第二十二話 「←あちら」の廊下
詐欺師の知略、神の観察眼、そしてエルフの天然。
三つの、全く異なる、しかし完璧に噛み合った奇跡によって、『古代書式・記録保管課』という絶望的なアイテム探しクエストを突破した一行。
役人は、伝説の書式『様式ゼータ-九百九十九』が、いとも簡単に見つけ出された事実に、魂の抜け殻のようになって、次の部署へと続く扉を、ただ、無言で、指さした。
「ひひひ…! 見たか、アイリス! これで、また一歩、俺様のピクルスに近づいたぜ!」
テオは、自らの手柄が、神の解析とシルフィの天然との合わせ技であったという事実からは、完全に目をそらし、上機嫌で、先頭を歩く。
(…もう、いっそ、このまま、テオさんに、全てお任せしてしまっても、いいような気がしてきました…)
アイリスは、考えることを放棄し、ただ、前の二人に、ついていくだけだった。
次なる扉を開けた瞬間、三人は、これまでのどの部署とも違う、異様な光景に、足を止めた。
そこは、部屋ではなかった。
どこまでも続くかと思われる、長い、長い、一本の廊下だった。
壁も、床も、天井も、全てが、同じ灰色の継ぎ目のない石でできており、装飾も、窓も、何一つない。
ただ、百メートルほど先に、T字路が見えるだけ。
「…なんだ、ここは。ただの、通路か?」
テオが、訝しげに、呟く。
三人は、その、不気味なほど、何もない廊下を、歩き始めた。
やがて、最初のT字路に、たどり着く。
そこには、一本だけ、古びた、木製の案内板が、立てられていた。
だが、その案内板に書かれていたのは、あまりに、理不尽な、一言だった。
『←あちら』
矢印は、ただ、左を、指している。
右の通路についての、説明は、何もない。
「…はあ? なんだ、こりゃ。左へ行けってことか?」
テオは、首を傾げた。
「ひひひ…! 面白い。心理テストってわけか。素直に、矢印に従う奴は、馬鹿を見る。…ここは、あえて、逆の、右へ行くのが、正解だ!」
彼は、詐欺師としての、セオリーに従い、自信満々に、右の通路へと、足を踏み入れた。
アイリスとシルフィも、それに続く。
だが、数百メートルほど歩いた先で、彼らがたどり着いたのは、またしても、全く同じ、T字路だった。
そして、そこにも、全く同じ、案内板が、立てられている。
『←あちら』
「…なんだと…?」
テオの、顔が、引き攣った。
「…ちくしょう! ループしてるのか! ならば、今度こそ、素直に、左だ!」
彼は、今度こそ、と、矢印が指し示す、左の通路へと、進む。
だが、その結果も、同じだった。
どこまで進んでも、現れるのは、全く同じT字路と、全く同じ案内板だけ。
右へ行っても、左へ行っても、ただ、同じ場所を、ぐるぐると、回り続けているかのようだった。
「…なんなんだ、この、クソみてえな廊下は! 客を、案内する気、ねえのかよ!」
数十分後。
テオは、ついに、地面に座り込み、頭をかきむしっていた。
彼は、自らの知略を、総動員した。
壁に傷をつけて目印にしようとしたが、いつの間にか、その傷は綺麗に消えている。
床に金貨を置いて目印にしようとしたが、いつの間にか、その金貨は別の場所に移動している。
この廊下は、物理的な法則が、歪められている、悪魔的な、無限回廊だったのだ。
「…もう、だめです…。一生、ここから、出られないのかもしれません…」
アイリスもまた、その、終わりのない、無意味な歩行に、精神を完全にすり減らされていた。
彼女は、その場に、へなへなと座り込む。
(…神様…。助けて、ください…)
『…うるさい。黙って、歩け』
(そ、そんな…!)
『これは、古典的な、ナビゲーションパズルだ。必ず、どこかに、ヒントがある。…例えば、空気の僅かな流れ。魔力の淀み。あるいは、壁の材質の微妙な違い…。聖女である前に、騎士であるお前の、五感を研ぎ澄ませ。俺に頼るな』
まさかの、ノクトからの、丸投げ。
彼は、この、クソゲーを、アイリスという、プレイヤー自身に、攻略させようとしていたのだ。
アイリスは、涙目になりながらも、かろうじて、立ち上がった。
そして、言われるがままに、壁に耳を当て、床の匂いを嗅ぎ、空気の流れを読もうとする。
だが、彼女が、感じ取れたのは、ただ、無機質な石の感触と、淀んだ空気だけだった。
その、二人が、絶望に、打ちひしがれている、すぐ隣で。
シルフィだけが、全く、違うことに、夢中になっていた。
「…よいしょっと。…あれ? なんだか、うまく、結べません…」
彼女は、いつの間にか、ほどけてしまっていた靴紐を、結び直そうとしていたのだ。
だが、彼女は、絶望的に、不器用だった。
蝶々結びを、しようとするのだが、なぜか、固結びになったり、すぐに、ほどけてしまったり。
「うーん…。難しいです…」
彼女は、うんうんと、唸りながら、何度も、何度も、挑戦する。
そして、ようやく、結び終えた、と思った、その時だった。
彼女が、立ち上がろうとした、瞬間。
ずっと、下を向いていたせいで、急に、目の前が、くらり、と揺れた。
「…あ…」
立ちくらみ。
彼女の体は、ぐらり、と、バランスを崩した。
そして、そのまま、あらぬ方向へと、ふらふらと、数歩、歩いてしまう。
「きゃっ!」
彼女の、か細い悲鳴。
彼女が、向かった先は、T字路の、ちょうど、真ん中。
案内板が、立てられている、その、すぐ真横の壁だった。
「シルフィ! 危ない!」
アイリスが、叫ぶ。
だが、遅かった。
シルフィの、小さな体は、そのまま、何もないはずの壁へと、ぶつかって、
―――いかなかった。
彼女の体は、まるで、水面を通り抜けるかのように、すうっと、その壁の向こう側へと消えてしまったのだ。
「「…………は?」」
アイリスとテオの声が、ハモった。
二人は、信じられないものを見る目で、シルフィが消えた、ただの壁を、見つめている。
「…おい、アイリス…。俺は、今、夢でも見てるのか…?」
「…いえ…。私も、見ました…」
二人が、恐る恐る、その壁に手を触れる。
すると、その手は、何の抵抗もなく、壁の向こう側へと、通り抜けた。
幻影の壁。
それも、通路でも、部屋でもない、ただの、壁にしか見えない場所に、たった一つだけ隠されていた、秘密の出口。
論理的に考えれば、絶対に見つけられない。
本能で探しても、決してたどり着けない。
ただ、偶然、立ちくらみを起こした、一人のエルフだけがたどり着ける、究極の不条理技。
『……………』
アイリスの脳内で、ノクトが、完全に、沈黙した。
彼の、完璧な、ゲーム理論が、今、目の前で、全く意味のないものになったのだ。
アイリスとテオは、顔を見合わせた。
そして、深いため息をつくと、その、幻影の壁の、向こう側へと、足を踏み入れた。
壁の向こうは、次なる部署へと続く、短い、通路だった。
そして、その通路の真ん中で、シルフィが、きょとんとした顔で、二人を待っていた。
「あら、アイリス、テオさん。どうしたのですか? 私、靴紐を結んで、立ち上がったら、いつの間にか、ここに…」
その、あまりに、無邪気な一言。
テオは、その場で、膝から崩れ落ちた。
「…もう、だめだ…。俺の、プライドが…。もう、ズタボロだ…」
彼の、詐欺師としての自信は、この、官僚主義の迷宮で、何度も、何度も、この、天然エルフによって、打ち砕かれ続けていた。
地獄の迷宮は、またしても、攻略された。
今度は、一人のエルフの、究極の「偶然」によって。
アイリスは、もはや、何も、考えられなかった。
ただ、目の前の、次なる部署の扉を見つめ、この、悪夢が、一刻も早く、終わることだけを、祈るのだった。