第十九話 賄賂歓迎の部署
完璧主義者の押印官アザゼルの精神を、シルフィの天然が木端微塵に粉砕してから、数十分後。
三人は、その全てに承認印が押された書類の束を手に、次なる部署へと向かっていた。
これまでの迷宮攻略は、明らかにシルフィの独壇場だった。
その事実に、不徳の神官テオは、詐欺師としてのプライドを、密かに、そして深く、傷つけられていた。
(…くそっ! あのエルフめ、めちゃくちゃやりやがって…! このままじゃ、手柄を全部、あいつに持ってかれちまう! 神様とやらの報酬交渉で、俺の取り分が減るじゃねえか!)
彼の頭の中は、もはや王国を救うことよりも、いかにして自分の手柄を最大化するか、その一点に集中していた。
(…次の部署こそ、俺様の独壇場にしてやる。見てろよ、神様…! 悪魔との交渉において、俺の右に出る者はいねえってことを、証明してやるぜ!)
彼の強欲は、仲間への対抗心によって、さらに、禍々しい輝きを増していた。
そんな、テオの歪んだ決意を知ってか知らずか。
三人がたどり着いた次の扉は、まるで、彼のそんな欲望を、手招きしているかのようだった。
これまでの、無機質で、威圧的な鉄の扉とは、明らかに違う。
重厚なマホガニーで作られた、美しい彫刻が施された扉。
そして、その扉には、『円滑な業務推進・特別相談課』という、いかにも話が分かりそうな、柔らかい響きの部署名が、掲げられていた。
「…ひひひ」
テオの口から、確信に満ちた、笑みが漏れた。
「…来たな。俺様のための、ステージがよ」
扉を開けると、そこは、これまでのどの部署とも違う、まるで高級ホテルのラウンジのような、豪華な空間だった。
ふかふかの絨毯、座り心地の良さそうな革張りのソファ、そして、部屋の奥には、趣味の良い調度品に囲まれた、巨大な執務机。
その机の向こうで、一人の、実に人の良さそうな、恰幅の良い、初老の悪魔が、にこやかな笑みを浮かべて、三人を迎えた。
「やあやあ、ようこそおいでくださいました。『中央手続きセンター』へようこそ。わたくし、当課の課長、マモンと申します」
その、あまりに丁寧で、腰の低い態度。
アイリスとシルフィは、きょとんと目を丸くし、テオは、心の中で、勝利を確信した。
(…こいつは、話の分かるタイプだ。しかも、名前が『マモン』だと? 地獄の『強欲』を司る、大悪魔の名じゃねえか。…ひひひ、こいつは、俺の、同類だ!)
「長旅でお疲れでしょう。どうぞ、そちらのソファへ。今、極上の魂のお茶を、ご用意させますので」
マモンは、三人をソファへと促すと、自ら、机の上の書類に、目を通し始めた。
「ふむふむ…。なるほど、異議申し立て、でございますな。いやあ、これは、大変でしたでしょう。あの『申請書処理課』の無限地獄に、『押印課』のアザゼルの完璧主義。…お察しいたします」
彼は、まるで、三人の味方であるかのように、同情的な言葉を並べる。
「しかし、ご安心ください。この『特別相談課』は、そのような、非効率な手続きを、円滑に進めるために、設立された部署。いわば、皆様のような、特別な方のための、『近道』をご用意する部署なのでございますよ」
近道。
その、甘美な響きに、テオの目が、ギラリと光った。
「ひひひ…! そいつは、話が早い! で? その『近道』とやらは、タダじゃねえんだろ?」
「おっと、これは、手厳しい。ですが、まあ、その通りでございますな」
マモンは、人差し指を立てて、にこやかに言った。
「この世の理は、等価交換。何かを得るには、何かを、差し出すのが、道理というもの。…我々が、皆様の手続きを、大幅に短縮する。その対価として、皆様も、我々に、ほんの少しばかりの『誠意』を、見せていただく。…ただ、それだけの、ことでございますよ」
誠意。
それは、この世界において、ただ一つのものを、意味していた。
賄賂だ。
「ひひひひひ…! やはりな!」
テオは、もはや、笑いをこらえることができなかった。
ここは、自分の、独壇場だ。
彼は、懐から、金貨が詰まった、ずっしりと重い袋を取り出すと、それを、机の上に、叩きつけた。
「どうでえ、旦那。この『誠意』で、どこまで、ショートカットできる?」
「おお、これは、これは…」
マモンは、その金貨の輝きに、目を細めた。
「…ですが、お客様。残念ながら、我々は、そのような、下品なものは、受け取らないことになっておりまして」
「…は?」
「我々が求める『誠意』とは、もっとこう…魂のこもった、希少価値のあるもの。例えば…」
マモンは、シルフィが手にしている、一個の饅頭に、ちらりと、視線を送った。
「…そちらの、お嬢さんがお持ちの、『極上魂蜜がけ饅頭』。そのようなものであれば、話は、別なのですがねえ」
その言葉に、テオは、心の中で、膝を打った。
(なるほどな! ただの金じゃ、動かねえ、と。こいつは、相当な、食わせ物だぜ!)
「分かった! その饅頭、くれてやる! これで、どうだ!」
テオは、シルフィから饅頭をひったくると、マモンの前に、差し出した。
マモンは、満足げに頷くと、その饅頭を受け取り、机の引き出しに、しまった。
「ありがとうございます。では、皆様の書類、全てに、私の権限で、承認印を、押しましょう。これにて、全ての手続きは、完了、ということで」
「なっ!? 本当か!?」
「ええ。ですが、これは、あくまで内密に。…これも、円滑な業務のため、ですので」
マモンは、そう言うと、書類の束に、次々と、手早く、ハンコを押していく。
あまりに、あっけない、幕切れ。
テオは、自らの、交渉術の勝利に、打ち震えていた。
(見たか、神様! これが、俺様の実力よ! 知恵と、度胸と、そして、最高の『賄賂』さえあれば、地獄のルールなんざ、どうとでもなるんだ!)
彼が、勝利の余韻に浸っていた、まさに、その時だった。
―――ウウウウウウウウウッ!!!
突如、部屋全体に、けたたましい、警報音が鳴り響いた。
そして、部屋の入り口と出口に、頑丈な、鉄格子が、一斉に、下りてくる。
「な、なんだ!?」
テオが、叫ぶ。
その、彼の目の前で、先ほどまでの、人の良さそうな、マモンの笑みが、すうっと、消えた。
代わりに、そこに浮かんでいたのは、獲物を捕らえた、悪魔の、冷酷な、嘲笑だった。
「―――地獄法第九百九十九条!『公務執行の公正性を、著しく歪める、悪質な贈賄行為』! 現行犯で、魂を、永久に、差し押さえます!」
「わ、罠、だったのか!?」
「ええ。この部署は、あなた様のような、ルールを軽んじる、不埒な魂を、一網打尽にするために、設立された、特別懲罰課。通称、『ゴキブリホイホイ』なのでございますよ」
マモンの、恰幅の良い体が、禍々しいオーラを放ち、その、にこやかだった顔が、恐ろしい、悪魔の形相へと、変わっていく。
テオは、自らの、最も得意とする土俵で、完膚なきまでに、敗北したのだ。
「…ひ、ひいっ…!」
テオが、腰を抜かし、その場にへたり込む。
その、絶望的な状況。
だが、その中で、一人だけ、全く、動じていない人物がいた。
アイリスだった。
彼女は、ソファに座ったまま、気だるそうに、あくびを一つした。
そして、まるで、他人事のように、呟いた。
「…あのう。その、贈賄行為というのは、テオが個人的に行ったもの、ですよね…?」
「…は?」
マモンの、動きが、止まった。
「私と、シルフィは、見ての通り、ただ、ソファに座って、お茶を、待っていただけです。…私たちは、関係、ありませんので…。先に、進ませていただいても、よろしいでしょうか…?」
その、あまりに聖女らしからぬ、あまりに薄情な、しかし、完璧なまでに論理的な一言。
悪魔の、思考が、フリーズした。
「な…仲間を、見捨てる、というのですか…!?」
「…仲間、というよりは、利害が、一致しているだけ、ですので…。彼の、個人的な犯罪に、お付き合いする義理はありません…」
アイリスの、やる気のない瞳が、まっすぐに、マモンを、見つめる。
ルールを、絶対視する、この迷宮。
その、ルールに則れば、彼女の言い分は、完全に正しかった。
贈賄を行ったのは、テオ、ただ一人。
共犯の、証拠は、ない。
「ぐ…! し、しかし…!」
マモンが、言葉に詰まる。
その、彼の、動揺を、見逃すほど、ノクトは、甘くはなかった。
『―――今だ、新人。…奴に、トドメを刺せ』
アイリスは、脳内に響く、ノクトの悪魔的な囁きに従い、最後の一撃を放った。
「…分かりました。では、彼の魂は、ルール通り、差し押さえてください。…ただし」
彼女は、すっくと、立ち上がった。
その、やる気のない体から、淡い、しかし、有無を言わせぬ、聖女のオーラが立ち上る。
「彼の、肉体は、聖女である、私の、所有物です。魂は地獄のルールに則って差し押さえていただいて結構ですが、残った器はこちらに返していただけますか? 神への、奉仕に、使いますので…」
その、あまりに非論理的で、あまりに不気味で、そして、あまりに冒涜的な要求に、マモンの、悪魔としての理性が、悲鳴を上げた。
聖女が?
魂の抜けた器を?
神への奉仕に?
一体、どんな冒涜的な神に仕えているのだ、この女は!?
そして何より、そんな前例のない要求、どう処理すればいい!?
魂と肉体を別々に処理するなど、地獄の法律のどこにも書かれていない!
そんなことをすれば、自分は、監査部門から、千年分の始末書を書かされることになる…!
「ひ…ひいいいいいいいいっ!!!」
マモンの、悪魔としての理性が、ついに、限界を超えた。
彼の体が、ぶるぶると震え、その、禍々しいオーラが、まるで、ショートしたかのように、激しく明滅する。
「わ、分かりました! 分かりましたから! もう、結構です! 全員の、無罪を、認めます! ですから、どうか、お引き取りを…!」
鉄格子が、慌てたように、上がり、出口への道が、開かれた。
マモンは、机の影に隠れ、ガタガタと、震えている。
テオは、助かった、という安堵よりも、聖女の恐ろしさに、ただ、震えていた。
地獄の迷宮は、またしても、攻略された。
今度は、やる気のない聖女の、「無気力」が生んだ、究極の論理攻撃によって。