第十一話 テオ、書式と戦う(前編)
シルフィの、純粋な「本能」が、地獄の官僚主義に、最初の風穴を開けた。
三人が足を踏み入れた職員専用の裏通路は、薄暗く、狭く、そして、どこまでも続いていた。
壁には、等間隔に、「上層部の承認なくして、私語を禁ずる」「廊下は、決して走ってはならない。ただし、緊急時は、その限りではない。なお、緊急時かどうかの判断は、直属の上司の承認を要する」といった、読むだけでやる気が削がれるような、無数の注意書きが貼られている。
「ひひひ…! やったぜ! これで、あのお通夜みてえな待合室とは、おさらばだ!」
テオは、この状況で唯一、歓喜の声を上げていた。
「わあ! 探検みたいです! 虹色のお花畑は、この先にあるのですね!」
シルフィもまた、わくわくした顔で、暗い通路をぴょんぴょんと跳ねるように進んでいく。
その、二人の異様なまでのハイテンションとは対照的に、アイリスは、もはや、魂が半分、口から抜け出かかっていた。
「…はぁ…。もう、歩きたくありません…。ここで、野宿をしても、いいですか…?」
「馬鹿野郎! お前がここでへばったら、クエスト失敗で、俺のピクルスの独占販売権がパーになるだろうが! ほら、行くぞ!」
テオは、座り込もうとするアイリスの腕を、無理やり引っ張った。
その時だった。
『…おい、新人。左だ』
脳内に、久しぶりに、ノクトの、冷静な声が響いた。
『俺の解析によれば、この通路は、複数の部署へと繋がる、巨大な中継通路だ。…左の扉の先に、申請書を処理する、中枢部署の気配がする』
その声に、アイリスは、かろうじて、意識を繋ぎ止めた。
(…神様。ずっと、黙っていたでは、ありませんか…)
『ああ。少し、別のゲームのデイリークエストをこなしていた』
(この状況で!?)
『うるさい。行くぞ。左だ』
神の、あまりにマイペースな帰還に、アイリスは、もはやツッコミを入れる気力もなかった。
三人が、ノクトの指示通りに、左の扉を開けると、そこは、待合室とはまた違う、異様な空間だった。
おびただしい数の書類の棚が、天井まで、びっしりと、迷路のように立ち並んでいる。
そして、その迷路のあちこちで、魂のない目をした悪魔の役人たちが、まるで機械のように、黙々と、羊皮紙に何かを書き写したり、書類を仕分けしたりする作業を、繰り返していた。
ガッチャン、ガッチャン、という、重々しい金属音だけが、不気味なリズムを刻んで、響き渡っている。
「…なんだ、この音は…」
テオが、ごくりと喉を鳴らす。
音の出所は、部屋の最も奥。
ひときわ大きな机が置かれ、そこには、他の役人よりも、ほんの少しだけ、地位が高そうな、口髭を生やした、威厳のある(しかし、同じように、死んだ目をしている)悪魔が、座っていた。
彼の机の上には、まるで小さな断頭台のようにも見える、巨大なハンコの装置が鎮座していた。
「…『申請書処理課』…。ここで、間違いねえな」
テオは、懐から、先ほどアウディトールから渡された、山のような申請書類の束を取り出した。
「ひひひ…! ようやく、本番開始ってわけだ。おい、悪魔の旦那! 『異議申し立て申請書、様式一号』を、出しに来たぜ!」
テオが、自信満々に、一番上の羊皮紙を叩きつけるように、机に置いた。
口髭の悪魔は、ゆっくりと、顔を上げた。
そして、その羊皮紙を一瞥すると、深いため息をついて、首を横に振った。
「…お客様。申し訳ございませんが、こちらの『様式一号』を受理するには、まず、添付書類といたしまして、『申請書A-三八』のご提出が、必要となります」
「ああん? Aの、さんじゅうはち、だと…?」
テオは、書類の束を、乱暴にめくった。
おびただしい数の羊皮紙の中から、ようやく、目的の書類を見つけ出す。
「これか! ああ、これだな! ほらよ!」
彼は、その『申請書A-三八』を、叩きつけた。
だが、口髭の悪魔は、またしても、ゆっくりと、首を横に振る。
「…お客様。申し訳ございません。こちらの『申請書A-三八』をご提出いただくには、まず、その資格を証明するための、『許可証B-二三』が、必要となります」
「……は?」
テオの、顔が、引き攣った。
「…おい、待て。Bの、にじゅうさん、だと…? …ああ、これか! これで、文句ねえだろ!」
彼が、血眼になって探し出した、『許可証B-二三』を、机に叩きつける。
だが、悪魔は、またしても、ゆっくりと、首を横に振った。
「…お客様。大変、申し訳ございません。こちらの『許可証B-二三』を発行するには、まず、申請者の身元を保証するための、『身元保証書C-五』のご提出が、必要でして…」
無限地獄。
申請書のための、許可証。
許可証のための、保証書。
その保証書のためには、たぶんまた、別の、申請書が…。
「てめえ、ふざけてんのかああああああっ!!」
テオの、怒声が、静かなる書類の迷宮に、響き渡った。
「これは、無限に、書類を出させるための、ただの、嫌がらせじゃねえか!」
「いえ、嫌がらせではございません」
口髭の悪魔は、表情一つ変えずに、答えた。
「全ては、厳正なる、手続きの一環でございます。ルールですので」
その、あまりに理不尽な「ルール」という言葉に、テオは、血管が切れそうになるのを、必死でこらえた。