第一章8 「ケンカの理由」
お姉さんとは、アルバイト勤務の条件をまだ時給に関してしか話せていないが、諸々の条件に付いては連絡先を交換して後日また話せば十分だろう。
上近江さんと佐藤さんのプライベートを部外者の僕が聞いていい訳もないし、お姉さんにとっては妹さんの話の方が大切だろう。
そう考え、上近江さんのお姉さんがコーヒーのお代わりを淹れる前にお暇することに考えを決めて2人に声をかける。
「上近江さん、関係のない僕は聞かない方がいいですよね? だからお姉さん。今日はこれで帰りますのでお代わりは大丈夫です。コーヒーの代金はおいくらですか? それと詳しい話はまた今度お願いしたいので……出来れば連絡先を交換してほしいです」
早く退席しようと思い一気に喋る。
同時に連絡先を書くのにメモ帳と財布を取り出すためカバンに手を伸ばすが――。
「えっとね、八千代くんにも少しだけ関係しているの。お話聞いたら嫌な気持ちにさせちゃうかもしれないんだけど……八千代くんにもお話聞いてほしい、です。時間もらったら、ダメ?」
「えっと……」
僕も関係しているとは思っていなかったので、言い淀んでしまう。
だけどまあ、関係があるなら聞かない訳にもいかないだろう。
それに――。
嫌な気持ちにさせてしまうかもしれないと気遣ってくれることは嬉しいが、僕なんかのことで上近江さんが気にする必要はない。
「ふふっ、お代わり淹れちゃうわね」
「はい、ありがとうございます。僕は時間も平気なので、上近江さんがよろしければお話をお聞かせください」
お姉さんがコーヒーを淹れ始めたところで、関係について少し考えてみるが。
もしかしたら今日の帰り道、僕と上近江さんが一緒に歩く姿を見られてしまい、何か言われた可能性が一番考えられる。というよりも、それ以外は考え着かない。そもそもが、今日までクラスメイトということ以外の接点がなかったのだ。
ここまでは予想がついたけれども――。上近江さんが怒ることには考えが繋がらない。
「えっとね、何て説明したらいいか……簡単に言うと、2人でいる所をクラスの男子に見られたみたいなの。あ、でも、私のことは分かったみたいだけれど、相手が八千代くんってことは知られていないみたいなの」
僕らを見た人は佐藤さんじゃなくてクラスメイトだったか。
それと、効果のほどは分からないが私服に着替えておいて良かったかもしれない。
「やはりそうでしたか……すみません、上近江さん。僕と一緒の所を見られたりして、ご迷惑を掛かけてしまったことを謝らせてください」
僕の言葉を聞いた上近江さんは、下に向き申し訳なさそうにしていた表情を一変させ、不満げな顔をして言った。
「私は今日……学校にいる時より自然に笑えていた自分に驚いたの。それだけ八千代くんと話している時間が楽しかったのかなって。だから、迷惑とかなんて全く思っていないのに望ちゃんが……。それに八千代くんまで……」
「上近江さん、迷惑と決めつけてしまいごめんなさい。あと……僕と話して楽しかったと思ってくれて嬉しいです。ありがとうございます」
「少し悲しかっただけだから。私もごめんね」
上近江さんの気持ちを勝手に決めつけてしまったことにしっかり謝罪をした。
悲しませてしまったことにも反省をしないといけない。
次に、大切な妹である上近江さんを悲しませたことに、謝罪しようとお姉さんの方に顔を向けるが、何故かすごく嬉しそうにしていた。
それはもう、ニコニコと。
どうして嬉しそうにしているのか全く分からない。
「はい、2人とも。コーヒーどうぞ。一口飲んで落ち着けたら、美海ちゃんが佐藤さんに怒った訳を教えてね。残り物だけどクッキーも食べて。郡くんも、別に私は怒ってないからね?」
「お姉ちゃん……コーヒーありがとう――――っふわあ~……クッキーも美味しいよ、八千代くん!」
「怒らせてしまったかと思いました。コーヒーとクッキーいただきます」
嬉しそうにしていた理由までは教えてくれないようだが、クッキーはとても美味しかったので『美味しいです』と2人に伝える。
一服したおかげで、和やかな空気に戻り上近江さんも先ほどより落ち着いたのか佐藤さんとの電話の内容をぽつぽつと話し始める――。
曰く、実際に上近江さんと僕を見たのは、クラスメイトの長谷くんだったらしく、
――上近江さんがパッとしない男と歩いていた。
と、友達に言ったことで、佐藤さんにまで話が伝わって来たとのこと。
1時間も経たずして広がる情報網に驚いてしまうが、まあ、確かに。
お洒落とは違う普通の眼鏡を掛けて、髪も特別セットしている訳でもいないし、前髪も少し重たい。背だって男子の中では低いから、自分でもパッとしない男だと思う。
そして佐藤さんだが、上近江さんが以前に男子から後をつけられた話を聞いていた為、万が一を考え電話したけど全く繋がらず、不安になり心配で何度も電話をしてしまったと。
それでやっと繋がり、無事なことを確認出来た安心感からか『パッとしない男』『迷惑な男じゃないんだよね』『え、彼氏なの?』と何度も聞いてきたと。
上近江さんは、やんわりと否定しながら話を聞き流していたけど、だんだんとモヤモヤが溜まり我慢がきかなくなる前に、佐藤さんへ心配してくれたお礼を伝えて、電話を切ろうと思っていたところに、
『美海ちゃんにはそんなパッとしない人より、もっといい人がいると思う』
こう言われ、つい言い返してしまったと。
『望ちゃん、余計なお世話だよ。私が一緒にいた人が誰なのか、よくも分からないのに勝手なことばかり言わないで。誰かの噂ばかり信じる望ちゃんなんて知らない。でも心配の電話は嬉しかったよ、ありがとう。またね』
多分こんなことを言って電話を切ってしまったということだ。
きっと、普段の上近江さんは強く反論したりしないのだろう。
そんな上近江さんに、強く言われた佐藤さんは本当に驚いたかもしれない。もしかしたら、少なからずショックを受けた可能性もある。
だけど上近江さんが言っていることとは反対に、僕はそこまで酷いこととは思えない。
自身の考えや思いを伝えながら、最後にはしっかりお礼を伝えてから電話を切っているところが、上近江さんらしいとさえ感じる。
決めつけかもしれないが、上近江さんが友達と言うくらいなのだ、佐藤さんも悪い人ではないはず。
今頃は反省して、落ち込んでいるかもしれない。
だとしたら、後はお互いに素直になって、思いを話し合えば仲直りはすぐだと考えられるが、僕がこの喧嘩のきっかけでもあるため、どうやって切り出そうか悩んでいると。
「ん~、郡くんがきっかけ?」
悪気なさそうな顔で言うが、お姉さんと同じで僕もそう思うため頷いておく。
「…………お姉ちゃん??」
少しふてくされた顔をしている。
言わなくてよかった。
「ふふふっ、そんな可愛い顔しないの、美海ちゃん」
「っっ! お姉ちゃんっっっッ!!」
「ということで、郡くん」
「はい?」
急で驚いたし、何が『ということで』なのかが分からない。
「お店は明日もお休みだから、また明日お時間もらってもいい? 色々準備したいし、詳しくは明日改めて話すということで連絡先交換しましょう」
とりあえず、言われるがまま携帯を出して連絡先を交換する。
上近江さんはこの流れに唖然としている。
僕もただ、流れに乗っているだけだ。
急な展開でまだ頭が追いついていないため、このまま流れに乗り続ける。
「明日、学校終わった後はそのまま来ても大丈夫ですか? 一度連絡してからの方がいいでしょうか?」
「そのまま来ても大丈夫だよ。でも、美海ちゃんと一緒に来てもいいよ?」
「……お姉ちゃん、どうして八千代くんと連絡先交換したの?」
佐藤さんと電話していたから、事の経緯が分からない上近江さんにとっては疑問であろう。
僕がアルバイトとして雇われたことは、上近江さんからも誘ってもらえているけど、上近江さん抜きで決まったから少し不安になる。
「そうだね。その説明と美海ちゃんの相談と合わせて、郡くんにお願いしようかな。多分、郡くんは分かっていると思うから。もちろん任せて大丈夫だよね?」
「……はい、わかりました。でも、間違えている可能性もありますよ?」
「大丈夫よ。その時は私が訂正するから。じゃあ、今日はここまで。人通りの少ない裏道を使ったら家まで5分だから、郡くんは美海ちゃんを家まで送ってあげて。その帰り道で話してあげてね。あと、コーヒーの代金もいらないからね?」
裏道なら人に見られる心配も少ないだろうし、僕としては家まで送るのは何も問題がない。
外も少し暗くなり始めてきているし、上近江さんを1人帰すのも忍びない。けれど、自宅を教えることに対して不安でないのだろうか。
そう考えこっそり上近江さんを見ると。
「……八千代くん、行こっ。お姉ちゃん、夜ご飯までには帰ってきてね」
なるほど、問題ないと。
もう少し危機感を抱いた方がいいと思うが余計なお世話かもしれない――。
「はい、僕でよければ話ながら送らせてもらいます。では、お姉さんまた明日お願いします。今日はありがとうございました。あと、ご馳走様でした」
上近江さんのお姉さんに挨拶をしてから、上近江さんと一緒に店の外に出る。
柔和な笑顔で見送るお姉さんから、『また後でね』って聞こえた気がするが、帰るだけなのだから気のせいだろう。
それにしても、お姉さんには振り回されっぱなしだったな。
上近江さんも本気で怒ってはいないけど、ぷんすかした様子であるし。
でも何だろう……豊かな表情で感情を表す上近江さんを見ているのも、お姉さんに翻弄されることも、『楽しかった』のかもしれない。
ぷんすかした表情から、僕を見てニコニコした表情に切り替わっている上近江さんを見ていると、首に掛かる揺れる物に目が留まる。
「上近江さん、すみません。首に掛かっている学生証返してもらってもいいですか?」
シトラスの香りが移った、僕の物とは思えない良い匂いがする学生証が戻ってきたことで、帰路に就いたのだ――。