第一章3 「ブランコ」
午後の授業時間は、眠気との戦いでもあった。
戦いの結果は”敗北”。
授業中の居眠りなど人生初の出来事である。
お腹が満たされた上に、仕方ないと割り切った筈の上近江さんについてや、元バイト先へ荷物を取りに行くことなどを考えていたら、次第に瞼が落ちて行ってしまったのだ。
最後の授業が始まってからも耐えてはいたが、気が付けば授業終わりを告げるチャイムが鳴っていた。
帰りのホームルームが終わってから、居眠りを反省しつつ、土曜日の疲労が残っていたのかもしれないと言い訳を考える。
教科書や筆記用具をカバンに仕舞い、帰宅準備を進めていると、カバンを片手に持った幸介が近付いて来る。
「やっと終わったなー、長かった……月曜の午後の授業が一番辛い」
口元を隠さず、大きな欠伸を見せてくる。
「満腹で眠い上に一週間の始まりでもあるからね。僕も気付いたら授業終了のチャイムが鳴っていてビックリしたよ」
「さては寝てたな? でも郡が授業中に寝るなんて珍しいな? まだ体調悪いとか?」
幸介は眉を下げ、心配そうな表情で聞いてくる。
「いや、体調は平気だと思う。少し考え事していたら寝ちゃったみたい」
「そっか、それなら良かった。今日この後は? バイトか?」
正直な気持ちとしては本当のことを言いたくない。
言えば間違いなくお人よしの幸介に心配を掛けてしまうからだ。
だが僕は幸介に嘘をつきたくない。
「……アルバイト、辞めたんだよね。だから私物を取りに行ってから帰る予定。幸介は?」
「え、なんで!? 店長もいい人で働きやすくていい店だったんだろ?」
「土曜日にいろいろ失敗しちゃって。それより幸介は仕事? それとも彼女とデートとか?」
暗い話を続けたくないから、質問することで話題を変えようとするが、幸介は僕の思惑に乗ってはくれなかった。
それどころか、引き下がらない幸介によって根掘り葉掘り聞かれてしまうことになった。
その結果は予想した通りとなり『体調が悪かったからだろ!?』『たった一回でか!?』『あの副店長ッ!?』『逆にそんな店辞められてよかったな!』と、怒ることすらできない僕の代わりに幸介は憤ってくれる。
最後には気を使い笑って『次探そうぜ』と言わせてしまい、居た堪れない気持ちとなる。
だから僕は、これ以上心配も掛けたくないから慣れない冗談を口にする。
「次も美人な店長がいるアルバイト先を探してみるよ」
滅多に言わない冗談。
そのせいでキョトンとした表情を浮かべ固まってしまった。
だがすぐに、幸介は声に出し笑ってから返事を戻してくれた。
「それがいいな! んで、俺はこのあと彼女と会う予定。そろそろ連絡がくると思うんだけど……と、やばッ、すでにきてた」
「そっか。じゃあ僕は先に帰ろうかな。話、聞いてくれてありがとう幸介。また明日」
「おうっ、また明日! 帰ったらゆっくりしろよな!」
さわやかな笑顔をした幸介に見送られながら教室を後にして廊下へ出ると、廊下から男子三人組が教室を覗いていた。
すれ違う時に見えたネクタイには三本線が入っているから三年生だろう。
通り過ぎた後ろから『もう居ない』『帰ったのか』などと聞こえてきた。
おそらく上近江さんを見に来ているのだろう。
休み時間や放課後になると、よく見られる馴染みある光景。
ただ、その上近江さんは放課後になると足早に教室を出て行く。
今はすでに六月、多くの人に知られている情報であり、最近では見に来る人数も減ってきている。
習い事もしくはアルバイトでもしているのかもしれない。
もしかしたら、他校に彼氏がいて会いに行っている可能性とか――。
ふと気付いてしまった。
四六時中とまではいかないが、今日一日上近江さんのことばかりを考えていることに。
普段なら教室を覗き込む人が居ても、その横を通り過ぎて行くだけだ。
考えたとしても『通りにくい』と、考えるくらいだろう。
それなのに彼氏の有無について考えてしまっている。
自分でも単純だと思うが、何度か目が合ったせいだ。
上近江さんは圧倒的美少女だから。
思春期の男子だから仕方ない。
そう自分に言い訳して学校の外へと移動する。
校門を出て左へ十メートルほど進んだところで、独り言が漏れ出てしまう。
「やっぱり上近江さんは美人だし――――」
「あの、八千代くんんんっん!?!?」
「――モテるんだな」
「あ、え……ええっ!? えっと……その…………え、今可愛いって??」
「………………」
後ろに振り返ると、耳の先を少しだけ赤く染め、忙しそうに表情を変える上近江さんがいた。
上近江さんはどうやら、僕の位置からでは角度的に姿が見えない位置にいたらしい。
間抜けなことに、僕は気付かず聞かれたら恥しい独り言をしてしまった。
あと一応だけれど、美人でモテると言っただけで可愛いとは言っていない。
可愛いことは確かだし、似たことを言っている為、否定などできないが――。
「「………………」」
身長百六十五センチと男子の中でも背の低い僕。
その僕よりも背の低い上近江さんは、少しだけ見上げながら慌てている。
互いに不意を突いた出来事。そのため、二人揃って言葉を発することができずにいたが。
「(誰か来たかも――)」
小さな声で上近江さんが呟いた。
僕には何も聞こえなかったなと思っていると。
「お腹減ったぁ~」
「カラオケ行く前にさ、コンビニで何か買ってから行こっか!」
姿は見えないが、校門の内側から確かに声が聞こえてきている。
上近江さんは人よりも耳が良いのかもしれない。
このまま上近江さんと見つめ合っているのも悪くはないけど、姿を見られるのは不味い。
上近江さんへ迷惑を掛けてしまうことになってしまう。
意を決し、声を掛けようとしたが、上近江さんの方が早かった。
「お話したいことがあるの。八千代くんのお時間を貰えるなら着いて来てもらっても……いいですか?」
首を傾げ問うてくる姿に目を奪われそうになるが、それを堪えて了承の意を込め無言で頷く。
『良かった』と、どこか大人びた印象を受ける微笑みをしてから上近江さんは、僕の横を通り過ぎ先へ進んで行く。
(一緒に居る所を見られたら困るよな?)
そう考え、ある程度距離ができたところで足を動かし上近江さんの後を黙って付いて行く。
通学路でもある道をそのまま少し進むと、二階建ての大きな駐輪場が見えてくる。
駅前にある駐輪場は、高校生だけでなく大学生や専門学生、会社員などの社会人も月極契約を結び、利用している駐輪場だ。
管理人と思われる定年を過ぎたくらいの年配男性が、毎朝駐輪場の前で利用者に誘導や挨拶をしている。
普段なら考えないようなことを頭に浮かべながら、後ろをチラチラと確認しつつ前を歩く上近江さんの後を、ストーカーのようにそのまま付いて歩く。
後を付いて歩くからよく分かるが、上近江さんはやはり魅力溢れる女の子だ。
男子学生、はたまた成人してそうな男性ですら、すれ違う時にチラチラと上近江さんへ視線を向けている。
普通の男なら、やはり上近江さんみたいな子と付き合いたいと思うのかもしれない。
愛情を知りたかった僕は、以前、友情と恋愛感情の違いについて書かれた社会心理学報告に関する本を、名花高校の図書室で借りて読んだ。
中々に面白い実験レポートだったし理解もできた。
けれど、恋愛どころか友情すら人よりも経験が少ない僕には少し難しかった――。
小難しいことを思い出しながら駐輪場を通り過ぎ、しばらく歩いてから左へ曲がる。
その先にある信号を渡った、すぐのところに僕が住んでいるマンションがある。
だが、こちらの方角にはこれといって何もない。
強いて言えば、マンションの裏手に小さな公園があるくらいだ。
人通りも少なく、名花高校生には見つからない絶好の場所かもしれない。
(目的地は公園なのか?)
そして案の定、上近江さんは裏手に繋がる道に入って行った。
当たり前だが姿が見えなくなってしまう。
案の定と思ったはいいが、公園にいる確証もない。早足で追うも、運悪く信号が赤に変わってしまった。
大通りに面している為、ここの信号は切り替わるまでに時間が掛かる。
逸る気持ちを抑え、信号が青に変わると同時に駆け足で横断歩道を渡り、裏手に繋がる道へ進んで行くと『ギーコー』と何かが風を切るような音が聞こえてきた。
僕は今日、上近江さんを見ている時に思ったことがある。
噂通り、姿勢や所作が綺麗でお姫様のような人だと考えていた。
だがそれは、勝手な想像の押し付けだったのかもしれない。
今、僕の目に映る上近江さんを見ていると、そう思えてしまう。
――ギーコー、ギーコー。
さび付いた音を響かせながら、人よりも少し小柄な体と、綺麗に揃った足を目一杯に動かし、楽しそうに表情を緩ませながら、ブランコを漕いでいるイメージとは少し違う上近江さんがいたからである――。