第十話 シルフィ、列を乱す
地獄の官僚主義迷宮――悪魔アウディトールが案内した『中央手続きセンター』は、挑戦者たちの心を、静かに、そして効率的に折りにかかっていた。
最初の試練は、「代理人選出」という、あまりにも退屈な手続きの無限地獄。
アイリス、テオ、シルフィの三人は、アウディトールから渡された、山のような申請書類の束を手に、「総合受付」のカウンターの前に、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「ひひひ…! なるほどな。つまり、この膨大な書類を全て完璧に書き上げて、全ての窓口の承認印を貰えってことか。面白い。やってやろうじゃねえか」
この、常人であれば戦意を喪失するであろう状況で、唯一、テオだけが、その目をギラギラと輝かせていた。
彼は、この理不尽な手続きの山を、攻略すべき「ゲーム」として、完璧に認識していたのだ。
「いいか、お前ら! まずは、この『代理人候補者登録申請書』からだ! アイリス、お前は聖女だからな、とりあえず名前と役職を書けるだけ書け! シルフィ、お前は…とりあえず、そこに、なんか綺麗な花の絵でも描いとけ! 俺様が、この書類の山を、完璧なロジックで捌いてやる!」
テオは、まるで戦場の指揮官のように、二人に向かって、自信満々に言い放った。
だが、彼のその自信は、カウンターの向こう側に座る、一人の、生気のない悪魔の役人によって、いとも簡単に打ち砕かれる。
「…お待ちください」
役人は、ゆっくりと顔を上げると、気だるそうな声で、告げた。
「申請書をご提出いただくには、まず、あちらの待合室の最後尾にお並びいただき、順番が来るのをお待ちいただく必要がございます」
役人が、指さした先。
そこには、気の遠くなるような数の魂たちが、一寸の隙間もなく、木の長椅子に座り、静かに、順番を待っていた。
列の最後尾は、はるか彼方、ロビーの入り口付近で、霞んで見えた。
「…なんだと…?」
テオの、完璧な笑顔が、引き攣った。
三人は、すごすごと、その無限に続くかと思われる、待機列の最後尾へと向かった。
列は、遅々として、進まない。
一時間に、一人、進むかどうか。
周囲の魂たちは、もはや苛立つ気力さえ失い、ただ、虚空を見つめている。
この、圧倒的な「待つ」という行為の前では、いかなる英雄も、聖女も、ただの無力な一人だった。
「…もう、だめです…。眠い…」
アイリスは、テオの肩に寄りかかり、ほとんど、意識を失いかけていた。
脳内のノクトでさえ、この状況には、沈黙を貫いている。
おそらく、塔の自室で、別のゲームの待機列にでも、並んでいるのだろう。
テオもまた、苛立ちを隠せないでいた。
「ちくしょう…! 時間は、金だっていうのに…! この、生産性のない、無駄な時間…! 俺の、時給を、返せ…!」
彼は、どうにかして、この列をショートカットできないか、必死に、頭を働かせていた。
(…賄賂、か…?)
テオは、列の整理をしている、別の悪魔の警備員に、そっと、近づいた。
「ひひひ…旦那。ちょっと、いい話があるんだが…」
彼が、懐から、金貨を一枚、取り出した、その瞬間だった。
警備員の、やる気のなかった目が、カッと、見開かれた。
「―――地獄法第七百三十条!『公務執行中の役人に対する、不当な贈賄行為』! 現行犯で、逮捕します!」
「なっ!?」
警備員の両腕が、テオの体を、がっしりと、捕らえた。
「ひ、離せ! これは、ただの、時候の挨拶だ!」
「言い訳は、懲罰室で聞きます。あなたは、今後、千年、この待合室の、床掃除の刑に処します」
「せんねん!?」
テオの、顔が、真っ青になる。
その、絶体絶命の窮地を、救ったのは、意外な人物だった。
「わあ!」
それまで、静かにお絵描きをしていたシルフィが、突然、素っ頓狂な声を上げて、立ち上がった。
「アイリス! テオ! 見てください! あっちの椅子、とっても、ふかふかそうです!」
彼女が指さしたのは、待合室の隅に、一つだけ、ポツンと置かれた、明らかに他の椅子とは違う、豪華な装飾が施された、革張りのソファだった。
それは、どう見ても、一般の待機者が、座るためのものではない。
「シルフィ! 今、それどころでは…!」
アイリスが、力なく、制止しようとする。
だが、シルフィは、本能の赴くままに、そのソファへと、てくてくと、歩き出してしまった。
彼女は、無限に続く待機列を、何の悪気もなく、横切っていく。
「あ、こら! 順番を、お守りください!」
警備員が、慌てて、彼女を止めようとする。
テオを捕まえていた腕の力が、一瞬だけ、緩んだ。
「…今だ!」
テオは、その隙を見逃さず、警備員の腕を振りほどくと、アイリスの手を掴んで、叫んだ。
「おい、アイリス! あの、馬鹿エルフを、追いかけるぞ!」
彼は、シルフィの、その常識外れの行動が、この膠着状態を打ち破る、唯一の「異常事態」であることに、気づいたのだ。
アイリスとテオは、警備員の怒号を背に、シルフィの後を、追いかけた。
シルフィは、念願のふかふかソファにたどり着くと、ぽすん、と、気持ちよさそうに、腰を下ろした。
その、彼女がソファに座った、まさにその瞬間だった。
ゴゴゴゴゴ…と、低い音を立てて、ソファの後ろにあった、ただの壁だと思われていた場所が、静かに、左右に、スライドし始めた。
壁の向こうには、隠された、もう一つの通路が、姿を現した。
そこは、薄暗く、狭かったが、待合室の喧騒とは無縁の、静かな通路だった。
「…え?」
シルフィは、きょとんとして、その通路を見つめている。
「…ひひ…ひひひひひ…! やったぜ…!」
テオの、歓喜の声が響く。
「こいつは、職員専用の、裏通路だ! あのソファは、通路を開けるための、隠しスイッチだったんだ!」
悪魔アウディトールが作り出した、完璧な官僚主義の迷宮。
その、鉄壁のルールは、賄賂も、暴力も、一切、通用しない。
だが、たった一つだけ、想定外の穴があった。
それは、「疲れた上級職員が、休憩室へと向かうための、近道」という、あまりに人間的で、あまりに官僚的な、秘密の抜け道。
そして、そのスイッチは、ルールも、常識も、一切、通用しない、一人の、天然エルフによって、あまりにも、あっけなく、押されてしまったのだ。
『……信じられん』
アイリスの脳内に、久しぶりに、ノクトの、呆れ返った声が響いた。
『俺の計算では、あの待機列を突破するには、最低でも、三日はかかると、予測していたのだが…。…あのエルフ、やはり、歩く不具合報告者だ…』
三人は、顔を見合わせた。
そして、誰ともなく、その、薄暗い、秘密の通路へと、足を踏み入れた。
シルフィの、純粋な「本能」が、地獄の官僚主義に、最初の、風穴を開けた瞬間だった。
彼らの、長くて、面倒くさい冒険は、今ようやく、その本当のスタートラインに立った(のかもしれない)。