第一話 静かなる違和感
史上最悪の迷惑コンビ、レイラとミストによる「狂気の舞踏会」事件が終結してから、一ヶ月が過ぎた。
二人の魔族は、心に深いトラウマを植え付けられて王都から追放され、彼らが作り出した不気味なオーロラも、マナ通信網の障害も、嘘のように消え去った。
王都ソラリアには、ようやく本当の意味での「平穏」が訪れたのだ。
だが、その「平穏」は、英雄たちにとって、必ずしも心地よいものではなかった。
それは、退屈という名の、新たな戦いの始まりでもあったのだ。
「まあ、聖女アイリス様! 先日の舞踏会での『サプライズ演出』、本当に素晴らしかったですわ! 一夜にして凍りついた経験など、一生に一度できるかどうかの貴重な体験ですもの。おかげで、わたくしの回顧録の、最もエキサイティングな一ページとなりましたのよ。オホホホ…」
王城のテラスで開かれた、またしても繰り返される貴婦人たちのお茶会。
アイリスは、完璧な淑女の笑みを顔に貼り付けながら、内心では、もはやため息をつく気力さえ失っていた。
(貴重な、体験…。あの地獄絵図が…)
死者が出なかったのが奇跡的だった、あの悪夢の一夜。
王宮によって巧みに情報操作された結果、今や、貴族たちの間では「聖女様を称えるための、国王陛下肝いりの、少し過激なアトラクション」として、美しい思い出に変換されつつあった。
目の前には、相も変わらず、宝石のように美しいケーキと、中身のない賛辞の嵐。
しかし、以前と一つだけ、決定的に違うことがあった。
脳内が、驚くほど、静かなのだ。
あれだけ彼女を「パシリ」として酷使し、一分一秒を争うように限定ポテチを要求してきたノクトからの通信が、ここ数週間、ほとんど途絶えている。
セーブデータが完全に復旧して以来、彼は新作のMMORPGに没頭し、アイリスを呼び出すのは、数日に一度、「そろそろ備蓄が尽きた」と、追加のポテチを要求する時だけになっていた。
それは、アイリスにとって、束の間の解放であるはずだった。
だが、あまりに静かすぎる脳内は、逆に、彼女に言いようのない虚無感をもたらしていた。
あれだけ理不尽な指令に振り回されていた日々が、今となっては、どこか遠い、刺激的な思い出のようにも感じられてしまう。
(いえ、何を考えているのですか、私は…。静かなのは、良いことのはず…)
彼女は、自らの思考を打ち消すように、目の前の紅茶を一口飲んだ。
その味は、ひどく、味気なく感じられた。
時を同じくして、王国騎士団第一訓練場。
激情のギルは、眉間に、かつてないほど深い皺を刻んでいた。
彼の前では、王国最強を誇るはずの騎士たちが、まるで覇気のない、気の抜けたような動きで、木剣を振るっている。
「なってないであります! 全然なってない! 貴様らの剣からは、姉御を守るという鋼の意志が、微塵も感じられん!」
ギルの雷鳴のような檄が飛ぶが、騎士たちの反応は、驚くほど鈍かった。
「はあ…しかし、ギル教官。魔王も、迷惑な魔族もいなくなってしまいましたし…」
「左様です。これだけ平和なのですから、少しぐらい、のんびりしても…」
「なんだか今日は、体を動かすのが億劫で…」
平和ボケ。
あまりの平穏は、騎士たちから、戦士としての牙を抜き去りつつあった。
舞踏会での死闘を経て、平和を守るべき騎士団のこの体たらく。
ギルは、怒りを通り越して、深い失望を感じていた。
「たるんどる! 貴様ら全員、この城壁を百回持ち上げるまで、昼食は抜きでありますぞ!」
彼の、あまりに理不尽な要求に、しかし、騎士たちは、もはや悲鳴を上げることさえしなかった。
ただ、「ええ…面倒くさいなあ…」と、力なく呟くだけだった。
ギルは、その光景に、言葉を失った。
平和とは、戦士の魂を、ここまで腐らせてしまうものなのか、と。
その、奇妙な「倦怠感」は、王城の中だけではなかった。
お茶会から解放されたアイリスは、気晴らしに、一人で王都の市街を散策していた。
活気に満ちているはずの目抜き通りが、どこか、静かだった。
人々は歩いているし、店も開いている。
だが、その表情には、以前のような生き生きとした輝きがなく、どこか、皆、ぼんやりとしているように見えた。
アイリスは、ふと、一軒のパン屋の前で足を止めた。
そこは、焼きたてのパンの香ばしい匂いで、いつも行列ができている、王都でも評判の名店だった。
だが、今日に限って、店の前は閑散としており、扉は固く閉ざされている。
そして、その扉には、一枚の、奇妙な張り紙が貼られていた。
『本日、店主のやる気が出ないため、臨時休業いたします』
(やる気が、出ない…?)
アイリスは、その、あまりに個人的で、商売人としてあるまじき理由に、目を丸くした。
病気や、不幸があったわけではない。
ただ、やる気が出ない。
そんな理由で、店を閉めることがあるだろうか。
彼女が、その奇妙な張り紙を眺めていると、隣から、数人の婦人たちの話し声が聞こえてきた。
「まあ、ここのご主人まで! 最近、こういうお店、多いのよねえ」
「ええ。うちの主人も、今朝、『なんだか仕事に行くのが億劫だ』なんて言って、まだ寝ているのよ」
「分かるわあ。私も、今日の夕飯、作るのが面倒で…」
その会話に、アイリスは、えも言われぬ、静かな違和感を覚えた。
それは、単なる怠惰や、平和ボケとは、どこか質の違う、もっと根源的な、生命力の希薄さのようなもの。
まるで、世界全体から、彩りが、少しずつ、失われていくような…。
(…考えすぎ、でしょうか)
アイリスは、首を振ると、再び、王城へと歩き出した。
きっと、これも、平和がもたらした、些細な変化なのだろう。
そう、自分に言い聞かせながら。
だが、彼女の心に植え付けられた、小さな不安の種は、静かに、しかし確実に、芽吹き始めていた。
その些細な違和感が、やがて王国全土を揺るがす大事件の序章であることを、この時の彼女は知る由もなかった。