月を返してください
『月が突然消滅? NASAが緊急会見へ』
テレビをつけた瞬間飛び込んできたそのニュースに、俺は驚きのあまりその場で飛び上がってしまった。
ニュースによると昨夜未明に突然、それまで当たり前に存在していた月が消えてなくなってしまったらしい。兆候は一切なく、原因も不明。NASAによる会見も、現状の説明と影響のみの説明にとどまり、原因についてはこれから調査を行うと説明されるらしい。
俺はそんな馬鹿なと呟き、机の上に雑に置かれた一枚の紙へ目を向ける。三ヶ月前に作成されたその契約書に書かれていた言葉をもう一度確認するために。
『甲は乙に月を担保に百万円を貸与する』
俺はどうしようもなくお金に困っていた。ただ、色んなところから金を借りていたせいで、どの業者からも追加の貸付は断られるばかり。最後にたどり着いたのは、ネットでたまたま見つけた名前も聞いたことのない消費者金融だった。
事務所は雑居ビルの地下。スーツの男が契約書を差し出し、「月を担保にするなら百万円ほどお貸しできますよ」と言った。月を担保に。別に俺が月を所有しているわけではないんだから、単なる冗談なんだろう。俺はそんな風に受け取って、いいですよと頷いた。書類に署名し、百万円を受け取った。金を返さないからといって本当に月がどうこうなるとは、その時思ってもいなかった。
そしてテレビを見ていると突然、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、そこには黒いスーツの人物が立っていた。年齢不詳、性別もはっきりしないがおそらくは男。彼は俺の名前を確認した後で、名刺を差し出してきた。名刺には銀の箔押しで見たことのない文字が書かれていたが、じっとそれを見ているとその文字が少しずつ変形し、「宇宙弁護士」という言葉が浮かび上がってきた。
「あなたが交わした契約の内容を確認させていただきます」
それだけ言って、男は玄関に上がり机の上にあった契約書を手に取り、目で追っていく。読み終えるまでに三十秒とかからなかった。
「月が消えたままでは、地球全体に影響が及びます。潮汐力、軌道安定性、生態系。既に潮位の上昇と時間軸の微細な歪みが観測されています。このままではこの惑星の時間でいうところの一年も経たないうちに、地球はボロボロになってしまうでしょう」
それ以上の説明はなかった。しかし、言葉を失っている俺に対し、弁護士は「ですが、まだ間に合います」とだけ告げた。それから契約書の一点を指差した。そこにあったのは金利の記載。百分率に直すと年率912%というふざけた金利だった。
「宇宙金融法第48条、第129条、附則17項に抵触しています。担保の記載にも瑕疵があります。文書構成も違法です。つまり、これは契約の形式を満たしていません」
「つまり……取り消せるということなのか?」
「はい。裁判所に申し立てれば、契約の無効を証明できます。無効になれば月は返還される可能性が高いです。ただし、地球圏外の管轄になりますので、審理は宇宙裁判所にて行う必要があります」
弁護士は小さな端末を取り出した。光る画面に、出廷通知と書かれたデータが表示された。通知元には第三宙域行政法廷とある。
「被告側金融機関には、すでに出廷命令が発信されています。あなたには原告として同行していただきます。異議はありますか」
有無を言わさない言葉に俺は首を縦に振らざるを得なかった弁護士は頷き、足元の鞄から透明なカプセルを取り出した。
「では、これに乗ってください」
カプセルの内部には座席と管線。酸素音がかすかに鳴っていた。促されるがまま俺は靴を脱ぎ、静かにその中へと入った。そして背中が背もたれに触れると同時に、世界が暗転し、俺は意識を失った。
*
視界が戻ると、俺は椅子に座っていた。床は滑らかな金属。空気は乾燥していて、無臭だった。隣には先ほどの宇宙弁護士が立っていた。
正面には被告席。その中央に、あの黒スーツの男が座っていた。路地裏の事務所で契約書を出してきたやつだ。
周囲を見回すと、傍聴席があった。ガラスで区切られており、座っているのは、明らかに人間ではなかった。球体のもの、透過性のあるもの、浮遊しているもの。どれもこちらを見ていた。
壇上に現れたのは、三つの頭を持つ裁判官だった。口は動かず、声だけが空間に響いた。最初は何を言っているのか理解できなかったが、次第に俺がよく知る日本語のように聞こえ始め、何を言っているのかわかるようになっていった。
「宇宙法第九法廷、開廷します。事件番号884492-ZX。担保違反による契約無効訴訟。原告:地球種・個体識別番号38-118-762。被告:金融構造体セクター47、運用体コードXJ-9」
弁護士が立ち上がった。表情はなく、声にも抑揚はなかった。
「本契約は、宇宙金融法における上限利率規定を超過しており、また担保物の実在性と所有証明に関する項目が不適切です。よって、原告は本契約の無効を申し立てます」
黒スーツの男は口を開かなかった。代わりに、彼の背後に浮かぶ球体が発光した。音声が流れた。
「契約は成立している。担保物の提供は自発的に行われた。異議は不当である」
弁護士は即座に応じた。
「異議あり。原告は本契約内容の意味を認識していなかった。さらに、地球言語において『月』という語句は比喩的使用が存在し、物理的担保としての認識を欠く可能性がある」
裁判官の頭部が回転した。発光。沈黙。周囲の生命体たちは動かず、音もなかった。
「争点は妥当です。審理を継続します」
その声だけが空間に残る。俺は言葉を挟めるわけもなく、ただ黙って座っていることにした。論争は二時間続き、その間に内部空間の照明の色が二度変化した。
弁護士は終始一貫して淡々としていた。資料を提示し、条文を読み上げ、発音の抑揚ひとつ乱れなかった。被告側は反論を繰り返したが、論拠は曖昧だった。契約書の文面、金利、担保記述、すべてが基準を外れていた。
そして最後に、三つの頭が同時に発光させながら、裁判官が判決を下した。
「審理を終えます。契約は無効と認定されます。担保物は原状復帰とし、即時地球軌道に返還されます」
傍聴席からは何の反応もなかった。透明な壁の向こうで、多種多様な視線がただこちらを向いているだけだった。これで地球に月が戻ってくる。そう安堵した瞬間、俺の視界が再び暗転する。
*
目を開けると、部屋に戻っていた。テレビはつけっぱなしで、外はもう夜だった。俺は窓に近づき、空を見上げる。空には確かに月が戻っていた。いつもの位置に、いつもの大きさで。
弁護士も部屋の中にいた。背広は変わらず、姿勢も崩れていなかった。
「ありがとうございました」
俺がお礼を言うと弁護士は軽く頷いた。沈黙が流れる。そのタイミングで俺は、裁判中からずっと思っていた疑問を男に尋ねた。
「……これ、弁護士料とか、必要なんじゃないか?」
弁護士は少しだけ目線をこちらに向けた。そして変わらない声で、俺に対して淡々と説明する。
「はい。ただし、請求は後日、適切な方法で行われます」
*
数日後、封書が届いた。差出人は、第三宇宙法廷契約執行局。俺は中に入っていた紙を取り出し、文言を読み上げる。
「受任報酬請求書」
支払金額:地球通貨換算で87兆円
支払方法:一括振込。分割不可。通貨指定:日本円
支払期限:契約発効日より30日以内
備考:期限までに支払いが確認されない場合、担保として『地球全体』を差し押さえることがあります
俺は封を折りたたみ、テーブルの上に置いた。請求書の内容をじっくりと考えたが、あまりにもぶっ飛んだ金額のせいでいまいち頭が回らなかった。俺は窓から夜の空を見る。月はそこにあり、地球にいる俺たちを優しい光で照らしていた。
だけどまあ。俺は請求書を読みながら俺は呟く。実際に地球が差し押さえられても、またどこからか弁護士がやってきてなんとかしてくれるだろう。俺はそう結論付け、そのままベッドに横になるのだった。