

『…いいや。認めるのは、お前の方だ、悪魔』

 ノクト()の声は、絶対的な、確信に、満ちていた。

『天秤は、示している。彼女の「もう、何もしたくない」という、純粋な誠意は、お前たちの、下らない手続きを、続ける価値がない、と、証明したのだ。…つまり、このクエストそのものが、彼女の誠意に、釣り合っていない、ということだ。…違うか?』

 その、悪魔的な、しかし完璧な、論理のすり替え。

 裁判官の悪魔は、言葉を失った。

 確かに、天秤は、そうなっている。

 この聖女の魂は、この迷宮の、ルールそのものよりも、重い、と。

「…う…ぐ…」

 彼は、がっくりと、膝から、崩れ落ちた。

「…分か、りました…。…あなた方の、勝ち、です…」


 地獄の迷宮は、またしても、攻略された。

 今度は、一人の、やる気のない聖女の、「全てを、放棄したい」という、究極の「誠意」によって。

 テオは、もはや、何も、考えられなかった。

 金も、知恵も、善意さえも、この、聖女の「無」の前では、無力なのだ、と。

 彼は、静かに、悟った。

 このパーティーの、最強の切り札は、シルフィの天然ですらない。

 アイリスの、この、底なしの「やる気のなさ」なのだ、と。

 テオは、目の前に現れた次への扉を、もはや何の期待も抱かずに、ただ見つめていた。

 この迷宮では、知恵も、金も、善意さえも、聖女の「無気力」には勝てないのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ