第二十五話 魂の価値査定課
やる気のない聖女の、「無」の心が引き起こした奇跡によって、『総合調整課』という禅問答のような試練を突破した一行。
テオは、もはや自らの知略が無力であることを悟り、この迷宮の攻略を、半ば、アイリスとシルフィという二人の規格外の存在に委ねていた。
(…もう、知るか。俺は、ピクルスの権利さえ手に入りゃ、それでいい…)
彼のプライドは、数々の理不尽の前に、都合よく「省エネモード」へと移行していた。
次なる部署の扉は、これまでで最も荘厳だった。
黒曜石で作られた、巨大な両開きの扉。
そこには、『魂の価値査定課』という、物々しい名前が、銀文字で刻まれている。
「…魂の、価値、だと…?」
テオが、ごくりと喉を鳴らす。
「わあ、なんだか、難しそうです…」
シルフィが、不安げに、アイリスの袖を掴んだ。
アイリスは、もはや、何も感じなかった。
ただ、早く、この全てが終わってほしい。
その一心だけだった。
扉を開けると、そこは、まるで古代の神殿のような、だだっ広い空間だった。
天井はドーム状に高く、ステンドグラスから、七色の不気味な光が差し込んでいる。
そして、その部屋の中央に、一つの巨大な天秤が鎮座していた。
天秤の左の皿には、彼らが、血と涙と、イカサマと、偶然と、無気力で、手に入れてきた、全ての申請書類が、すでに、置かれている。
そして、天秤の前には、一人の、裁判官のような厳格な法衣をまとった悪魔が、腕を組んで立っていた。
「…ようこそ、諸君。『魂の価値査定課』へ」
悪魔は、重々しい声で、告げた。
「当課の試練は、ただ一つ。そこの天秤を、釣り合わせること」
「釣り合わせる、だと…?」
テオが、尋ねる。
「左の皿には、君たちの、これまでの『申請』の重みが、置かれている。君たちには、右の、空の皿に、その申請に込められた『誠意』と、寸分違わぬ重さの『対価』を、置いていただきたい」
「たいか、だと…? 金か?」
「金でも、宝石でも、よかろう。だが、その価値を決めるのは、我々ではない。この、『真実の天秤』だ。天秤が、君たちの『誠意』と、差し出した『対価』が、釣り合っていると認めれば、道は開かれる。…だが、もし、釣り合わねば…」
悪魔は、そこで、言葉を切った。
「君たちの、これまでの努力は、全て無に帰す。健闘を祈る」
それは、これまでで、最も抽象的で、そして、最も意地の悪い、試練だった。
「ひひひ…! 面白い! やってやろうじゃねえか!」
だが、テオは、不敵な笑みを浮かべた。
価値、誠意、対価。
それは、彼が、最も得意とする、土俵だったからだ。
(この、クソみてえな迷宮を、ここまで攻略してきた、俺たちの『努力』の価値。それを、示せばいいんだろ? 簡単なことよ!)
彼は、懐から、金貨がずっしりと詰まった、革袋を取り出した。
「どうでえ! まずは、これで、様子見だ!」
彼が、その革袋を、右の皿に置いた瞬間。
天秤は、ぴくりとも、動かなかった。
「…は? …足りない、か。ならば、これならどうだ!」
彼は、次々と、懐から、これまでの冒険でくすねてきた、高価な宝石や、魔術の触媒を、皿の上に乗せていく。
だが、天秤は、まるで石のように、静まり返ったままだ。
「な、なぜだ…!? これだけの価値があれば、辺境の村の一つや二つ、買えるほどの金額だぞ!?」
テオの、顔が、青ざめていく。
彼の、信奉する「金」という価値が、この天秤の前では、全くの、無価値だったのだ。
「あのう…」
その、絶望的な光景を、眺めていたシルフィが、おずおずと、手を挙げた。
「その、お皿、なんだか、寂しそうです。私が、何か、置いてあげても、いいですか?」
彼女は、そう言うと、先ほどの冒険の途中で、休憩室の悪魔たちからもらった、小さな焼き菓子を、そっと、右の皿の上に置いた。
テオが置いた、金銀財宝の山の上に、ちょこんと乗せられた、一つの、素朴な菓子。
その、あまりに、場違いな光景。
だが、次の瞬間、誰もが、目を疑った。
あれだけ、微動だにしなかった天秤が、
―――ギ、
と、ほんの僅かに、しかし、確かに、右に傾いたのだ。
「…な…!?」
テオが、驚愕の声を上げる。
シルフィの、純粋な「善意」は、テオが積み上げた、全ての「強欲」よりも、ほんの少しだけ重かったのだ。
だが、それでも、天秤は釣り合わない。
左の皿に乗せられた、「申請」という名の、これまでの、混沌の冒険の重さ。
それは、まだ、遥かに、重かった。
「……………」
アイリスは、その光景を、ただ、無感情に、見つめていた。
金でも、善意でも、ない。
ならば、一体、何を、置けばいいというのか。
もう、何もかも、どうでもよかった。
早く、帰りたい。
早く、休みたい。
早く、この不毛な全てから、解放されたい。
彼女は、ふらふらと、まるで、夢遊病者のように、天秤の前へと進み出た。
そして、右の皿――シルフィの菓子と、テオの財宝が乗った、その皿に、そっと自らの手を置いた。
「…おい、アイリス!? 何を…!」
テオの、制止の声。
だが、アイリスは、何も、聞こえていなかった。
彼女は、ただ、その冷たい金属の感触を感じながら、心の底から思った。
ただ、ひたすらに、純粋に。
(…もう、疲れました…)
(聖女で、いるのも、騎士で、いるのも…)
(神様の、パシリで、いるのも…)
(もう、全部、やめたい…)
(ただ、故郷に帰って、一日中、眠っていたい…)
それは、聖女の、あるまじき、願い。
全ての責任を放棄したい、という、あまりに誠実な、怠惰への渇望。
彼女が、そう心の底から願った瞬間だった。
―――ギギギギギギギッ!!!
天秤が、これまでとは比較にならない、凄まじい音を立てて、動き出した。
彼女が手を置いた右の皿が、まるで鉛のように、重く沈み込み、そして、申請書類が乗った左の皿が、まるで羽のように、軽々と持ち上がった。
天秤は、釣り合わなかった。
それどころか、完全に、逆転してしまったのだ。
アイリスの、純粋な「無気力」と「怠惰への渇望」。
その、あまりに誠実な「誠意」は、この、官僚主義の迷宮を、攻略しようという、不純な「申請」の重さを、遥かに、凌駕してしまったのだ。
「…こ…こ…!」
裁判官の悪魔が、信じられないものを見る目で、その光景に、震えていた。
「…こんな誠意は、ありえない…。純粋な、無…。虚無への、渇望…。なんという、冒涜的な、魂の形…!」
彼の、厳格なルールブックには、こんな事態は、想定されていなかった。
「…み、認めん…。こんなものは、断じて、認めん…!」
彼が、そう、叫んだ、その時だった。
アイリスの脳内に、ついに、あの、ノクトの声が、響き渡った。
『…いいや。認めるのは、お前の方だ、悪魔』
ノクトの声は、絶対的な、確信に、満ちていた。
『天秤は、示している。彼女の「もう、何もしたくない」という、純粋な誠意は、お前たちの、下らない手続きを、続ける価値がない、と、証明したのだ。…つまり、このクエストそのものが、彼女の誠意に、釣り合っていない、ということだ。…違うか?』
その、悪魔的な、しかし完璧な、論理のすり替え。
裁判官の悪魔は、言葉を失った。
確かに、天秤は、そうなっている。
この聖女の魂は、この迷宮の、ルールそのものよりも、重い、と。
「…う…ぐ…」
彼は、がっくりと、膝から、崩れ落ちた。
「…分か、りました…。…あなた方の、勝ち、です…」
地獄の迷宮は、またしても、攻略された。
今度は、一人の、やる気のない聖女の、「全てを、放棄したい」という、究極の「誠意」によって。
テオは、もはや、何も、考えられなかった。
金も、知恵も、善意さえも、この、聖女の「無」の前では、無力なのだ、と。
彼は、静かに、悟った。
このパーティーの、最強の切り札は、シルフィの天然ですらない。
アイリスの、この、底なしの「やる気のなさ」なのだ、と。
テオは、目の前に現れた次への扉を、もはや何の期待も抱かずに、ただ見つめていた。
この迷宮では、知恵も、金も、善意さえも、聖女の「無気力」には勝てないのだから。