第十五話 誠実の羽根ペン
ルールを知略で打ち破ろうとする詐欺師と、ルールそのものを天然で無効化するエルフ。
最強の「賄賂」を手にした奇妙なコンビ(と、その後ろをゾンビのように付いてくる聖女)は、ついに次なる部署、『代理人資格審査課』の重々しい扉の前にたどり着いた。
「ひひひ…! ここが、次の関門か。楽勝だぜ」
テオは、自信満々に、シルフィが手に入れた『極上魂蜜がけ饅頭』を懐から取り出した。
「どんな石頭の役人だろうと、こいつを目の前にすりゃあ、一発よ!」
彼らが扉を開けると、そこは、これまでのどの部署とも違う、異様なまでの静寂に包まれた空間だった。
部屋は、巨大な図書館のようだった。
天井まで届く本棚が迷路のように立ち並び、空気は、古い羊皮紙の匂いと、乾燥したインクの匂いで満たされている。
そして、その部屋の中央、ひときわ豪華な彫刻が施された机で、一人の、神経質そうに眉間に皺を寄せた、痩身の悪魔が、羽根ペンを走らせていた。
彼の名は、モレク。この『代理人資格審査課』の課長であり、アウディトール局長代理さえも「石頭」と評する、規則と格式を何よりも重んじる、エリート官僚だった。
「…何か、ご用件かな」
モレクは、顔を上げずに、冷たく言い放った。
「ひひひ…! 旦那! 俺たちは、『様式一号』の承認を貰いに来た! …まあ、堅いことは言いっこなしだ。まずは、こいつを、受け取ってくれや」
テオは、満面の笑みで、饅頭を差し出した。
その瞬間だった。
モレクの、ペンを走らせる手が、ピタリと、止まった。
彼は、ゆっくりと、顔を上げた。その、カミソリのように鋭い目が、テオと、彼が差し出す饅頭を、値踏みするように、じろりと、見つめる。
そして、一言。
「…無礼だ」
「……は?」
「その、下品な手で、神聖なる『贈答品』を、直接、差し出すなど。…作法が、なっとらん」
モレクは、深いため息をつくと、机の上の、小さなベルを、チリン、と鳴らした。
すると、どこからともなく、別の役人が、銀の盆と、白い手袋を持って、現れた。
「贈答品は、まず、こちらの盆の上に置き、受領担当官による、品位の検査を受けるのが、当課の、ルールだ」
「な…なんだと…!?」
テオは、その、あまりに馬鹿馬鹿しい、しかし、有無を言わせぬ格式に、言葉を失った。
彼は、仕方なく、饅頭を、銀の盆の上に、置いた。
役人は、その饅頭を、様々な角度から、じろじろと眺め、匂いを嗅ぎ、最終的には、小さな銀のナイフで、ほんの少しだけ、切り取って、口に含んだ。
「…ふむ。品名、『極上魂蜜がけ饅頭』。糖度、粘度、香り、いずれも、規定値を、クリア。…課長、問題ありません」
「よろしい」
モレクは、頷くと、ようやく、その饅頭に、手を伸ばした。
そして、優雅な手つきで、それを、一口。
その、眉間の皺が、ほんの少しだけ、和らいだのを、テオは見逃さなかった。
(…よし! 食いついた!)
「…まあ、良かろう」
モレクは、咳払いを一つすると、テオが差し出した書類の束を、受け取った。
「…ふむ。『様式一号』は、受理済み、か。…次の、手続きは、『代理人資格宣誓書』への、署名だ」
彼が、差し出してきたのは、一枚の、分厚い、高級な羊皮紙だった。
「ここに、三名、それぞれの、自筆での署名を。…ただし」
モレクの、目が、キラリと、光る。
「当課で用意した、この、『誓いの羽根ペン』と、『真実のインク』を、使用していただく」
彼が示したのは、禍々しいほどの魔力を放つ、黒い羽根ペンと、血のように赤いインクだった。
「このペンとインクには、嘘偽りのない、誠実な魂の持ち主でなければ、文字を書くことができない、という、特殊な魔術が、かかっている。…さあ、どうぞ」
その、あまりに意地の悪い罠に、テオの顔が、引き攣った。
聖女であるアイリスは、問題ないだろう。
純粋なシルフィも、大丈夫に違いない。
だが、自分は?
強欲と、詐欺と、イカサマで、塗り固められた、この自分の魂が。
この、悪魔のインクで、文字を書けるはずが、なかった。
(…くそっ! どうする…!)
テオが、冷や汗を流していた、その時だった。
それまで、ぐったりとしていたアイリスが、ふらり、と、一歩、前に出た。
「…まず、私が、書きます」
彼女の声は、か細かったが、その瞳には、聖女としての、最後のプライドが、宿っていた。
彼女は、ペンを手に取り、自らの名前を、流麗な筆跡で、書き記した。
文字は、確かに、羊皮紙の上に、現れた。
次に、シルフィが、楽しそうに、ペンを受け取る。
「わあ! ふわふわのペンです!」
彼女は、自分の名前を、子供のような、丸い文字で、書き記した。
もちろん、彼女の魂に、嘘偽りなど、あろうはずもない。
そして、最後。
テオの番だった。
彼は、ごくり、と喉を鳴らし、震える手で、ペンを受け取った。
インクをつけ、羊皮紙の上に、ペン先を、置く。
(…頼む…! 動いてくれ…!)
だが、ペンは、まるで、石のように、動かなかった。
インクが、彼の魂を、拒絶しているのだ。
「…ほう?」
モレクの、口元に、嘲るような、笑みが、浮かんだ。
「どうやら、貴殿の魂は、この宣誓書に、相応しくないようだ。…残念ながら、この申請は、却下、と…」
彼が、そう、言いかけた、瞬間だった。
「―――待ってください」
静かな、しかし、凛とした声が、図書館に響いた。
アイリスだった。
彼女は、いつの間にか、立ち上がっていた。
その、やる気のなかったはずの瞳に、今、静かな、しかし、燃えるような、怒りの炎が、宿っていた。
「…おかしいでは、ありませんか」
彼女は、モレクを、まっすぐに、見据えた。
「『誠実な魂』でなければ、書けない、と、あなたは、おっしゃいました。…ですが、この男、テオは、確かに、不徳の神官です。その、やり方は、褒められたものでは、ないかもしれません。ですが、彼の行動の、その根底にあるのは、常に、仲間を、そして、この国を、彼なりのやり方で、豊かにしたいという、純粋な『欲望』です。それは、嘘偽りのない、彼の、誠実な魂の形のはず。…それが、なぜ、インクに、拒絶されるのですか?」 その、あまりに堂々とした、聖女の問い。
それは、彼女自身の、本心からの、叫びだった。
モレクは、一瞬、たじろいだ。
「そ、それは…! ルールですので!」
「ならば、そのルールが、間違っています!」
アイリスは、一歩、前に出た。
「テオの魂が、不誠実なのではない。あなたの、その、杓子定規な『誠実』の定義が、間違っているのです!」
彼女の体から、淡い、しかし、温かい、聖女の光が溢れ出す。
それは、「やる気」とは、違う。
仲間を信じる、という、ただ一点の、純粋な「意志」の光だった。
その光が、テオが持つ、黒い羽根ペンに、そっと、触れた。
すると、どうだろう。
ペンを覆っていた、禍々しい魔力が、すうっと、消え、代わりに、温かい光を、帯び始めたのだ。
そして、テオの手が、まるで、意思を持ったかのように、滑らかに、動き出す。
羊皮紙の上に、「テオ」という、彼の、無骨な、しかし、力強い署名が、確かに、刻まれた。
「…な…!?」
モレクは、信じられないものを見る目で、その署名を、見つめていた。
聖女の力が、悪魔の魔術を、上書きした…?
いや、違う。
彼女は、ただ、テオの魂の形を、ありのままに、「肯定」しただけ。
それによって、インクが、彼の魂を、「誠実」であると、認めざるを得なくなったのだ。
「…ば、馬鹿な…。こんな、非論理的なことが…」
モレクは、がっくりと、肩を落とした。
ルールに、絶対の自信を持っていた、彼のプライドが、音を立てて、崩れていく。
彼は、震える手で、最後の、承認印を、羊皮紙に、押した。
「…よ、ろしい…。次の…部署へ、行きたまえ…」
その声は、もはや、力なく、かすれていた。
三人は、承認された宣誓書を手に、図書館を後にした。
テオは、まだ、信じられないという顔で、アイリスを、見つめていた。
「…おい、アイリス…。お前、今…」
「…何も、言わないでください」
アイリスは、ぷい、と顔をそむけた。
彼女の顔は、真っ赤になっていた。
「…なんだか、急に、体が、熱くて…。…少し、疲れただけです…」
彼女は、また、壁に、もたれかかる。
だが、その瞳には、先ほどまでの、虚無の色は、なかった。
ほんの少しだけ、確かな、光が、宿っていた。
地獄の迷宮は、まだ、続く。
だが、やる気のない聖女の心に、今、小さな、しかし、確かな「変化」の兆しが、芽生え始めていた。