第二十一話 現状維持の部屋
詐欺師の知略、神の観察眼、そしてエルフの天然。
三つの、全く異なる、しかし完璧に噛み合った奇跡によって、『古代書式・記録保管課』という絶望的なアイテム探しクエストを突破した一行。
テオは、自らの知略が、アイリス(ノクト)の解析とシルフィの天然に敗北したという事実を、未だに受け入れられずにいた。
(…くそっ! たまたまだ! 次こそは、俺様の独壇場だぜ…!)
彼の強欲は、仲間への一方的なライバル心によって、さらに、不健全な輝きを増していた。
次なる部署の扉は、ひときわ古く、埃をかぶっていた。
扉には、『現状維持課』という、いかにも事なかれ主義な、しかし、具体的に何をしているのか、全く分からない部署名が、錆びついた真鍮のプレートに刻まれている。
「現状維持…? ひひひ、いよいよ、ラスボスのお出ましってわけか。こいつは、骨のある交渉になりそうだぜ」
テオは、腕を組み、不敵な笑みを浮かべた。
だが、その扉を開けた瞬間、彼は、自らのその戦闘的な予測が、見当違いであったことを、悟る。
部屋の中は、静かだった。
そして、信じられないほど、古めかしかった。
そこは、まるで、千年前の時間が、そのまま封じ込められたかのような、古い執務室だった。
壁には、色褪せたタペストリーがかかり、机の上には、インクが干からびた羽根ペンと、蝋で封をされたままの羊皮紙の巻物が、置かれている。部屋の隅には、美しい装飾が施された花瓶が置かれ、そこには、一本の、完全に水気を失って、ミイラ化した花が、かろうじて形を保って、刺さっていた。
部屋全体が、分厚い埃の層に覆われ、まるで、巨大な棺の中のようだった。
そして、その執務室の、最も奥。
豪華な天蓋付きのベッドの上で、一人の、骸骨のように痩せこけた老悪魔が、穏やかな寝息を立てて、眠っていた。
「…おい。…寝てやがるぜ」
テオが、呆れたように、呟く。
その声に、老悪魔は、うっすらと、目を開けた。
「…おお…。お客様、ですかな…。ようこそ、『現状維持課』へ…」
彼は、起き上がるのも億劫なのか、寝たままの姿勢で、かすれた声で、言った。
「当課の、試練は、一つ…。この部屋で、何もしないこと…。ただ、それだけ、ですじゃ…」
「…は?」
「この部屋は、千年前の、偉大なる我が初代課長の、執務室を、そのまま、保存したもの…。この、完璧な『現状』を、維持することの、重要性を、理解できた者のみ、次へと、進むことが、できるのですじゃ…。では、わしは、また、眠る故…」
老悪魔は、そう言うと、再び、すーすーと、穏やかな寝息を立て始めた。
答えも、ヒントも、何もない。
ただ、「何もしない」こと。
それは、これまでで、最も、シンプルで、最も、禅問答のような、試練だった。
「ひひひ…! なるほどな。そう来たか」
テオは、すぐに、この試練の、裏を、読んだ。
(「何もしない」だと? 馬鹿言え! これは、罠だ! この部屋には、必ず、どこか、一つだけ、千年前から、僅かに「変化」してしまった、間違いがあるはずだ! それを見つけ出し、「正しい現状」に、修復することこそが、真のクリア条件に違いねえ!)
彼は、詐欺師としての、疑り深い思考で、完璧な答えを、導き出した。
そして、すぐさま、行動を開始した。
「おい、アイリス、シルフィ! 手分けして、この部屋の、間違い探しをするぞ! 壁のタペストリーの、僅かな傾き! 本棚の本の、順番! 埃の、積もり方の、不自然さ! 何か、あるはずだ!」
テオは、自らの知略が、ついに、火を噴く時が来たと、興奮に、打ち震えていた。
一方、シルフィは、そんな、テオの頭脳戦には、全く、興味がなかった。
彼女の目は、部屋の隅に置かれた、一本の、枯れた花に、釘付けになっていた。
「…まあ…。この、お花さん…。とっても、喉が、渇いているのですね…」
彼女は、その、ミイラ化した花の姿に、心の底から、同情していた。
「可哀想に…。私が、お水を、あげますね」
彼女は、そう言うと、てくてくと、花瓶の元へと、歩き寄った。
そして、いつも持ち歩いている、水筒を取り出す。
「シルフィ! 馬鹿野郎! やめろ!」
テオの、悲鳴のような、制止の声が響く。
「そいつに水をやったら、『現状』が、変わっちまうだろうが!」
「え? ですが、このままでは、お花さんが、可哀想です…」
「いいから、やめろ!」
テオとシルフィが、問答を繰り広げている、その間も、アイリスは、ただ、一人、部屋の中央で、立ち尽くしていた。
彼女の心は、もはや、完全に、無だった。
(…間違い探し…。…お花に、お水…。…もう、どうでも、いいです…)
考えること、そのものが、億劫だった。
ただ、座りたい。
この、終わりのない、不毛な冒険から、解放されて、ただ、座って、休みたい。
彼女の、やる気のない目が、部屋の隅に置かれた、一つの、古い、木製の椅子を、捉えた。
それは、見るからに、古く、埃をかぶり、脚の一本は、少し、ぐらついているように、見えた。
(…もう、限界です…)
アイリスは、ふらふらと、その椅子へと、歩み寄った。
テオの、「おい、アイリス! 手伝え!」という声も、シルフィの、「テオさんは、意地悪です!」という声も、もはや、彼女の耳には、届いていない。
彼女は、ただ、その、古びた椅子に、ゆっくりと、しかし、全体重を預けて、腰を下ろした。
―――パキッ。
乾いた、小さな音が、部屋に響いた。
アイリスが、座った瞬間、千年の時を経て、脆くなっていた椅子の脚が、その重みに、耐えきれなかったのだ。
そして、次の瞬間。
バキバキバキッ! という、盛大な音と共に、椅子は、まるで、爆発したかのように、木っ端微塵に、砕け散った。
アイリスは、何が起こったのか、理解できないまま、木屑と埃の山の上に、尻餅をついていた。
「「「…………」」」
部屋が、静まり返る。
テオも、シルフィも、口を、あんぐりと開けて、その光景を、見つめている。
そして、ベッドで眠っていたはずの、老悪魔が、むくりと、上半身を、起こした。
その、骸骨のような顔に、初めて、明確な「感情」が、浮かび上がっていた。
それは、驚愕と、そして、底知れない、歓喜の、表情だった。
「…おお…!」
老悪魔は、ベッドから、転げ落ちるように、降りると、アイリスの元へと、駆け寄った。
「…素晴らしい…! なんと、素晴らしい、光景ですじゃ…!」
「…へ?」
アイリスは、尻餅をついたまま、間の抜けた声を上げた。
「千年の間、わしは、待ち続けた…。この、椅子が、いつか、朽ち果てる、その、瞬間を…。それこそが、この部屋における、唯一、許された、『現状』の、変化…。自然の、摂理…!」
老悪魔は、涙ながらに、語り始めた。
「だが、誰も、この椅子の、その、儚い運命に、気づきはしなかった…。ある者は、この部屋を、神聖なものと、恐れ、指一本、触れようとせず…。また、ある者は、愚かにも、この部屋の、歪みを、正そうと、した…」
彼は、ちらりと、アイリスの方を、見やった。
「じゃが、あなた様だけは、違った…。何も、考えず…。ただ、あるがままに、この部屋に、存在し…。そして、ただ、座る、という、最も、自然な行為によって、この、千年の、停滞を、打ち破ってくださった…! あなた様こそ、真に、『現状維持』の、何たるかを、理解された、お方じゃ…!」
あまりに、壮大な、勘違い。
アイリスの、ただの「やる気のなさ」が生んだ、偶然の事故。
それを、老悪魔は、深遠な、哲学的行為だと、完璧に、誤解したのだ。
「…お見事で、ございます…。どうぞ、お通りください…」
老悪魔は、深々と、頭を下げると、部屋の、奥の壁を、指さした。
そこには、いつの間にか、次へと続く、扉が、現れていた。
三人は、放心状態で、その部署を、後にした。
テオは、もはや、言葉もなかった。
自らの、完璧なロジックが、またしても、敗北した。
それも、今回は、シルフィの天然ですらない。
ただ、やる気のない聖女の、「もう、どうでもいい」という、究極の、無気力に、負けたのだ。
「……………」
彼は、静かに、決意した。
もう、考えるのは、やめよう、と。
この、迷宮では、論理は、無力だ。
ただ、この、二人の、規格外の女たちに、全てを、委ねるしか、ないのだ、と。
彼の、詐欺師としてのプライドが、完全に、へし折られた、瞬間だった。
そして、アイリスは、尻餅をついた、お尻の痛みに、顔をしかめながら、ほんの少しだけ、思った。
(…たまには、やる気がないのも、悪くない、かも、しれません…)
地獄の迷宮は、またしても、攻略された。
今度は、一人の、やる気のない聖女の、「無」の心が、奇跡を生み出したのだった。