第二十話 古代書式・記録保管課
やる気のない聖女の、究極の論理攻撃によって、『円滑な業務推進・特別相談課』(通称、ゴキブリホイホイ)を命からがら突破した一行。
課長のマモンは、魂の抜けたテオの肉体を聖女に使役されるという、あまりに非論理的な恐怖の未来を提示され、ガタガタと震えながら、三人がこれまで集めた全ての書類に、承認印を押した。
「ひ、ひひ…。あばよ、マモンの旦那。お前さんの、人の良さそうな顔は、忘れねえぜ…」
テオは、命拾いした安堵よりも、アイリスの底知れない恐ろしさに、まだ、心の中ではブルブルと震えていた。
(…やべえ。聖女様、やべえぞ…。やる気をなくすと、悪魔より怖いじゃねえか…)
彼の、詐欺師としての本能が、このパーティーにおける、真の力関係を、正確に、認識した瞬間だった。
次なる部署は、『古代書式・記録保管課』。
これまでの、いかにも意地の悪そうな名前の部署とは違い、どこか、アカデミックな響きを持つその名前に、三人は、ほんの少しだけ、油断していた。
「古代書式、ねえ。まあ、ここまでの関門を突破してきたんだ。あとは、流れ作業みてえなもんだろ」
テオは、自らを奮い立たせるように、そう呟いた。
だが、その扉を開けた瞬間、彼は、自らのその楽観的な観測が、致命的なまでに、間違っていたことを、悟る。
部屋の中は、静かだった。
これまでのどの部署よりも、広く、そして、がらんとしている。
ただ、部屋の壁一面が、床から天井まで、無数の、小さな引き出しで、埋め尽くされていた。
その、おびただしい数の引き出しには、一つ一つ、番号が振られている。
そして、部屋の中央には、一つの、小さなカウンターがあり、その向こうで、一人の、これまた、生気のない目をした悪魔の役人が、ただ、座っていた。
「…ようこそ、『古代書式・記録保管課』へ」
役人は、感情のない声で、告げた。
「皆様が、次の『最終契約承認室』へ進むには、新たに、特別な申請書が必要となります」
「…また、申請書かよ」
テオが、うんざりしたように、吐き捨てる。
「はい。皆様の案件は、千年前の契約に関する、極めてイレギュラーなケースですので、通常の書式では、対応できません。皆様には、地獄の創生期に一度だけ使われたという、伝説の書式、『様式ゼータ-九百九十九』にご記入いただく必要がございます」
「ゼータの、きゅうひゃくきゅうじゅうきゅう…?」
「はい。その申請書は、あまりに古く、特殊なものであるため、普段は使われておりません。ですが、ご安心を。その、ただ一枚の原本が、この部屋の、膨大な引き出しの、どこか一つに、保管されております」
役人は、にこりともせず、続けた。
「当課の『セルフサービス』の規則に基づき、ご自身で、探し出してください」
「…………は?」
テオの、思考が、フリーズした。
この、何百万とあるか分からない、引き出しの中から。
たった一枚の、見たこともない書類を、探し出せ、と?
それは、これまでで、最も悪意がなく、そして、最も絶望的な、試練だった。
ただ、ひたすらに、「探す」だけ。
知恵も、度胸も、賄賂も、聖女の威光も、一切、通用しない。
ただ、純粋な、「運」と「根気」だけが試される、究極の、クソゲー。
「…お、終わりだ…」
テオは、その場で、へなへなと、崩れ落ちた。
「…もう、無理だ…。こんなもん、見つかるわけ、ねえ…。俺の、ピクルスが…」
アイリスもまた、その、あまりに途方もない作業を前に、もはや、立っていることさえ、億劫になっていた。
(…そうですね…。もう、諦めましょう…。一週間の、ポテチ休暇も、もう、どうでも、いいです…)
パーティーが、再び、全滅の危機に瀕した、その時だった。
『…面白い』
アイリスの脳内に、ノクトの、静かな、しかし、確かな、闘志に満ちた声が、響いた。
『なるほどな。リアルタイムストラテジーではなく、アイテム探索系の、ポイントクリックゲームか。…上等だ。受けて立ってやろうじゃないか』
(か、神様…? ですが、こんな、無数の引き出しの中から…)
『黙って、俺の言う通りに、動け、新人。…このゲームにも、必ず、「法則」は、存在する』
ノクトの意識は、再び、神の領域へと、シフトした。
彼は、この部屋の、空気の流れ、魔力の淀み、そして、あの、やる気のない役人の、僅かな視線の動きまで、全てを、データとして、解析し始めた。
だが、その、神の解析を、待たずして、一人の男が、立ち上がった。
テオだった。
「…ひひひ。…そうかよ。そう来たかよ、悪魔ども…!」
彼は、絶望の淵から、這い上がっていた。
その瞳には、再び、詐欺師の、狡猾な光が宿っている。
「おい、アイリス、シルフィ! 俺に、考えがある!」
彼は、自らの無力さに打ちひしがれた先ほどの自分を、恥じていた。
神の力に頼らず、自らの知恵で、この局面を打開する。
それこそが、彼のプライドだった。
「いいか、官僚ってのはな、一見、無秩序に仕事をしてるようで、必ず、自分だけの『マイルール』を持ってるもんだ。書類の分類方法、保管場所…。そこには、必ず、奴らの、性格が、反映される!」
テオは、カウンターの役人を、じろり、と睨んだ。
「…あの、やる気のねえ、面倒くさがり屋の役人を見てみろ。あいつが、この膨大な書類を、律儀に、五十音順や、年代順に、ファイリングしてると思うか? …いいや、絶対に、しねえ!」
テオは、断言した。
「奴は、絶対に、『一番、楽な方法』で、書類を、保管しているはずだ! つまり、『最後に、自分が触った、引き出しの、近く』! そこに、放り込んでいるに、違いねえ!」
それは、あまりに人間臭く、あまりに詐欺師らしい、プロファイリングだった。
テオは、役人が、最後に、どの引き出しを、閉めたのか、その、僅かな、指先の跡や、埃の乱れを、血眼になって、探し始めた。
その、テオの、必死の捜索を、アイリスは、ただ、ぼんやりと、眺めていた。
彼女の脳内では、ノクトが、全く、別の次元からの、解析を、続けていた。
『…あの役人、書類を受け取った後、必ず、一度、天井を、見上げているな…。そして、引き出しの、左上から、右下へと、視線が、動いている…』
ノクトの、ゲーマーとしての、異常なまでの観察眼が、悪魔の、無意識の、行動パターンを見抜いた。
『…分かったぞ。奴は、書類が、この部屋に保管された、その瞬間の、「星の位置」で、保管場所を、決めているんだ。…この、地獄の迷宮にも、天窓から、僅かに、地獄の星空が見える。…奴は、その、星の配置を、座標に見立てて、引き出しの番号と、連動させているんだ!』
その、あまりに常人離れした、解析。
アイリスには、もはや、その半分も、理解できなかった。
だが、脳内に響く、ノクトの声は、絶対的な、自信に、満ち溢れていた。
『新人! その伝説の書式が保管されたのは、おそらく、地獄が創生されたその日だ! 古代の星図と、照合する! …出たぞ! 引き出しの、一番右下の隅! 床から二番目の引き出しだ! そこに、ある!』
一方、シルフィは、そんな、二人の、高度な頭脳戦には、全く、興味がなかった。
彼女は、ただ、この、無数の、木の引き出しが、なんだか、面白そうに見えて、一つ、一つ、くんくん、と、匂いを、嗅いで、回っていた。
「…この、引き出しは、なんだか、悲しい匂いがします…」
「こっちは、怒っている、匂い…」
「あ!」
彼女は、ある、一つの引き出しの前で、足を止めた。
それは、部屋の、一番、右下の隅。床から、二番目の、引き出しだった。
「アイリス! テオさん! この引き出し、とっても、とっても、寂しそうな匂いがします! きっと、ずーっと、誰も、開けてくれていないのですよ! 私が、開けてあげますね!」
彼女は、何の気なしに、その、小さな、木の引き出しを、ゆっくりと、開けた。
「あったぞ! これだ! この、引き出しだ!」
テオが、役人の指紋の跡をたどり、一つの引き出しを、指さした、その瞬間。
「引き出しの、一番、右下の隅! 床から、二番目です!」
アイリスが、ノクトの神託を、叫んだ、その瞬間。
そして、シルフィが、その、全く同じ引き出しを、「寂しそうだから」という、ただそれだけの理由で、開けた、その瞬間。
三つの、全く異なる、しかし、完璧に同じ「答え」が、一つの奇跡を生み出した。
引き出しの中には、一枚だけ。
古代の魔術がかけられ、千年以上の時を経ても、決して、朽ちることのない、美しい、黒い羊皮紙が、静かに、眠っていた。
『様式ゼータ-九百九十九』。
それだった。
「「「…………え?」」」
三人の、声が、完璧に、ハモった。
テオは、信じられないという顔で、その羊皮紙を、シルフィの手から、ひったくった。
「な、なんで、お前が…! いや、それより、なんで、アイリスも、場所が…!?」
彼の、知略と、プライドが、ぐちゃぐちゃに、かき乱される。
役人は、その羊皮紙を受け取ると、初めて、その、魂のない目に、驚愕の色を、浮かべた。
「…そ、そんな…。なぜ、場所が…? ま、まさか、あなた方は、伝説の、『書類整理の神』の、ご一行様、なのですか…?」
その、あまりに間抜けな、問いに、テオは、力なく、首を振った。
もはや、自分の知略が、通用する世界ではない。
彼は、ただ、背後にいるアイリスと、その隣でにこにこと微笑む、この、底の知れない「天然エルフ」の存在に、畏怖の念を、抱くだけだった。
役人は、震える手で、最後の、承認印を、押した。
またしても、地獄の迷宮は、攻略された。
今度は、詐欺師の知略と、神の観察眼と、エルフの天然が、奇跡の一致を生み出したのだ。
だが、その勝利を心から喜んでいたのは、シルフィだけだった。
テオは、自らの無力さに、打ちひしがれ、アイリスは、『神』の底知れなさに、ただ、疲労を深めるだけ。
シルフィだけが、「わあ! 宝探し、クリアです! 皆で、協力できましたね!」と、一人、嬉しそうに、微笑んでいた。
彼らの、奇妙な冒険は、まだ、半分も、終わってはいなかった。