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その職場での、ぼくの役割はレジ打ちだった。在学中に出来る唯一のバイトがそれだったからだ。夕方からのシフトだったので学業には問題はなかったけど、夏休みに入る直前に店長から勤務先を変わってくれと頼まれたのがきっかけだった。
その頃のぼくは頼まれると断われない、というか単に断わるのが怖かったからほとんど無言のまま承諾するようなことが多く、結果いろんな仕事をいろんな人達に押し付けられるという悲惨な立場にあった。
夏休みの間だけという約束でレジ打ちから精肉で働くことになった。そこでの僕の役割はパック詰めがほとんどで職場のおばさん連中とも休憩室で顔見知りだったからすぐに人間関係は苦にならなくなった。
働き始めて二週間過ぎた頃、精肉部長の下についている古株の倉木さんという四十五歳になる小柄なおじさんの悪いうわさを聞くことが多くなっていた。
その倉木さんは前の職場でパートの女に手を出して職場をクビになったという問題のある社員らしく、でも当初はとても人当たりが良くなれない職場であたふたしていたぼくにいろいろ助言をくれたので、ぼくは人のうわさなんて当てにならないものだと捨てておいた。
一ヶ月過ぎてようやくもとのレジ打ちに戻れると思っていたぼくに、店長から年末までこのままでいてくれと頼まれたときはっきりと断われば倉木さんとも表面だけの付き合いで済んでいたのにと思うと本当に後悔が残る。
夕方精肉の作業場裏からでてくる倉木さんを見て声をかけようかと近づこうとしたら、凄い形相で倉木さんがこちらを睨みつけてきた。戸惑ったぼくはそのまま素知らぬふりを決め込みそのまま帰って行った。
次の日精肉部長さんがパートさんと肉の在庫が足りないと話をしていた。ぼくは倉木さんの持っていた段ボールにうちに出入りする業者の名前があったことを仕事終わりに部長さんに話した。
部長さんは驚きもせず、やっぱりか、と頭をかいた。以前にも倉木さんは店の肉を持ち出して別の業者に売ったりしているという前科持ちであることを部長さんは今更のように話していて、でもこの職場ではまだ証拠をつかませないからどうにも動きようがないのだと面倒そうに言った。
そのことは店長もその上の人達もすでに知っていて、ならどうしてクビにしないのかとぼくが訊くと、労基法を盾に裁判沙汰も厭わないという気構えらしく、証拠がない現在では名誉毀損で逆にこちらが訴えられかねないという輩だと部長さんは苦々しい表情で教えてくれた。
「そんなことしたら職場に居づらくなりませんかね? ぼくだったら絶対辞めるけどな」
世の中にな、面の皮がものすごく厚くちょっとやそっとじゃ動じない人間が実在するんだよ。おまえにはまだ分からないかもな。
部長さんは倉木さんのことをそれでも使い続けるしかないと半分諦めているらしかった。
それからしばらくして、倉木さんに呼び出されたぼくは“あの日”のことを訊かれることになり、まだ子供だったぼくは馬鹿正直に正義感を振りかざし、つい倉木さんに説教めいたことを言ってしまった。
そこから倉木さんのぼくに対する嫌がらせが始まることになるのだった。
ぼくの名札が刻まれてゴミ箱に捨てられ、シフトが前日に変わったことの連絡が誰からも来なかった。部長さんに訊いたら倉木さんがぼくに連絡を入れるといったらしいが、本人はあっけらかんとして「わりぃ」と一言。
制服が休憩に言っていた間にゴミ箱に落ちていたこともあった。仕事のミスがいつの間にかぼくのせいにされていたり、それらの全てに証拠があるわけではなかったので、ぼくは毎日のように半信半疑で仕事をしていた。
そしていつの間にか変な被害妄想までするようになった頃は、精神科にお世話になるところまで症状は悪化していた。
ぼくが仕事を辞める日、倉木さんはなにもなかったかのように、「残念だな。せっかくいい後輩が出来て喜んでたんだけどな。勉強がんばれよ」
そういって叩かれた肩には彼の嘲笑が込められていたように感じ、その場でぼくは悔し涙をこぼしてしまった。人前で泣いたのはその時が初めてだった。パートのおばちゃん達が、バイトを辞めるくらいで泣くことないのにと笑ってくれたが、それすらもぼくを嘲笑う声に聞こえ、これ以上下はないというくらの惨めさを抱えたまま職場を後にした。
自分の崩壊寸前だった精神をようやく働こうと思えるくらいにまで回復させたのに、また同じようなことを繰り返そうとしていることに気がついた。
自分の精神の安定のために、これから働こうとしている職場は本当に相応しいのか?
確かに入って見なければ分からないことはある。
しかし明らかにまともでないと想像できる職種に自ら志願するのは、自殺したいと思われても仕方がないようにも思える。
ぼくはやっぱり目先の正社員という言葉に飛びつくよりも、地道に一から正社員の道を探していくことが、ぼくのような精神に深手を負った人間には最善のような気がする。
帰りのコンビニでまた求人誌を買ったぼくは、いつものようになんにもしていない人に見えるのだろう、という後悔もあったことは確かだった。