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98 夜を走る


 やっと静かな寝息が聞こえだして、雪都はパタンと絵本を閉じた。晴音のせいですっかりお馴染みになってしまった、チビドラゴンの絵本だ。何度も図書館でこの本を借りていると聞いた父の秋雪が親馬鹿ぶりを発揮して新品を買って来たのはつい昨日のことで、真新しい本は擦り傷も見当たらずにつやつやと電灯の明かりを弾き返している。


 おかげで、またグリーンだ。

 これまでに一体、何度読まされたことやら。


 もう一冊まるごと暗唱できてしまう程だ。受験生の頭にいらん知識を刻むなよと雪都は、すやすやと眠っている妹と、今頃は病院でまだ仕事をしているであろう父を恨んでみたりなんかしてみた。


 俺、マジで落ちるかも。


 晴音を起こさないようにそっと布団から這い出してみれば、時間は既に十時を回っている。雪都はこれから勉強をはじめるのだ、これはどういうことだろうか。


 部活を辞めた、時間の余裕は少し出来た。前よりはマシになった。

 だけど、雪都が目差しているのは医学部だ。しかも、国立狙い。第一志望は、難関と名高い明条大学なのだ。


 滑り止めに私立の医科大を受けるつもりではあるけれど、同じ医学部志望の和馬が明条大に受かって、雪都は落ちたなんてことは真っ平ごめんだったりする。別に和馬をライバル視している訳ではないけれど、負けるのは雪都の性に合わない。それに、同じ大学に行けたら面白いかなとも思う。


 「……何とかしろよな、お気楽親父」


 絵本には気が回る癖に、息子が受験生だってことには気を回せないのかと、雪都は溜息をつきながら晴音が寝ている部屋の襖をそっと閉め、とんとんと階段をあがりはじめた。


 小さな妹は、まあ何と言うか普通に可愛いし、世話をするのは面倒だけど、それほど嫌ではない。というか、もう慣れた。あのピョンピョンと飛び回るちっこいのを連れて歩いてる方が、一人で歩いているよりバランスがいいような気さえする。


 毒されている、そうなのかもしれない。

 この歳で子守り上手って自慢できることなのだろうか。


 ま、何とかなるか。


 勉強は、嫌いではない。知識を得ることは、頭に栄養をやっているようなものではないかと思う。物を知らない大人になんてなるつもりはないのだから、勉強するのは自分のためになることだと思う。


 妹の世話をしていたから大学に落ちたなんて言い訳はしたくない、現役で合格してやる。


 時計代わりにしている携帯を下に忘れて来たことに雪都が気づいたのは何てことはない、晴音ウケを狙って登録した某有名アニメ主題歌の着メロがちゃんちゃかと聞こえて来たからだ。晴音の枕元に置き忘れた訳だから、晴音のすぐ傍で鳴っているということになる。せっかく寝た晴音が目を覚ましてしまう、雪都は今あがって来たばかり階段を素早く駆け下りた。


 和室に駆け込み、携帯を鷲掴む。晴音は寝ている、すやすやと穏やかな寝息だ。


 またそっと部屋を出てから、雪都は二つ折りの携帯を開いた。ディスプレイに表示されていたのは、見覚えのない数字の羅列だった。こんな時間にかけて来るのは友人の誰かだろうが、だけど友達ならみんな登録してあるから名前が表示される筈だ。


 以前にも、どうやって番号を調べたのか同じ学校とはいえ喋ったこともない女子から電話がかかってきたことがある。もしかしたらまたそのパターンかと思ったけれど雪都は、何故か通話ボタンを押していた。無視してもよかったのに、そうはせずに耳に携帯を押しあてる。


 「もしもし?」


 そう問うても、相手はすぐに答えなかった。やはりイタズラか何と思ったが、だけど切ろうとは思わなかった。何度かもしもしと繰り返していたら、小さな小さな声が答えた。

 永沢くんと、名を呼ばれた。それだけで、電話の相手が誰だかわかる。


 「中森か?」


 雪都が、幼馴染の声を聞き間違える筈はない。雪都にとって美雨は、大切な少女なのだ。ずっと前から、誰よりも何よりも大切な女の子。


 「中森、どうかしたのか?」


 あの、とか、えっと、とか、電話の向こうで躊躇している美雨に雪都は、いいから言えと、少し強い声を出した。


 「あの、ね……こんな時間にかけちゃってご免ね。あのね、今、予備校の帰りなんだけど……えっと」

 「予備校の帰り?外なのか?」

 「あ、うん。そうなの。でね、あの……」

 「いいから言えって、どうした?」


 誰かにつけられているような気がして恐いと、美雨は消え入りそうな声で言った。その瞬間、雪都は弾かれたように走り出していた。


 「今、どこだ」

 「コンビニ……えっと、二丁目の」

 「コンビニになる前は、文房具屋だったとこか?小学校の裏門から出てまっすぐ行った……」

 「そう、そこ!」


 一度玄関まで行って、晴音が寝ているのにさすがに鍵をかけなければまずいかと思いついて、鍵を取りに一旦戻って、すぐにまた玄関に走る。ガチャガチャと鍵束を鳴らして鍵をかけてから門扉を押して飛び出そうとし、またもや思い直して取って返し、扉のすぐ横の僅かなスペースに突っ込んである自転車をかなり強引に引きずり出した。


 「すぐに行く、待ってろ。店員が見えるところにいろ、いいな!」


 そう叫んでから電話を切り、携帯はジーパンの後ろポケットにねじ込んだ。

 夜の道を無茶苦茶にペダルを漕いで、風のように疾走する雪都の脳裏には小学四年生の時の、真っ暗な体育倉庫にびしょ濡れになって倒れていた美雨の姿が浮かぶ。

 あの時は、何時間も恐い思いをさせてしまった。意識を失っていた美雨に駆け寄って、掴んだその手の冷たさに愕然としたのを覚えている。


 待ってろ、美雨。

 すぐに行くから。


 美雨が恐いと言っている、雪都を待っているのだ。

 走る、走る、走る。

 奇しくものその道は、小学四年生のあの夜に美雨を探して走ったのと同じ道だった。


 すぐ行く、待ってろ。

 もう二度と、お前に恐い思いなんてさせない。


 美雨が居るコンビニまでは、雪都の家から歩くと十分くらいはかかかる。その距離を、雪都はわずか二分ほどで走り抜けた。ブレーキの音を軋ませて、雪都はコンビニの駐車場に滑り込んだ。自転車を横倒しにして店に飛び込む。


 「美雨!」


 苗字ではなく、名前で呼んだのは無意識だった。鮮やかに呼び戻してしまった忌まわしい過去の記憶がそうさせたのかもしれない。


 「美雨、どこだ!」


 永沢くんと、雪都を呼ぶ声と共に商品棚の間から顔を出した美雨に、雪都はハアッと全身の息を吐き出した。その場にへたり込んで、泣きたいような気がした。




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