第十三話 シルフィ、お茶を淹れる
テオの、悪魔をも欺く書類偽造によって、『申請書処理課』という最初の関門を突破した一行。
承認印が押された「様式一号」の羊皮紙を、テオはまるで戦利品のように、誇らしげに掲げていた。
「ひひひ…! 見たか、アイリス! シルフィ! これが、知恵と度胸と、ちょっとしたイカサマで、巨大な権力に打ち勝つ、ってやつよ!」
「テオさん、すごいですね! 魔法みたいです!」
シルフィは、手放しで彼を称賛し、アイリスもまた、力なく、ぱちぱちと拍手を送った。
(…すごいのは、分かりますが…。聖女として、犯罪行為に加担してしまった…)
彼女の良心は、わずかに痛んだが、その痛みを感じることさえ、億劫だった。
次なる目的地は、『代理人資格審査課』。
口髭の悪魔が、無感情に指さした、書類の迷宮の、さらに奥深くにある扉だ。
三人は、再び、薄暗く、どこまでも続くかのような、職員専用通路を、歩き始めた。
壁には、相変わらず、「廊下での私語は、三単語以内とすること」「廊下のタイルは、黒い部分のみを踏んで歩くこと(白は上級職員専用)」といった、読むだけで精神が削られるような、理不尽な注意書きが、延々と続いている。
「…もう、歩けません…」
数分も歩かないうちに、アイリスが、その場に、へたり込んだ。
ただでさえゼロに近い彼女の「やる気」は、この、退屈な空間を歩くだけで、マイナスに振り切れようとしていた。
「おい、しっかりしろ、アイリス! お前が倒れたら、俺のピクルスが!」
「…そう言われましても…。足が、棒のようです…」
テオが、アイリスの腕を無理やり引っ張ろうとした、その時だった。
「あ!」
シルフィが、突然、素っ頓狂な声を上げて、一つの扉を指さした。
「アイリス、テオさん! あそこから、なんだか、いい匂いがします! ちょっと覗いてみませんか?」
その扉には、「職員休憩室」と、小さな札がかけられている。
扉の隙間からは、微かに、香ばしい、何かお菓子のような香りが、漂ってきていた。
シルフィの、エルフならではの鋭敏な嗅覚が、それを捉えたのだ。
「休憩室、だと…? ひひひ…! いいじゃねえか! あの、やる気のねえ悪魔どもが、どんな休憩をしてるのか、偵察してやろうぜ!」
テオは、何か金になりそうな情報が転がっているかもしれない、という下心で、その提案に飛びついた。
アイリスもまた、「休憩」という、甘美な響きに、抗うことができなかった。
三人が、そっと、休憩室の扉を開けると、そこは、これまでの殺風景な空間とは打って変わって、驚くほど、生活感に溢れた場所だった。
使い古されたソファ、カードゲームやお菓子が散らかったテーブル、そして、部屋の隅には、小さな湯沸かし器と、様々な種類の茶葉が置かれた棚があった。
そして、そのソファには、数人の悪魔の役人たちが、まるで抜け殻のように、ぐったりと、座り込んでいた。
彼らは、アイリスたちの侵入に気づく様子もなく、ただ、虚空を見つめ、深いため息をついている。
「…はぁ…。もう、働きたくない…」
「…分かる。俺たち、一体、何のために、毎日、ハンコを押してるんだろうな…」
「…局長代理、うるさいし…。あいつの、完璧な書類への執着、異常だよな…」
地獄の、中間管理職たちの、悲哀に満ちた会話。
その、あまりに人間臭い光景に、アイリスとテオは、一瞬、言葉を失った。
「あの…」
その、重苦しい空気を破ったのは、シルフィの、あまりに純粋で、あまりに場違いな、一言だった。
「皆様、お疲れのようですね。よろしければ、私が、お茶を淹れましょうか?」
その言葉に、悪魔の役人たちが、ゆっくりと、顔を上げた。
彼らの、死んだ魚のような目に、ほんの少しだけ、生気が宿る。
「…お茶…?」
「はい! 私の故郷の、とっても美味しいハーブティーがあるんです! これを飲むと、なんだか、心が、ぽかぽかしてくるんですよ」
シルフィは、悪魔たちの返事を待たずに、てくてくと、湯沸かし器へと向かった。
そして、懐から、小さな布の袋を取り出す。
中には、彼女が故郷の森で摘んだ、色とりどりの、乾燥したハーブが、入っていた。
「おい、シルフィ! 何を、勝手なことを…!」
テオが、慌てて止めようとする。
だが、シルフィは、全く、気にする様子もない。
彼女は、手慣れた様子で、湯を沸かし、ティーポットに、数種類のハーブを、絶妙なバランスで、ブレンドしていく。
やがて、休憩室全体に、これまでとは比較にならないほど、芳醇で、甘く、そして、どこか懐かしい、優しい香りが、満ち満ちていった。
その香りに、悪魔たちの表情が、明らかに、和らいでいく。
「…なんだ、この匂いは…。心が、安らぐ…」
「シルフィさん、と言いましたか。どうか、一杯、いただけますか?」
シルフィは、にこにこと、人数分のカップに、美しい琥珀色のお茶を注いでいく。
悪魔たちは、恐る恐る、そのカップを手に取り、一口、飲んだ。
その瞬間、彼らの、死んでいた目に、驚くべき、輝きが、宿った。
「「「…美味いっ!!!」」」
魂からの、絶叫。
それは、ただのハーブティーではなかった。
エルフの秘術と、シルフィの、純粋な「癒し」の心がブレンドされた、奇跡の一杯。
疲労でささくれだった彼らの魂に、温かい、優しい魔力が、染み渡っていく。
「…うまい…。こんなに、うまいお茶は、生まれて初めてだ…」
「…ああ…。なんだか、故郷の、硫黄の匂いを、思い出す…」
「…もう一杯、いただけませんか…?」
悪魔たちは、すっかり、シルフィのハーブティーの虜になっていた。
テオは、その光景を、呆然と、眺めていた。
(…なんだ、こりゃ。…こいつも、商売になるんじゃねえか…?)
その、和やかなお茶会の輪の中で、一人の、ひときわ若い悪魔の役人が、堰を切ったように、シルフィに、語り始めた。
「ありがとうございます、シルフィさん! このお茶のおかげで、なんだか、久しぶりに、心が晴れましたよ! いやあ、最近、本当に、嫌になっちゃいましてね! 上からは、書類の不備をネチネチ言われるし、下からは、やる気のない魂たちの対応を押し付けられるし…」
彼は、すっかり気を許したのか、言ってはいけないことまで、ぺらぺらと、喋り始めた。
「特に、次の『代理人資格審査課』! あそこの課長、石頭で有名なんですよ! ちょっとでも書類に不備があると、すぐに、一番最初の受付まで、突き返すんですから! まったく、融通が利かないっていうか、なんというか…」
その言葉に、テオの、詐欺師としてのアンテナが、ピクリと、反応した。
「へえ、そいつは、大変だなあ、兄ちゃん」
テオは、すっと、その若い悪魔の隣に座ると、胡散臭い、同情の表情を浮かべた。
「そんなに、厳しいのかい? その、『代理人資格審査課』ってのは」
「そうなんですよ! 正規のルートで行ったら、絶対に、門前払いです! …まあ、俺たち職員は、あそこの課長が、甘いものに目がないってことを知ってるんでね。こっそり、現世から取り寄せた『悪魔的甘味』を、袖の下に、書類の束の一番下に、忍ばせておくんですけどね。そうすりゃ、大抵の不備は、見逃してくれるっていう…」
言ってしまった。
若い悪魔は、そこまで喋って、はっと、口を押さえた。
「あ…い、いや、今の話は、その…!」
「ひひひ…! なるほどな。そりゃあ、いいことを、聞いたぜ」
テオの、邪悪な笑みが、響き渡る。
シルフィの、純粋な善意が、最悪の形で、悪魔の官僚主義の、致命的な「裏情報」を、引きずり出した瞬間だった。
『…賄賂、か』
アイリスの脳内に、感心したような、ノクトの声が響いた。
『なるほどな。このクソゲー、そういう裏技も、用意されているのか。…面白い』
アイリスは、もはや、ため息をつく気力もなかった。
彼女は、シルフィが淹れてくれた、温かいハーブティーを、一口、飲んだ。
その優しい味が、ほんの少しだけ、彼女の、ささくれだった心に、染み渡っていくような気がした。
だが、その安らぎも、束の間。
テオは、すでに、次の「攻略法」を手に、立ち上がっていた。
「よし、行くぜ、お前ら! 次の目的地は、『代理人資格審査課』だ! …その前に、ちょっと、寄り道だがな!」
彼の、ギラギラとした目が、この、地獄のお役所の、どこかにあるはずの、「売店」を探していた。
シルフィが、偶然と善意でこじ開けた、小さな突破口。
それを、テオという、強欲の化身が、最大限に、利用しようとしていた。
彼らの、珍道中は、まだまだ、始まったばかりだった。