ある夏の日の帰郷
今更、振り返っても仕方ないことだが、僕にとって、あれは捨てきれぬ思い出の帰郷だった。僕は、まだ大学生だった。僕は自分の下着や好きな詩人の詩集を、ボストンバッグに詰め込み、上野駅に向かった。当時の僕は貧乏学生で、田舎に帰省する余裕など無かったが、学友から借金して、帰省せざるを得なかった。何故なら、幼馴染の中山理枝からこんな手紙を受け取ったからだ。
〈 吉岡昇平様
ご無沙汰しております。
何時も、貴男の東京での生活を気に懸けております。
この度、とり急ぎ貴男に、お伝えしなければならない事が御座いますので、再来週の土曜日、私に会いに来て下さい。8月31日午後2時、松井田駅で待っています。折角の土曜日なので、他に何かとご都合がおありかと心配しながら、御無理なお願いを申し上げます。
お約束いただけましたら、有難いです。
中山理枝 〉
昭和38年8月
僕は、この手紙を受取り、了解の返事をした。そして金曜日、大学の授業を終えてから、上野駅に行き、18時18分の高崎行き電車に乗った。
〇
電車に乗り込むと、僕は、大学に通う為、田舎から、東京にやって来た時の事を思い出した。昭和37年(1962年)4月7日の土曜日だった。あの頃の僕は、生き馬の目を抜くような東京という大都会に、びっくりして、西も東も分からず、何とか駒込千駄木町の下宿先に辿り着いた。下宿先の『松江家』の房子夫人は、僕にとても親切にしてくれた。僕は2階の四畳半に通され、部屋に置いてある田舎から送った荷物を確認した後、銭湯や商店街の説明を受けた。僕は、早速、千駄木町の商店街を歩き、房子夫人から説明を受けた銭湯や食堂などを見て回った。何故なら、僕の下宿先は玄関とトイレは共同だが、食事も風呂も別なので、外に行かなければならなかったからだ。僕にとって親元を離れての暮らしは、何故か解放されたようで、不安と歓びが混交し、複雑だったが、自分の希望した都会での暮らしは期待でいっぱいだった。4月9日の月曜日から、都電37番線の電車に乗って、千駄木町から小川町まで行き、希望の大学に通学した。4月11日、父、大介からの、最初の手紙が届いた。
〈 昇平。元気か?荷物は届いていたか?
部屋の具合や住み心地はどうか。
大家さんの言う事を良く聞いて、規律正しく、生活しなさい。大学の様子が分かったら、報告せよ。定期券は買ったか。財布や時計を落とさぬよう気を付けよ。外食は充分に食べて、ひもじい思いをするな。健康には気を付けなさい。政夫も14日、上野着午後1時13分の汽車で、上京する。麻布の家と話し合って、早くお前と同居出来るよう相談している。大学の様子や下宿の事や身体の健康状況などを時々、知らせよ。困った事があったら、直ぐに麻布の家に行って、相談しなさい。落ち着いたら、お前の今度の大学入学で、入学祝をいただいた皆様に近況を伝える挨拶のハガキを出しなさい。
お前の便りを家族一同、心待ちにしている。
大介 〉
僕は直ぐに近況報告の手紙を父親宛てに書いて送った。僕の東京での1人暮らしを家族の者、皆が心配しているのが分かった。14日の土曜日、僕は上野駅の改札口で、兄、政夫を出迎えた。兄の下宿は西武鉄道池袋線の中村橋という所にあり、高校時代の同級生、橋本達也と一緒に下宿していた。僕は上野からその下宿まで行き、兄から、祖父の手紙を受け取った。次男坊の僕を可愛がってくれた祖父も、僕の事が心配で心配でならなかったようだ。祖父の手紙は、手紙というより、注意書きだった。
〈 昇平。御祖父さんはお前が上京してから、
お前の事を毎日、心配している。
次の事を固く守り、学業に専念しなさい。
1,健康に留意せよ。
イ、不摂生の生活をするな。
ロ、無理な減食をするな。
お金の事を重く思ふな。
ハ、交通事故に注意せよ。
下車時の左右確認を怠るな。
踏切に注意せよ。
2,時々、家に近況を報せよ。
イ、大学のこと。
ロ、麻布の家のこと。
ハ、政夫のこと。
3,生活費を記録せよ。
イ、金が少なくなったら、家に知らせよ。
ロ、緊急時は大森の家に頼め。
4,火災には気を付けよ。
イ、平素から逃げることを考えておきなさい。
ロ、煙草は吸うな。
5,不良者に気を付けよ。
イ、悪い誘いに乗るな。
ロ、平素から出会った時の用意をしておけ。
以上
祖父より 〉
僕は、自分の事を心配してくれている父や祖父に手紙を書いた。大学に行って帰って来るだけの毎日は、田舎にいる時のような農作業の手伝いも無かったから、手紙を書く時間が充分にあった。調子のよい僕は、祖父や父を泣かせる手紙を長々と書いて、田舎に送った。父、大介からの手紙が16日に届いた。
〈 昇平。便り有難う。
上京してからの状況報告を見て、家族一同、安心している。
勉強に励んで、立派な大人になってくれ。また父の身体のことを心配しているのが良く分かった。お前の文面にお前の心の中にある温かい真心が遠く離れて初めて知った。嬉しくてならない。今朝も会社で昇平の手紙を、2度も3度もかみしめかみしめ読んだ。酒は、お前に注意されるまでも無く、絶対と言って良い程、飲まないから安心してくれ。またお前が、アルバイトが出来るよう大林君にアルバイト先を頼んであるから、大林君に連絡を取りなさい。月末、大林君もこちらに来るので父からも、よろしく頼んでおきます。
では、勉強、頑張ってくれ。
父より 〉
父、大介からの手紙を追いかけるように、18日、祖父、慶次郎からの手紙が届いた。
〈15日付けの封書を17日に受け取りました。
お前の近況を知ることが出来て、一安心しました。
お前は今まで温和な家庭での生活をして来て、他人の中での生活は初めてだから、随分、精神的にも肉体的にも堪える事が多く、人知れず涙を催すことがあるだろうが、決して弱気になるな。これは人格を高める修養です。人間は苦しみ困難を切り抜けてこそ成功するのです。今は学業1本だから、まだ良いが、5月からアルバイトの仕事が加わると多忙になります。多忙になると、病気になりがちです。決して無理をするな。故郷を離れて10日程過ぎると、実家が恋しくなって、心寂しさを感じる時です。今年の新入社員たちが、ノイローゼになり、田舎に戻りたくなるのも、これからです。お前も寂しくなったら、練馬の政夫の所でも、麻布の家でも、川崎の家でも遊びに行きなさい。5月からのアルバイトの事は父、大介と大林さんに相談させて、お前の学業に支障のないように計画させるので、心配するな。家はお前がいた時と、特に変わっていません。弟の広志も毎日バスで通学しています。父、大介も姉、好子も毎日、勤めに行っています。大介は酒は飲みません。傍で充分、注意しています。母、信子は、農業がぼつぼつ忙しくなって来るので、その準備に大忙しです。御祖父ちゃんの病気は相変わらずです。大事をとって、医薬を服用しています。寝たり起きたりで、気分の良い時は信子の手伝いをしてます。政夫や昇平が毎日、健康で安らかな気持ちで勉学に励めるよう心から祈っています。
祖父より 〉
郷里からの手紙は家族だけでは無かった。高校時代の友人、川島冬樹から、ハガキが届いた。
〈 吉岡。大学入学、おめでとう!
君の前途を祈りつつ、君の将来に期待している。
2部に通うとの事ですが、身体に気を付けて頑張り、立派に卒業するよう、君の努力を陰ながら祈っている。高校卒業、大学入学、そしてアルバイトと、目まぐるしい人生における一番大切な時期だ。高校時代と変わりなく頑張り給え。俺も高崎の電気工場での仕事に懸命に取り組んでいる。年末に皆で集まって、近況を語り合おうじゃあないか。では、その時まで。
川島冬樹 〉
小野克彦からも手紙が届いた。
〈 吉岡。元気か?
俺は元気だ。国鉄での仕事は大変だが、君に較べれば楽ちんだ。
君は多くの人たちが眠りについた真夜中近くに下宿に帰るのは辛いだろう。しかし、泣いてはならん。
『艱難、汝を玉にす』という言葉を思い起こせ。
東京の大学に通いながら、アルバイトして、小説を沢山、書け。だからといって、身体に無理をするな。不摂生を戒め、休養を怠るな。と同時に栄養のことも考えろ。身体、第一主義をとれ。君の鋭敏なる感受性により、立派な作品を書き上げることを望む。俺も負けないぞ。鉄道員の小説を書く。お互い同人誌に発表し合おうじゃあないか。
では、また。
小野克彦 〉
僕は家族だけでなく、友人からも励まされた。そうして4月が過ぎ去ろうとする時、幼馴染の中山理枝からの手紙を受け取った。
〈昇平さん。お元気ですか?
貴男と、会えなくなってから、1ヶ月。
私は寂しくて堪りません。貴男とは幼い時から、お付き合いして来て、山や川で遊んだり、喧嘩したり、言いたいことは何でも言い合って来た間柄です。その貴男が、私の前からいなくなり、私は寂しくて仕方ありません。そこで思い切って申し上げます。私は貴男の事を、これ以上、自分の胸に秘めて置くことが出来ません。
5月3日、私が東京へ行きます。私と会って下さい。突然ですが、どうか私と会って下さい。
上野駅の改札口で、12時に会いましょう。御迷惑でしたら、来なくて結構です。私はお目にかかれるのを期待して、待っています。
返事は不要です。
中山理枝より 〉
僕は理枝からの手紙を手にして、嘘ではないかと思った。何で幼馴染の理枝が東京にやって来るのか。余りにも意外だった。彼女は磯部温泉の旅館の仲居の仕事がある筈なのに、それをほっぽらかしにして、上京し、僕に会いに来るというのか。
〇
僕を乗せた列車の窓から、夕暮れ迫る上野の街が遠ざかって行くのを眺めながら、僕は理枝が上野に来た時の事を回想した。昭和37年(1962年)5月3日、憲法記念日のことだった。僕は昼前から上野駅の改札口に行って、彼女が現れるのを待った。上野駅の周辺や地下道などには、乞食が沢山いて物騒だったから、気が気で無かった。ところが彼女は定刻になっても上野駅中央口改札に現れなかった。一体、どうしたのだろうと、気をもんでいると、突然、誰かに肩をポンと叩かれた。振り返ると理枝の明るい笑顔があった。
「昇平さん」
「ああ、理枝ちゃん。何処にいたの。探しちゃったよ」
「私の事、分からなかったの。そこの脇の所から出て来たのよ」
「俺の事、良く分かったな」
「銅像のように突っ立っていたから、直ぐに分かったわ」
僕たちは何の屈託も無く、明るく笑って会話した。駅前広場に出てから、僕は、さあ何処に行こうかと考えた。何処へ連れて行ったら良いのか分からなかったので、理枝に訊いた。
「何処へ行こうか?」
「私、朝早かったから、お腹、すいちゃってるの。何処かで食事しない」
「じゃあ、『アメ横』でラーメン食べよう」
「そうね。私がおごるわ」
僕たちは、『アメ横』のラーメン屋に入り、豚骨ラーメンを食べた。食事をしながら、僕は理枝が東京の何処を見学したいのか、訊いてみた。すると彼女が浅草に行きたいと言うので、浅草を案内することにした。僕は恥ずかしながら、生まれてこの方、浅草に行ったことが無かった。東京については修学旅行の時、案内された上野公園、東京駅、皇居前と麻布の親戚の家と中村橋の兄、政夫の下宿と四谷の父の勤める会社の本社と大学のあるお茶の水周辺しか知らなかった。だが僕は東京の事を詳しく知っている振りをして、理枝を浅草に案内した。上野駅から地下鉄の電車に乗り、稲荷町、田原町を経て、終点の浅草駅で下車した。駅の改札口を出て、地上に出ると、目の前に『松屋百貨店』のビルが建っているのを目にして、僕はびつくりした。だが、僕は平然として、彼女に説明した。
「この『松屋百貨店』は東武鉄道の電車が直接、乗り入れている百貨店で、『ターミナルデパート』と言うんだ。立派だろう」
「驚いたわ。『タミノデパート』ね」
「違うよ。『ターミナルデパート』だよ。ターミナルとは終点という意味さ」
僕は大学の『商店経営』で学んだばかりのことを、得意になって、理枝に語った。それから僕たちは『神谷バー』の前を通り、雷門の前に行き、そこから仲見世通りの店を眺めながら宝蔵門をくぐって、浅草寺をお参りした。僕は理枝と並んで、お賽銭を投げ、東京での生活が順調に行きますように祈願した。浅草寺の参拝が終わると、理枝が言った。
「私、浅草に来たかったんだ。何時の日か東京に出て来て、東京で暮らしたいと思っているから」
「そうなんだ」
「その時、お母さんを東京に呼んで、浅草を案内するの。東京だョ、おっ母さんの歌みたいに」
「成程。島倉千代子か・・」
僕は、声を立てて笑った。その後、僕たちは田原町から地下鉄の電車に乗り、上野駅に引き返した。地下鉄の駅から地上に出て、上野公園の西郷さんの銅像を見た。この界隈は、僕の得意とする散歩コースだった。夕方近くなっているので、行き交う人の数も少なくなり始めた。不忍池の畔で、義足姿で、アコーディオンを弾く負傷兵も、袴姿で紙吹雪を散らす、刀を持ったガマの油売りも、風船売りも似顔絵描きたちも、そろそろ引き上げる時だった。僕は理枝を、その不忍池に案内し、弁天堂や水鳥などを眺め、散歩した。不忍の池を一回りしたら、広小路辺りで、食事をして、上野駅で彼女を見送ろうと考えた。僕は上野駅近くにあるレストラン『聚楽台』に彼女を連れて行き、西郷丼を御馳走した。財布の中が心配だったが無理をした。満腹になったところで、僕は理枝に礼を言った。
「わざわざ、俺を励ましに東京に来てくれて有難う。18時の汽車に乗らないと、帰りが遅くなるから、駅に行こう」
「私、今日、帰らないと言って来たわ。昇平さんの下宿に行っちゃあ駄目?」
僕は、焦った。そんな事は不可能だ。
「駄目だよ。俺の下宿は女人禁制なんだから」
「じゃあ、私、どうしたら良いの?」
そう言われても思いつかない。目の前の通りを車や人が行き交う。僕に拒否され理枝は途方に暮れ、僕に背を向けて涙を隠した。
「泣いちゃあ駄目だよ」
「じゃあ、私と何処かに泊まって」
僕は思案した。彼女を一旦、下宿近くまで連れて行き、千駄木町駅前『根津神社』脇の喫茶店『リビエラ』で待機させた。そして、『松江家』の房子夫人に、今晩、親戚の家に泊まるからと、説明し、喫茶店に戻って、谷中の山を越えて、鶯谷の旅館街に行った。赤羽に住んでいる大学の仲間、細木重道から、鶯谷には連れ込み旅館が沢山あるからと教えてもらっていたのが、役立った。だが僕には宿泊代を払う余裕が無かった。田舎から届けてくれる生活費は充分で無かった。宿泊代を見て、僕は躊躇した。上野公園に移動して、理枝と野宿しようかと考えたりした。すると、理枝が僕の背中を押した。
「恥ずかしがらず、入りましょうよ。お金は私が払うから」
この類の旅館に入るのは初めてだった。胸がドキドキした。僕は理枝に引きずられ、旅館『夕月』に入った。狭く暗い部屋だった。部屋に入ると微笑みながら、彼女が言った。
「不思議だわ。東京で2人で、田舎の時と変わらず、一緒に寝られるなんて」
「うん、理枝ちやんが、来てくれたからな」
「私、出来る限り、東京に来るようにするわ」
「無理しなくて良いよ。俺は1人で頑張るから」
「そんなこと言わないで。私、昇平さんが、好きなんだから。昇平さんは、私のこと好き?」
「うん。大好きだよ」
僕が、そう言うと理枝は僕の名を呼び、豊かな肉体で、僕を包み込んだ。僕は本能的な衝動にかられ、彼女に突進した。僕たちは誰にも邪魔されず、東京の一夜を過ごした。そして翌朝、僕は上野駅で信越線の汽車に乗って帰って行く理枝を見送った。
〇
5月の連休が明けた。僕は父が勤める会社の四谷本社の大林典之部長に、アルバイトの件が、どうなっているか電話で問い合わせした。すると大林部長は、こう返事した。
「現在、予定していた昇平君のアルバイト先はストライキの為、担当者と連絡が取れなくなっています。もうしばらく待つか、別のアルバイト先を自分で探してみて下さい」
僕は朗報を得られず、愕然とした。この状況を、父に連絡した。すると父から、直ぐに手紙が届いた。
〈 昇平。元気か?
大林君が依頼しているお前のアルバイト先の印刷会社は現在、ストライキで、採用が4,5日、遅れるか、何日、送れるか分からない状態との事です。例え、1週間、延びても心配いりません。決して不安を持つな。大きな気持ちでいなさい。広志に母校の修学旅行の日程を知らせよと書いて寄こしたが、何も東京駅に行くことは無い。全く余計なことだ。政夫にはたまに会うことがあるのか。もし会ったら、サロンやバーには友達との交際上、止むを得ない場合の他、余り行くなと言え。故郷で麦や稲を汗水たらし面倒を見ている母や祖父を思えと伝えよ。また祖父が言ってたと思うが、煙草を吸う習慣をつけるな。父は今でも、煙草の習慣に困っている。百害あって一利無しとは煙草の事だ。父の病気も日に日に良くなり、今では元に復帰したような気がする。丁度、薬を飲んでから3時間経つ。父が飲んでいる薬は高価であるが、四人の子供たちを一人前にするまでは、どんな思いをしても生命を守る。幸運を待て。父は毎日のように、昇平のことを『易入門』で占っている。不思議と良い卦ばかり出る。安心しなさい。きっと昇平の人生は上手く行きます。
父より 〉
僕は、申し訳ないが、交通事故で頭を打ち、正常になるよう薬を飲んでいる父の事を信用することが出来なかった。アルバイト先を紹介してくれるという大林部長の事を、頼っていたら何も進まないような気がしてならなかった。そこで、また僕は大林部長に電話して印刷会社のアルバイトの交渉をした。すると5月末、大林部長から連絡があり、王子にある印刷会社の原田課長の所に訪問し、印刷会社内の企業内診療所での身体検査を受けなさいと指示をいただいた。僕は、そこでの検査に合格すれば、直ぐにアルバイトの仕事に就けると期待した。ところがあに図らんや、3日後、僕は肺に問題ありと診断され、アルバイト要員として不採用となった。僕は、その実情を、僕のアルバイトの事を心配していた麻布の利江叔母に伝えた。麻布の深澤家の利江叔母は僕を直ぐに、済生会病院に連れて行き、僕の肺の検査をしてもらった。結果は異状無しだった。結果を知った深澤の喜一郎叔父も、今までの経緯から、父が大林部長に軽くあしらわれているのだと立腹した。僕は叔母と共に、この経緯を父では無く信頼する祖父に手紙で報告した。すると祖父では無く、父から返信が届いた。
〈 昇平。祖父宛ての手紙を見た。
お前は思いがけない人生の悩みを背負った。
父は昇平の勉学を第一に考えていることは、今でも変わりない。父は昇平が大学で学びたいという気持ちを汲んで、勉学に都合の良いアルバイト先を大林君に頼んだ訳だが、失敗した。父は自分に学歴も、学力も無く生きて来た社会で、涙を呑み、痛恨の思いをして来たから、自分の子供のお前たちが学力をつけることに大賛成だ。しかし悲しい事に父にはお前たちそれぞれに教育を受けさせる力が無い。父を笑ってくれ。酷い様だが、これから先のことは自分で考えろ。
父より 〉
僕は、その父からの手紙を読んで、泣いた。父は祖父や母に叱責されたに違いない。交通事故で頭に障害のある父は、家族や叔母たちから、会社の人に馬鹿者扱いされているのだと責められ、自信喪失しているに違いなかった。父の手紙から遅れる事、2日、祖父からの手紙が届いた。
〈 6月11日付けの手紙を受け取った。
手紙の内容を読んで、びっくりした。
麻布の利江からの手紙も読んだ。
大介の無能には呆れるばかりだ。お前が病気とは意外過ぎる。大介が、お前のアルバイト先を依頼していた連中の対応に御祖父ちゃんは憤慨している。向学心に燃えるお前の前途は多難だが、諦めるな。別の道を考えよう。兎に角、一旦、帰省せよ。ついては今の下宿先と関係を切る為、帰省する前に荷物を取りまとめて、麻布の家に送れ。お世話になった『松江家』の皆さんには、父が病気になり、休学せざるを得なくなったので、今月いっぱいで下宿を引き払うからと丁重に詫びよ。
帰りを待っている。
祖父より 〉
僕は祖父の指示に従い、部屋の荷物をとりまとめ、同じ下宿で知り合った東大生、田中啓太と芸大生、佐々木国夫と『松江家』の皆さんに休学の報告をした。東大生の田中啓太とは部屋の行き来をする程、親しくなれたのに残念でならなかった。『松江家』の房子夫人は気の毒そうな顔をして言った。
「折角、大学に合格し、東京にやって来たのに、残念だわね。お父様の病気が治ったら、また東京にいらっしゃい。頑張ってね」
「はい。大変、お世話になりました」
僕は深く頭を下げ、辞去した。たった3ヶ月足らずの千駄木町での下宿生活だった。僕は田舎に帰り、実情報告をした。そして帰省していることを理枝に知られないよう過ごした。その間、麻布の深澤家では、祖父の指示により、叔父の喜一郎が自分が勤務する会社のアルバイト要員として僕を採用する工作を進め、僕のアルバイト先を決めてくれた。結果、僕は東京に舞い戻り、深澤家に下宿し、7月から広尾の電気会社とお茶の水の大学に通うことになった。
〇
僕は麻布の喜一郎叔父のお陰で、アルバイトをしながら、大学に通い、船木省三の他、手塚、下村、久保、芦田、梅沢、松崎、小平、安岡といった勉学仲間と一緒に学業に励むと共に、麻雀したり、映画を観に行ったりして遊んだ。同じ学部のクラスには女性もいた。薬局の娘、三浦玲子、和菓子屋の娘、渡辺仁美、沖縄出身の高宮城英子などがいて、いずれも勉強熱心だった。僕は、そのうちの1人、高宮城英子に夏休みに沖縄に同行しないかと誘われた。だが、会社を休むわけにも行かず、パスポートも必要だという事で、彼女の誘いを断った。僕の東京での友人は、大学の仲間だけでは無かった。東京の大学に進学した高校時代の仲間、北条常雄や清水真三とも時々、会ったりした。僕は東京の生活に慣れた。兄の政夫も麻布の深澤家が改築したので、麻布の家に移って来た。麻布の家は、その為、従兄妹の忠雄と高子の他、僕たち兄弟を加え、6人になり、利江叔母は大変だった。そんな風であったから、僕の暗かった大学生活のスタート時の憂鬱はほぼ解消された。それに時々、中山理枝が田舎から東京にやって来て、僕とデートしてくれたので、僕の毎日は楽しかった。僕は東京にかじりつき懸命に学び、僕の事を『吉岡家』のろくでなしと馬鹿にしていた村人たちを、あっと思わせるような人物になるまで、故郷に帰るまいと思ったりした。そうこうしているうちに年末になった。クリスマスになる数日前、清水真三から電話がかかって来て、中学から高校まで一緒だった小池早苗が僕たちに会いたいと連絡して来たという報告があった。彼女は僕と同じ高校を卒業してから、都内の商事会社に勤めていた。そこで僕は清水と一緒に小池早苗と新宿で会った。『小田急デパート』のレストランで食事をして、『ランブル』という喫茶店で近況報告をし合った。そして正月、田舎で会おうという事になった。
〇
昭和38年(1963年)になった。僕は前年まで、石にかじりついても、当分、田舎に帰るまいと思っていたが、清水真三や小池早苗と新年に会う約束をしていたので、昨年末から、帰省した。そして仲間と新年会で会ったのとは別に小池早苗と高崎で会った。喫茶店『プランタン』で小池早苗の悩みを聞くことになった。彼女は僕にこう話した。
「私、会社の上司に結婚を迫られ困っているの。はっきり嫌だと言えないので、昇平さん、私の恋人になってくれない。見せかけでも良いから、上司に結婚相手がいることを証明し、諦めてもらうようにしたいの」
「ええっ、俺が。俺じゃあない人いないの。俺は大学生だぜ」
「誰がいるというの。昇平さん以外に」
「北条に頼めよ。あいつなら、柔道部だったし、体格が良いから」
「駄目よ。北条さんは、お坊さんだもの。修業が厳しくて、夕方、都心に顔見せする余裕など無いわ」
「俺だって同じだよ。大学の講義の時間だ」
僕は早苗の依頼を拒否した。すると、彼女は僕の手を握って僕を見詰めた。僕は改めて早苗を見た。丸顔の可愛い笑顔が、今日は真剣な顔つきだった。良く見ればふくよかな美人だ。僕は彼女の媚に幻惑された。その場で彼女の見せかけの恋人になることを了解してしまった。そして、東京に戻ってからも、彼女と時々、会う約束をした。その翌日、僕はまた高崎に出かけた。喫茶店『白馬車』で中山理枝に会って叱られた。
「昇平さん。昨日、小池の早苗ちゃんと会っていたでしょう。どういう事?」
「どういう事って。彼女とは、小学校から高校まで一緒だった。中学時代の新年会の時、相談事があるというので、昨日、会ってやったのさ」
「相談事って?」
「職場問題。就職1年目は皆、苦労するのさ。俺だってアルバイト先で、ミスが多く、資材部の仕事は任せられないからと、クビになりそうになった。でも図面整理係りに配置換えされ、何とか持ちこたえている」
「そうなの。彼女、昇平さんと結婚したいんじゃあないの」
「まさか。彼女は貧乏学生の俺と結婚する気など全く無いよ」
「それなら良いのだけれど。昇平さん。私がいることを忘れないでね」
「分かってるよ」
僕は調子良く理枝の疑いを逸らす事に成功した。僕は姉さん気取りの母性的理枝と明朗で誠実味のある小池早苗とを比較し、将来、どちらが僕の願う良妻賢母になるだろうと、想像したりした。そんな僕に、理枝がポツリと言った。
「でも離れて暮らすって辛いわね。互いに同じ世界を求めながら、別々の場所で別々の道を歩いているなんて」
「うん、そうだね。何時か同じ場所で暮らし、同じ道を歩きたいね」
「早く、そうなるよう、願っているわ。昇平さんが、大学を卒業する見込みがついたら、私、東京に行って、女給の仕事をするわ」
僕は理枝が真剣な顔をして、そう言うので困惑した。そんなことを、『吉岡家』の家族や親戚が許してくれるだろうか。そうして僕は故郷で正月を過ごし、再び上京し、勉学とアルバイトの生活に励んだ。小池早苗とは時々、会って、相談した。彼女の上司は執拗に結婚を迫るので、どうしたら良いのか泣かれたが、僕には成す術が無かった。無責任だが、彼女にアドバイスした。
「そんなに酷い上司のいる職場なら、一時も早くそこから逃れるべきだ。一時、田舎に帰り、また出直せば良い」
「でも折角、東京に出て来たのだから東京で暮らしたいわ。私、何処か別の就職先を探すわ。だから、私と一緒にアパート暮らししてくれない」
「そ、それは出来ないよ。俺は学生で、アルバイト賃も少ないし、2人で食べて行けないよ」
「そしたら、どうしたら良いと思う?」
「田舎に帰り、家から通える仕事を探すんだな」
冷たい様だが、僕は彼女の帰郷を勧めた。すると彼女はとても哀しそうな顔をした。
「私の恋人になってくれているというのに、冷たいわね。余りだわ」
「だって、俺はまだ学生なんだ」
「じゃあ、大学を卒業したら結婚してくれる?」
「それはどうかな。それまで君がま待てるかな?」
僕が、そう言うと、彼女は僕を睨みつけた。その日、別れてから、彼女から僕への誘いは無くなった。五月のゴールデンウイークあたりに連絡が入るものと思っていたが、早苗からの連絡は無かった。理枝からの連絡も無かった。僕は学業とアルバイトに専念した。
〇
そした夏の日、中山理枝から、8月31日、会いたいという手紙を受け取り、僕は悩んだ。深澤家の食事の時、それとなく田舎の状況はどうなっているのだろうかと僕が話題にすると、喜一郎叔父が僕に言った。
「昇ちゃん。田舎が恋しくなったみたいだね」
「いや。そんな」
「仕事に頑張って、夏休みにも帰らなかったんだから、土日を利用して、1度、顔見せに行ったら良いんじゃあないの」
「そうよ。1度、帰ったら」
僕は喜一郎叔父と利江叔母の言葉に、元気づけられ、理枝の指定した日程に合わせ、田舎に帰る事を決意し、この電車に乗り込んだのだ。窓外の景色が東京から埼玉に移ると、室生犀星の詩が自然と浮かび上がって来た。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
犀星の詩ではないが、僕の本心は安易に田舎には帰りたくなかった。身を立て名を上げ、自分を『吉岡家』のろくでなしと冷笑していた人たちを、驚嘆させるような偉人になってから、故郷に帰ろうと思っていた。姉の好子や兄の政夫は優等生だったが、僕は全く成績の悪い劣等生だった。近所の悪餓鬼と一緒になって桃やスイカや柿を盗んだりして、『吉岡家』のろくでなしと陰口をたたかれていた。勉強が大嫌いで、農作業も手伝わず、魚釣りやメジロ採りに行って、いずれ不良仲間になると言われていた。そんなであるから、僕は村人に対し無口になり、ひねくれて成長した。中学生の時は『赤シャツ組』の仲間と間違われ、担任教師から、女ぐせが悪いと叱責された。高校生になった時、不運にも父、大介が交通事故に遭い、生死の境をさまよった。その為、『吉岡家』は困窮した。高校に進学する仲間は新品の素晴らしい自転車を買ってもらい通学を始めたというのに、僕は赤錆たガタガタの今にも分解しそうな中古自転車で通学した。学生服も継ぎ接ぎだらけだった。恥ずかしいが我慢した。そんな惨めだった男が、再び蒼白い顔をして村に戻ったなら、村人は昔のように僕を笑うだろう。そう思うと、大宮の先の上尾から引き返そうと思ったりした。だが、幼馴染みの彼女をほったらかしにする訳にはいかなかった。電車の窓外から、時折、涼しい風が吹いて来て僕をハッとさせた。夜空は進むにつれ暗くなり、星一つ見えない。熊谷駅を過ぎると夜空に稲妻が走り始めた。関東平野は、その雷光に照らされ、時々、昼間のように明るくなった。稲が波打つ田園やトウモロコシ畑や夏草の生い茂った土手などが、僕の目に飛び込んで来た。まるで天が僕を歓迎する花火を上げているようだった。激しい雷雨は、過去を振り返る涙を流すように車窓のガラスを伝わって流れた。そうこうしているうちに、僕を乗せた電車は高崎駅に到着した。それと同時に雷雨も止んだ。僕は高崎駅から横川行きの電車に乗り替えた。知っている人が誰かいないかと見回したが、知人は1人もいなかった。電車は夜の田園風景の中を川に沿って迂回しながら走った。妙義山の黒い山容や町のほのかな灯りや故郷の川風が段々と近づいて来た。幼年時代、少年時代、高校生時代の思い出を蘇らせ電車は故郷の松井田駅に到着した。田舎の駅を出ると辺りは暗く、人の姿はちらほらだった。雨上がりの夜空は雲が何処かに消えて、晴れ渡り、黄色い夏の弓張月が照っていた。僕は故郷の優しい微風に励まされ、実家まで歩いて帰った。実家に着くと家族の皆が、僕を明るく迎えてくれた。
〇
次の日、僕は『吉岡家』の2階の部屋から故郷の風景を眺めた。そこからは生まれ育った時から見慣れて来た故郷の森や川が眺められた。思い出は竹馬の友と寺院の白壁に木炭で落書きした文字のように風雨に打たれ、色褪せはしたが、その面影は昔と少しも変わらず、まだ残されていた。変わったのは僕の方だった。晴れた空には白い雲が3つ浮かび、夏の太陽は朝から元気良く、照り輝いていた。午前中、僕は母が家の前の畑にトマトを採りに行くというので、その手伝いに出た。僕は母が切り取ったトマトを籠に入れながら、幼馴染みの理枝が、婚約したことを母から聞いた。僕は、それを聞いて、彼女が僕に伝えなければならない事があるという内容が何であるかを知った。私は唖然とした。こんなことなら、帰って来なければ良かったと、後悔した。僕は家族との昼食を済ませてから、高校時代の友人、川島冬樹と小野克彦に会うからと言って家を出た。約束の松井田駅に行くと、約束通り、中山理枝が、桜の木の木陰で僕を待っていた。僕たちは人に見られるのを避けて、駅舎の陰で話し合った。
「どっちに行く?」
「そうだなあ。妙義山の方へ行くと、暗くなるから、町の裏手にある琴平さんに行こうか」
「昇平さんが、高校時代、遊んだ神社ね」
「うん。軽井沢から来ている女の子からラブレターをもらったことのある神社だ」
「まあっ」
行く先が決まると僕たちは松井田駅から碓氷川の橋を渡り、商店街を通り、中山道を突っ切り、僕が卒業した高校の脇を通り、その裏山に鎮座する『琴平宮』へ行った。僕は3年間、辛い思いをして通った高校時代を懐かしく思い出した。ふと、坂百合弘子のことが思い出された。1年後輩の彼女たちが修学旅行で京都に行く途中、上野駅で北条常雄、清水真三たちと高校時代お世話になった引率の先生や後輩たちを出迎え、東京駅まで同行し、修学旅行列車を見送った時、学生服姿の僕を見て、坂百合弘子は赤く頬を染めた。彼女は元気だろうか。そんな僕の心情など知らず、理枝は壁土色の坂道を『琴平宮』へと向かい、石段を登った。『琴平宮』の境内に到着すると僕たちは両手を上げ、背伸びした。先程、越えて来た碓氷川の向こうに見える陣馬ヶ原に浮かぶ妙義山は紺碧の空に藍色に煙っている。神社の森の草木は、そよ風を受け、夏も終わろうとするのに、尚、頑張ろうとしている。蝉の声に交じって、僕たち2人をひやかすように、鶯が変な鳴き声をする。僕たちは境内の片隅の石の上に並んで腰かけ、素晴らしい景色に言葉を忘れていた。秋が近い。僕は明日からまた、この澄みきった故郷の空気と離れて、東京での生活をするのだ。かって自分が過ごして来た十数年間の過去は、こうしていると深く懐かしく、辛くはあるが、もう一度歩いてみたいような人生の旅路だった。隣りに座る中山理枝とは、小学校に入る前からの幼馴染みだった。僕は年上の彼女に誘導され、いろんなことを学んだ。そんな彼女は僕と完全に離れ離れになることを決断し、東京で僕が1人で頑張って行けるように、明るい別れをしようと、僕を故郷に呼んだのだ。僕は自分に向かって呟いた。
「有難う。理枝ちゃん。理枝ちゃんは心配するだろうが、僕は理枝ちゃんが傍にいなくても、一人でやって行けるから、心配しないでくれ。貧弱で頼りない俺など忘れて、好きな人の所へ行ってくれ」
暑かった夏にさよならを告げるように晩夏の風が森の中を優しく通り抜けて行く。その風に樹々の梢がそよぎ、刈茅がざわめき、野菊の花が揺れてさよならを言っているようだった。僕たちはそんな8月末の午後の森の光の中で、何も言わずに、長い間、眼前の風景を眺め続けた。そして子供の時のように自然に従い互いの肩を寄せ合っていた。晩夏の日差しは柔らかく、神社の森のそちこちや、僕たち2人を照らし続けた。見上げる空は気が遠くなる程、澄みきって、風が通り過ぎると森は静まり、草木や小鳥が僕たちの話を盗み聞きしようと、じっとして微動だにしなかった。その草木や小鳥たちの期待に添うように理枝が口火を切った。
「今日、昇平さんに東京から来ていただいたのは」
「分かっているよ」
僕は、理枝から肩を離し、ちょっと怒ったような調子で答えた。僕の、その返答に彼女は釘付けにされたように、もう一言も喋る事が出来ないみたいに下を向いてしまった。理枝の長い髪が前に垂れ、理枝の白い首元が恥じらうようにちらついた。下を向いたままの理枝を見て、目の前のススキが、僕に何か喋れと葉を振った。僕は心を落ち着け、理枝に言った。
「今朝、母から聞いたよ。おめでとう。結婚するんだってね」
「御免なさい。昇平さんのお嫁さんになるって言っていたのに」
「そんな子供の時の言葉、気にしなくて良いよ。俺は大丈夫だよ。理枝ちゃんが他の人と結婚しても俺は泣いたりしないよ。俺たちの関係は只の幼馴染みさ。姉妹でも、恋人でも無い。子供の時の友達さ。俺たちは近所に住んでいた女の子と男の子に過ぎない。俺は悲しいなんて思わないよ。良かったねと祝福の気持ちでいっぱいだ」
僕は自分の胸が獣に喰い破られるような苦痛に襲われるのを覚えたが、それを隠した。今、目の前にいる理枝が婚約したと母から聞いた時、人生の悲哀は既に味わっていた。その理枝と、こうやって並んで座っていられる現在が、むしろ仕合せに思えた。僕の恋愛への逆心は複雑怪奇で自分でも何を考えているのか理解で出来なかった。僕たちは再び無言になった。僕たちは昔のように再び肩を寄せ合ったまま、西空に移動して行こうとする太陽を見詰めた。理枝の瞳から大粒の涙が零れ落ちるのを見た。僕は慌てて、彼女に言った。
「理枝ちゃん。泣くなよ。理枝ちゃんが泣いたら、俺だって、悲しくなるじゃあないか。泣くなよ」
「泣くなよって言われても無理よ。私の事、近所に住んでいた女の子に過ぎないなんて、冷たすぎるわ」
「御免。俺が、そう言ったのは理枝ちゃんの事、嫌いだと言ったんじゃあないよ。理枝ちゃんは俺にとって大事な大事なお姉さんのように優しい幼馴染みさ。何時も俺の味方だった」
僕は彼女を労わろうと、懸命になって喋ったが、言葉が続かなかった。ただ躊躇するのみで、あたふた困惑した。そんな困った僕の事など気に留めず、神社の森を吹き抜ける風が、せせら笑うように吹き去って行く。理枝は涙顔を隠さず濡れた瞳で僕の横顔を見詰めるので、僕は彼女の方を見ることが出来ず、俯いてしまった。僕は本当に困ってしまい、足元でヒョロヒョロと首を伸ばしている名も知らぬ草を引き千切った。僕たちの会話は、また途切れた。城跡のある杉林の塒に飛んで行くカラスが、カアカアと鳴いた。理枝の瞳は陽光を受けて、光っていた。僕もカラスのように泣きたかったが我慢した。こうして黙ったまま、じっとしていると、首を絞めつけられるようで、いたたまれなくなった。このように幼い時から姉弟のように戯れ合って来た2人が過ごす時間は、一生涯、もう2度と無いだろう。僕を哀れにした黒くうるんだ理枝の瞳とも、沈んで行こうとする夕陽より紅い理枝の唇とも、風に流れる理枝の黒髪とも、今日を最後に別れてしまうのだ。あれほど、僕のお嫁さんになるんだと囁き続けて来た彼女との今日は別離の日なのだ。そう思うと悲しさが増した。惜別の情が胸に迫った。理枝が涙を拭いて、子供を眠らせる母のような小さな声で、僕に言った。
「子供の頃は、本当に楽しかったわ。昇平さんは私の家来で、野イチゴや桑の実やグミや梨や柿や栗の実などを、私の欲しいだけだけ、取ってくれたわね。私の言う事は、弟たちを使っても、叶えてくれたわね。あの頃は本当に楽しかったわ」
「うん。俺たちは山や川原を毎日のように駆け回った。春の山に行って、ワラビ採りやゼンマイ採りをした。夏は川に行って、魚釣りや水遊びをした。秋は山に行って、小鳥を追いかけたり、栗拾いをした。冬は雪の坂道で橇に乗って滑りっこしたね。そんな俺たちの思い出は、あの夏雲のように遠くへ去ってしまった」
「思い出すわ。昇平さんの家。石垣の上の大きな2階屋で、白壁の土蔵もあったわね。あの土蔵の中で、隠れんぼしたわね」
「うん。そうだったね」
「味噌蔵でも隠れんぼしたのを、覚えている。大きな樽の中で?」
僕は、そんな質問をされ、赤面した。空になっている醤油樽の中で、僕が身動き出来ないのを良い事に、理枝が僕の半ズボンを降ろし、僕のものを確認したことがあった。
「まだ毛が生えていないのね」
彼女はそう言って、僕を子ども扱いし、僕の固くなったものを弄り、僕に悪い事を教え込んだりした。僕は興奮しそうになったが、我慢した。僕は平静さを装った。
「うん。そんな事もあったね。兄貴たちに見つかりそうになったりして・・」
「ウフフ。そうだったわね。あの頃の昇平さんはウブで優男で、内気で、私たち女としか遊ばなかった」
「そんなことは無いよ。兄貴たちや弟たちと、チャンバラごっこをしたよ」
「私は中学を卒業して、磯部の旅館で働きながら、昇平さんのこと、監視していたのよ。高校生時代の昇平さんが、どのように成長するかって」
「子分のことが心配だったんだ」
「そうよ。そしたら、昇平さん。クラブ活動せず、女性の誘いにも惑わされず、毎日、図書館で大学受験の勉強をしているって、私が働いている旅館のお嬢さんが、私に報告してくれたわ」
「へえっ。そんなこと気づかなかったよ」
「そんな生真面目な昇平さんが、東京の大学に合格したと知った時、私、田舎育ちの昇平さんが、東京で上手くやって行けるかしらと、随分、心配したわ。でも大丈夫だった。東京に行って会うたびに、東京人らしくなって」
「そう言う理枝ちゃんだって、随分、お姉さんらしく変わったよ。僕の好きな明るい笑顔は変わってないけど」
「ありがとう」
中学を卒業してから、温泉旅館で仲居として働く理枝は働き者の看板仲居になっていた。磯部の旅館に出入りする高崎の洋品店の主人は、そんな理枝を息子の嫁にと考え、温泉の組合長を仲人に立て、理枝の両親を口説いた。だが、娘が承知しないのでと、縁談の話は長引いていたらしい。僕たちが境内の片隅の石に並んで腰かけていると、『琴平宮』に男子高校生と女子高校生の4人組がやって来て、僕たちをジロジロ見た。部活動を終え、煙草でも吸いに来たのだろうか。僕は、高校の後輩らしい連中に、弟、広志のことを訊こうと思った。すると理枝が僕の半袖シャツの袖を引っ張った。
「ここでは人に見られるから、城山に行きましょう」
「うん。そうだな。高校生たちの息抜きの場を独占しちゃあ申し訳ないからな」
僕は理枝の意見に従い、『琴平宮』の丘から城山へと移動した。城山への細道を登りながら、理枝が言った。
「昔、こんな山道を歩き、ワラビ採りや栗拾いに行ったわね」
「そうだったね。俺は理枝ちゃんの一番の子分で、理枝ちゃんの命令に従い、岩場で花を摘んだり、栗の木に登ったり、信じられない程、張り切つていたっけ」
「女王様の私に服従し、良く働いてくれたわ」
「服従じゃあないよ。理枝ちゃんの喜ぶ顔が見たかったからさ」
「まあっ。田舎では内気だった昇平さんが、東京へ行ったら、随分、言葉上手になったのね」
「うん。東京では、狡賢く言葉上手でなければ、生きて行けないんだ。東京には人を騙す奴が多いから」
「そんなに多いの?」
「数人で商店に押し寄せ、かっぱらいしたり、只食いしたり、安物を外国製だなどと調子の良い事を言って売りつける悪い奴が横行しているんだ」
僕たちは、子供の時代を思い出しながら、城山の頂上へ向かった。夏草の生い茂る山道にはいろんな花が咲いていた。真夏に咲き誇った山百合の白い花が、しおれかけていた。僕は、それでも、その百合の残り香を楽しんだ。
「夏の花も綺麗だよなあ。野菊も咲き出したし」
「そうね」
「この花は何だっけ」
「フジバカマよ」
「じゃあ、これは?」
「女郎花でしょう」
「じゃあ、これは」
「ギボシよ」
「これは?」
「金水引」
僕たちは花の名を挙げながら、城山の頂上の平地に到達した。足元に咲く青紫の花が、良く登って来られましたと、僕たちを歓迎しているみたいだった。
「これは竜胆だよね」
「そうよ。忘れちゃあ駄目よ」
「忘れないよ」
「本当に忘れないでね」
「理枝ちゃんこそ、俺がここから見える山の名前を教えてやったのを、忘れちゃあいないだろうね」
僕は理枝が、何故、僕以外の男と婚約することを決めたのか、説明するのを恐れ、こんな質問をしていた。彼女はちょっと寂しそうな顔をして質問する僕の顔を見て答えた。
「覚えているわ。ここから見えるほとんどの山の名前」
「では、東に遠く見える裾野の長い山は?」
「赤城山よ」
「では北側の青い山は?」
「榛名山よ」
「では西のあの尖った山は?」
「三角山でしたっけ?」
「いや違うよ。高戸谷の向こうのあの山だよ」
僕が西の山に向かって指さすと、理枝が答えた。
「ああ、角落山だったわね」
「正解。では、あの山は?」
「鼻曲り、その隣りが一文字山、その向こうで煙を吐くのが浅間山」
「では、妙義山の向こうの山は?」
「荒船山よ。その左側が大桁山」
「良く覚えているね」
「だって、旅館に泊まるお客さんに山の名前、訊かれることもあるし。それに昇平さんが好きだった山々だから」
理枝が言うように、僕は目の前に一望することが出来る故郷の山河が好きだった。山嶺に立って新鮮な空気を吸い、東京へ向かって走って行く汽車を眺め、東京に憧れた。故郷の美しい大自然に抱かれ、深い愛と帰依をいただきながら成長したというのに、僕は都会に憧れた。故郷の貧困と因習を嫌悪し、遥か彼方に幸福があると信じ、その世界を夢み、憧れ、東京へ行く事を決意した。家族の反対を押し切り、大学受験を成功させ、東京へと旅立った。僕は高校時代、故郷の狭い世界から抜け出し、東京は勿論の事、海外にも行ってみたいという衝動にかられ、クラブ活動をせず、猛勉強した。そして、好きだった故郷から脱出し、都会で生活をすることになった。僕は四方の山々を眺めながら城跡の平地の夏草の上に幼馴染みの理枝と坐った。彼女は、この時になって、僕を呼び出した理由をようやく口にした。
「私と結婚する人は私より4つ年上の高崎の人なの。『田中洋品店』の長男で、妹2人が嫁いだので、私を嫁に欲しいと、温泉組合の桜井組合長を仲介人として、結婚を申し込んで来たの。私は、昇平さんと結婚するつもりでいたから、両親から、その話を聞いて断り続けて来たの。でも両親から強く説得されて・・・」
理枝は涙声になった。僕は、彼女の言葉を黙って聞いた。僕が聞いても何の役にも立たない、仕様がない話だった。
「両親は私を説得したわ。お前は昇平さんより年上だし、村の名家である吉岡さんの家が、うちのような貧乏家の中学卒のお前など、嫁にしてくれる筈が無かろう。だから諦めろ、諦めろって、毎晩のように、両親そろって言うの」
「それは大変だったね。分かったよ。俺の事は気にしなくて良いよ。高崎にお嫁さんに行って、仕合せになりな」
「許してもらえるの」
「許すも許さぬも無いよ。俺たちは幼馴染みというだけの関係だから」
僕は自分でも意外な程、冷静だった。何時の間にか夕陽が、中木山の向こうに沈もうとしていた。家に帰らねばならない。
「じゃあ、そろそろ帰ろう。理枝ちゃんからの報告を受けて、すっきりしたよ」
僕たちは城跡の草叢から立ち上がった。紅い夕陽が僕たちを真っ赤に染めた。僕たちはもと来た道を下った。栗の木が、青い針いっぱいの実を鈴なりにしていた。少し下って行った途中で足を止め、理枝が言った。
「あらっ、こんな所に木苺の実が」
理枝は子供の時、僕と一緒に木苺の赤い実を採って食べた時のように、木苺の実に手を伸ばした。次の瞬間、理枝は悲鳴を上げた。
「あっ、痛い。痛いわ」
「木苺に手を出したから、棘が刺さったんだ」
「こんなに血が出て来たわ。止めて」
「どうすれば良いんだ」
「棘を抜いて、子供の時のように貴男の口で私の指の血を吸うの」
僕は彼女の命令に従い、彼女の人差し指の棘を抜いて血を吸った。すると彼女は僕に身を寄せ、かすれ声を上げた。
「あ、あ、あ、あ」
僕は、今まで彼女と過ごして来た時と同様、彼女に誘導され、夏草の暗がりの中で戯れ合っていた。彼女の乳房や下腹部や両足が、夕暮れなのに、いやに白く生々しく白く見えた。僕たちは、結合し、別れを惜しんだ。強く結合したまま離れたくなかった。僕は連発銃のように、自分の思いを彼女の中に注ぎ込んだ。彼女は悦びの絶頂に達して、僕に言った。
「昇平さん。私は、もう充分。もう何も言わないで。何も話さないで」
僕は思った。もう、故郷とは、おさらばだ。故郷に何が起ころうとも僕には関係ないことだ。故郷での僕の青春の友情、恋愛、愛憎は総て幕を閉じたのだ。もしかして何十年後、再会する時は、もう僕たちは、幼馴染みの僕たちでは無い。理枝は中山理枝でなく、田中理恵という別人だ。僕も完全無欠の東京人だ。気が変わられては困る。僕たちは衣服を整えて立ち上がると、見分けがつかなくなり始めた坂道を『琴平宮』の脇道に向かって下った。理枝は罪を犯した者のように、僕から少し距離をおいてついて来た。明日は、ここから遠く離れた東京での生活が、また始まる。『琴平宮』の脇道に戻って来た時、何も言わないでと言っていた理枝が僕に詫びた。
「昇平さん。御免なさい。辛い思いをさせちゃって」
「何、良いんだ。理枝ちゃんが僕に言いたい事を話して、さっぱりしてくれれば」
僕たちは『琴平宮』の脇道を下り、商店街の通りに出た。映画館では『渡り鳥、故郷へ帰る』や『ハワイの若大将』などが上映されていた。夕暮れになって、田舎町の商店街は映画館やパチンコ店にネオンが輝いたりして、華やかさを増し、賑やかだった。僕たちは、喫茶店にでも入って、もう少し話したかったが、田舎町には喫茶店などという、洒落た店など無かった。そこで僕たちは『下町食堂』に入り、親子丼を食べながら、世間話をした。そこへ高校時代の友人、小野克彦と金井智久が入って来たので、僕は慌てた。
「なんだ。吉岡じゃあないか。帰って来てたのか?」
「おおっ。小野と金井。仕事の帰りか」
「うん。高崎機関区からの帰りだ。ここで一杯、やろうという事になってな」
「そうか」
「隣りに座って、良いか?」
「かまわねえよ」
「良いですか?」
金井智久が一応、理枝にも確認した。
「良いわよ」
理枝の了解を得ると、2人は僕たちに酒を勧めた。僕は酒に弱かったが、理枝は旅館の仲居の仕事をしているだけあって、酒の相手が上手だった。その席で、2人から北条や清水は元気かと訊かれたので、東京での自分たちの状況を説明してあげた。2人は、中学時代の仲間の話をした。東京の会社に就職して頑張っていた新井茂吉と小池早苗が田舎に戻って来たなどと説明した。僕はこの時、早苗が実家に戻った事を知った。『下町食堂』は盛況だった。時間と共に客が増えて来た。それを見計らって、理枝が言った。
「私、遅くなるから、そろそろ帰るわ」
僕は、旧友に捕まり、どうしたら良いのか、迷った。すると店の女将が、近づいて来て、僕に言った。
「吉岡のお坊ちゃま。この2人は酒飲みで、私が店を閉めるまで飲んでいる連中だから、相手にせず、お嬢さんを送って行かないと駄目ですよ」
世間は狭い。『下町食堂』の主人と女将は、僕の祖父、慶次郎が常連客だったので、僕の事を知っていた。僕は女将の言葉に助けられ、食事代を清算し、小野と金井と再会の握手をして別れた。店の女将は店を出て、駅の方へ向かう僕たちに両手を合わせお辞儀をした。
「有難うございました。またのお越しをお待ちしております」
店をから少し離れると、理枝が僕に耳打ちした。
「あの女将さん。私たちのこと、恋人たちと判断したみたいね」
「そうかもな」
「まだ私、時間があるわ」
理枝が別れを惜しんでいる気持ちは分かるが、何時までも一緒にいる訳には行かない。僕はビールの他に日本酒を少し飲んだので、酔いが回っていた。早く家族のもとに帰りたかった。
「だけど。俺、酔っぱらってるから、早く帰りたい。駅まで送って行くよ」
「では、駅まで送って」
僕たちは国道を渡り、街外れの暗い道に入った。理枝が僕の手を握って来た。駅への道は、碓氷川の方に一旦、下り坂となった。柳瀬橋の手前に来た時、理枝が言った。
「昇平さん。あそこにホテルが出来たのよ」
「ホテル?」
理枝のいう方向を見ると、碓氷川の崖の上に、燦然と輝く建築物が見えた。『満月城』というホテル名をネオンがキラキラ浮かび上がらせていた。僕は、夏休みを終えて、上京した兄、政夫が、田舎にもラブホテルが出来て、その名は『マンツキ、シロ』というんだと、あざ笑って語ったのが、前方のホテルであると知った。
「田舎も、どんどん変わって行くんだね」
「行ってみない」
理枝が僕の手を強く握った。僕は少年時代のように理枝に誘導され、服従していた。今日が最後だから良いかと、自分を納得させた。ホテルの部屋は、何もかもが新しく快適だった。理枝は城跡の帰り道の時は、薄暗かったがホテルの部屋の中が明るいので大はしゃぎした。僕たちは、これが最後と好きなだけ相手の身体をむさぼり合った。互いに満足し終えてから、理枝が言った。
「私の事、忘れないでね。幼い時からの2人にあった事、互いの胸にしまっておきましょうね」
「うん。忘れないよ。理枝ちゃんとの思い出は故郷の山や川と同じで、絶対、忘れないよ」
「今日のような事、もう2度と出来ないわね」
「うん。総てが碓氷川の水のように流れ去り、昔のことになっちゃうよ」
「田舎に来てくれて、本当に有難う。お互い仕合せになりましょうね」
「うん。仕合せになろう」
僕たちは、仕合せを掴む事を約束して、ホテルを出た。暗い道をホテルから、松井田駅まで歩いた。碓氷川の畔りではカエルが、僕たちを邪魔者扱いするように啼いた。ケエロ、ケエロ。僕は足元の小石を拾って、カエルの啼き声めがけて投げつけた。すると一瞬、啼き声が止んだ。だが直ぐに、また啼き喚いた。ケエロ、ケエロ、ケエロ・・・。僕には早く東京に帰れと聞こえて、涙が溢れて仕方なかった。理枝も泣いているに違いなかった。僕は悲しみに耐え、理枝を松井田駅まで送って行った。やがて横川駅発の高崎行きの電車が入って来た。理枝は、その電車に乗り、デッキで手を振った。
〇
9月1日の日曜日、僕は松井田駅から上野行き列車に乗った。僕は弟、広志に見送られ、故郷に心から、さよならを言った。幼馴染みの中山理枝に対する愛しさも、憎しみも、もう総てが過去の事になるのだ。理枝との思い出は、幼い子供たちが井戸端で遊んでいて、ついうっかり手が滑って井戸の中に落としてしまった宝物のようなものだ。今回の美しかった夏の日の経験は僕にとって人生の大きな試練と開眼となって、僕を進化させてくれるであろう。僕を乗せた汽車は動き出した。白い煙をいっぱい吐いて、僕を故郷から切り離し、新しい東京の世界に向かって、連れて行こうと意気込んだ。僕は列車が、磯部駅を通過する時、「さよなら」を言った。もう故郷に未練は無い。これから東京に行ったら、新しい物語が始まるのだ。
〈 ある夏の日の帰郷 〉 終わり