第二話 伝播する無気力
王都のパン屋の扉に貼られた、一枚の奇妙な張り紙。
『やる気が出ないため、臨時休業いたします』
アイリスが目にしたその静かな違和感は、翌日には、もはや無視できない、明らかな「異変」として、王国中に伝播し始めていた。
王国騎士団第一訓練場。
激情のギルは、もはや怒りの感情さえも、どこか億劫に感じ始めていた。
彼の目の前で繰り広げられているのは、王国最強を誇る騎士団の訓練とは到底思えない、あまりにも気の抜けた光景だったからだ。
「…おい。…そこのお前。なぜ、木剣を枕にして寝ているでありますか…」
ギルの声には、いつものような雷鳴の如き覇気がない。
指摘された騎士は、眠そうな目をこすりながら、力なく答えた。
「はあ…教官殿…。なんだか、こう…剣を振るうのも、億劫でして…。それよりも、この木漏れ日の下で、鳥のさえずりでも聞いていたい気分というか…」
「馬鹿者ッ! 姉御をお守りする騎士が、そのようなことでどうする!」
ギルは、気力を振り絞って一喝する。
だが、その声に、騎士たちはびくりともしない。
それどころか、訓練場のあちこちで、騎士たちが次々と訓練を放棄し始めていた。
城壁に寄りかかって虚空を見つめる者、鎧を磨くのも面倒だと、その場に座り込む者、そして、互いに「もう、頑張らなくてもいいんじゃないか…」と、悟りを開いたかのような顔で、静かに語り合う者たち。
昨日まで、ギルの理不尽な訓練に悲鳴を上げながらも、必死に食らいついていた彼らの闘志は、一夜にして、完全に消え失せていた。
「…もう、いいであります…」
ギルは、ついに、檄を飛ばすのをやめた。
その肩は、がっくりと、力なく垂れ下がっている。
彼自身、このやる気のない集団を前に、大声を出すこと自体が、ひどく、面倒に感じられていた。
戦うべき敵のいない平和は、戦士の魂を、静かに、そして確実に、蝕んでいく。
彼は、その恐ろしさを、今、肌で感じていた。
その奇妙な「無気力」の波は、芸術の世界にも、静かに押し寄せていた。
王立魔術学院。
名誉顧問であるジーロスは、自らがピンクのクリスタルへと変貌させた校舎のテラスで、腕を組み、ただ、ぼんやりと空を眺めていた。
普段の彼であれば、新たな芸術的インスピレーションを求めて、校舎の改築に情熱を燃やしている時間だ。
だが、今の彼の心は、驚くほど、静かだった。
「…ジーロス顧問。次の『美化計画』のご予算の件ですが…」
恐る恐る、一人の老教授が話しかける。
ジーロスは、ゆっくりと振り返ると、驚くべき言葉を口にした。
「…ああ、その件かね。…いや、いい。今日は、やめておこう」
「…へ?」
「なんだか、もう…どうでもよくなってきてしまってね…。この校舎がピンクだろうと、元の石造だろうと、大した違いはないような気がしてきたのだよ。美とは、もっとこう…形のない、心の中にあるものなのかもしれない…」
その、あまりに哲学的な、そしてジーロスらしくない発言に、老教授は、言葉を失った。
彼を長年悩ませてきた、この芸術という名のテロリストが、まるで悟りを開いた聖人のように、穏やかな表情を浮かべている。
それは、学院の平和にとっては、喜ばしいことであるはずだった。
だが、老教授は、言いようのない、不気味さを感じていた。
情熱の炎を失った芸術家は、もはや、芸術家ではない。
ジーロスという男から、彼の存在そのものを定義していた「美への執着」が、静かに、消えかけていた。
そして、その影響は、ついに、聖女アイリス・アークライト自身の心をも、深く、蝕み始めていた。
「…はぁ…」
自室の鏡の前で、侍女に着せられた、寸分の隙もない完璧な公務用のドレス。
アイリスは、そこに映る「完璧な聖女」の姿に、もはや、何の感情も抱けなくなっていた。
今日の予定は、午前中に、隣国からの使節団との会談。
午後は、王都の孤児院への慰問。
そして夜は、貴族たちが主催する、慈善パーティーへの出席。
どれもが、聖女として、果たすべき、重要な責務だ。
だが、今の彼女の心には、そのどれもが、果てしなく、億劫な作業にしか思えなかった。
(…行きたくない…)
初めて、彼女の心に、明確な「職務放棄」の願望が浮かんだ。
聖女の仮面を脱ぎ捨てて、このまま、ベッドに倒れ込み、一日中、眠ってしまいたい。
誰とも会わず、何も考えず、ただ、静かに、時が過ぎるのを待っていたい。
その、抗いがたい倦怠感が、鉛のように、彼女の全身を支配していた。
「アイリス様、お時間でございます」
侍女の、丁寧な声。
アイリスは、最後の気力を振り絞り、完璧な聖女の笑みを、顔に貼り付けた。
「…ええ。行きましょう」
一歩、また一歩と、執務室へと向かう足取りが、信じられないほど、重い。
彼女は、気づき始めていた。
この、王国中に蔓延する、奇妙な無気力。
それは、もはや、単なる平和ボケなどではない。
もっと、根源的で、抗いがたい、何者かの「意思」が働いているのではないか、と。
だが、その原因を究明しようという「やる気」すらも、今の彼女には、湧いてこなかった。
ただ、目の前の責務を、感情を殺して、こなすだけ。
彼女の心は、静かに、しかし確実に、色を失いつつあった。
王国の活気が、一日、また一日と、失われていく。
そして、その静かで致命的な病魔の手は、ついに、王城の最も高い塔の、神聖にして不可侵なる聖域――一人の引きこもりゲーマーの生命線である、新作限定ポテチの生産ラインにまで、忍び寄ろうとしていた。