97 何かがおかしい
最近、自分が少しおかしいと思う。
十八になってからだ、あの誕生日の日から美雨はどこか少しおかしい。
体調が悪い訳ではない、だけど何故か足の裏が地を上手く踏みしめられなくてふわふわと浮いているような気がする。
どうしてだろう、何かが気持ち悪い。
何だろう……。
予備校の授業を終えて、美雨は二階の教室から階段を使って一階まで降りた。そして、ぞろぞろと降りて来る他の受講生たちが帰るにを妨げないように受付窓口の横の壁にもたれかかった。
特に約束をしている訳ではないけれど、予備校からの帰り道はいつも同じクラスの時田崇と一緒だ。だけど、今日はその時田が予備校を休んでいた。
学校には来ていたから病気ではないだろう。何か用事だろうか、急に具合が悪くなったということもありえる訳だが。
時間は、すでに夜の十時を過ぎている。外は当たり前だけど暗くて、美雨は最初の一歩を踏み出すのを躊躇っていた。
タクシーで帰ろうか……けれど、タクシーを捕まえようと思えば駅前まで出なくてはならなくて、駅前まで行くくらいなら家に向ってもたいして距離は変わらない。
もっとも駅までの道には人通りが多く明るいが、家は住宅街にあるので人通りは少なく、街灯も少ない。
駅まで行って、タクシーで帰るべきだろうか。しかし、駅から美雨の家までは一メーターほどしかかからない。タクシーにしてみれば今頃の時間はかき入れ時だろうから、一メーターぽっちの客なんて乗車拒否されるかもしれない。
美雨がそんなことを思って悩んでいる間に、最後の授業を終えた生徒たちが帰って行く。この予備校は十時で全ての授業が終り、十時半には扉に鍵がかけられるのだ。
男の子たちはもちろん、女の子たちも躊躇など見せずに夜の街に踏み出して行く。ここは、世界で一番治安がいいと言われている日本だ。女の子の夜の外歩きは安全だとは言えないが、だけど襲われる確率はかなり低い。
いつも時田に送ってもらっているから、たまに一人だと恐くなるだけだ。大丈夫、去年の冬に時田がインフルエンザで二週間近く休んだ時だって、何の問題もなく一人で帰れたではないか。
大丈夫、大丈夫と自分に言いきかせてから、美雨はぐっと足に力を込めた。
歩き出す、大丈夫。自動ドアを通り抜け、外に出る。大丈夫だ、車のヘッドライトと店や民家の明かり、それに今夜は幸い月が出ている。意外と明るい、大丈夫だ。家までは、十数分ほどで辿り着ける。走ればもっと早く着く、走ろうか。
走って帰ろうと思いながらも美雨は、一定のリズムを崩さずに歩いた。走り出せば、何かが追いかけて来るような気がして恐い。何故だろう……自分は、こんなに臆病だったろうか?恐い、どうしてこんなに恐いのだろう。
去年の冬は平気だった、時田が休んでいた二週間の間には月のない凍てついた夜もあったのに躊躇なく普通に帰れた。
自分はどこかおかしい、おかしくなってしまったと美雨は思う。あの日からだ、あの十八になった日に心の端に何かが引っ掛かった。
暗い…… 助けて、雪くん……私は、ここにいる…………。
雪くんと、美雨は小さく呟いていた。無意識だった。そして永沢くんと、頭の中で今の呼び方に直す。
彼があの日、ぬいぐるみをくれた。
大きな茶色いくまのぬいぐるみだ。
くまのぬいぐるみを抱しめていたら、何故か落ち着く。だからあの日から美雨は、くまを抱しめて寝ているのだ。
高校生にもなってぬいぐるみを抱いて寝るなんておかしいと思う。だけど落ち着く、彼が傍にいてくれるような気がして。
一定のリズムで美雨は、家に向って歩いた。人影は徐々に少なくなり、商店も少なくなる。
この辺りは道が狭いし、行き止まりが多くて抜け道にもならないから、住人でなければここまで車を乗り入れて来る人もいない。それでも時折、低いエンジン音を轟かせた車に追い越されるが、ヘッドライトはほんの束の間だけ美雨の視界を明るくして、すぐに行ってしまう。
走ろう、走ればいい。
だけど足は、一定のリズムでしか動いてくれない。
角を曲がる。更に道は狭くなり、街灯がぽつん、ぽつんと頼りない明かりを投げかけている。美雨の前方には誰もいない、その方がかえって安心する。
下手に人がいたら、その人が何か仕掛けて来るのではないかと疑ってしまう。まだ無人の方がいい。
暖かくなって来たから窓を開け放っているのだろうか、どこかの家のテレビの音が聞こえる。その平和な音に、美雨は少し肩の力を抜いた。
どうかしている、夜道がこんなに恐いなんて。子供じゃないのに……そう思って苦笑いを浮かべた美雨の耳に、かすかに足音が聞こえた。
テレビの音は相変らず賑やかに聞こえている。その音に混じって、背後から確かにこちらに近づいて来る足音が聞こえたのだ。
ただの通行人だ、そうに決まっている。美雨と同じく、家に向って歩いている人に過ぎない。そう思う、だけど……。
ぞくりと背中を這い上がって来たものに美雨は悲鳴をあげそうになった。見られている、視線を感じる。後ろから誰かに見られている。
……って、生意気……くんは、あんたのものじゃないでしょう……。
恐い、恐い恐い恐い。
人が恐い、振り向くことが出来ない。
美雨は走り出した、がくがくと震える足を懸命に交互に動かして走る。右、左、右、左。家までは、もう近い。逃げ込めばいい、安全な家へ。
だけど、家までつけられたら?
家を知られる、知られてしまう。
どうしようどうしようどうしよう。
美雨は走った。足がもつれて、実際には歩いているのと然程違わないスピードではあったのだけれど、それでも必死で走り続けた。だけどこのまま、家に逃げ込むことも躊躇う。つけられているのかもしれない、家が知られてしまうかもしれない。
どうしよう!
前方に明かりが見えた、住宅街の中にポツンとある小さなコンビニだった。美雨は、自動ドアを開くのももどかしく、店内に駆け込んだ。カウンターの中にいた若い女の店員が驚いたように軽く目を瞠ったが、すぐに笑顔でいらっしゃいませと声をかけてくれた。
いらっしゃいませ、そんな当たり前の台詞に癒される。
店内は明るかった、色とりどりのパッケージに包まれた商品が賑やかに並んでいた。
ほうっと、美雨は息を吐き出した。恐る恐る振り向いて、ガラス越しに店の外を窺ってみるが、だけど車が五台も停まればいっぱいになる狭いコンビニの駐車場も、その向こうに続く道も何故かひどく暗くて、そこに誰かが隠れているのかいないのかわからない。
明るいコンビニに逃げ込めた、ひとまずは息を吐くことが出来た。いらっしゃいませと言ってくれた店員が女性だったことも、いい方に美雨を安心させてくれた、でもいつまでもここに居る訳にはいかないのだった。
ここからなら家まで五分もかからない、だけどその通いなれた五分の道程がとてつもなく遠く感じる。
美雨は、教科書やらノートが入っている重い布のバックを開けて携帯を出した。
まず思い浮かんだのは、両親の顔だった。電話すればきっと飛んで来てくれる、それは間違いない。
だけど、両親は多分まだ仕事をしているだろう。『polka dots』の本店のある小堀町は、電車を使っても三十分はかかる。車を飛ばしても二十分くらいはかかるだろう……待てない。
美雨は、携帯を操作して登録してあるメモリーを呼び出した。両親の次に思い浮かんだのは、あゆみの明るい笑顔だった。
あゆみだってきっと電話すればすぐに来てくれるだろう。多分、清太郎を伴って二人で来てくれる。親友のあゆみと、体の大きな清太郎が駆けつけてくれることを想像するだけで、涙が滲みそうになる。
けれど、あゆみが住んでいるところもここからでは少し距離がある。駅にして二駅、電車を使うにしても自転車で来るにしても、やはり三十分くらいはかかりそうだ。
そんなに待てない、恐い……ピッピッと、軽い電子音をたてながらメモリーを探る。誰か、誰かと思いながらも、だけど美雨はたった一人の名前を探していた。
永沢と、素っ気なく苗字だけで登録されている番号は、膝を痛めた雪都に代わって美雨が晴音を保育園に迎えに行った時に教えてもらったものだ。かけてもいいのだろうか、だけど迷ったのは一瞬にも満たなかった。
耳に押し当てた携帯から、呼び出し音が聞こえる。
二回、三回、四回……雪都は出ない。
お願い、永沢くん。
お願い。
五回、六回、七回、呼び出しは続く。
十時を過ぎているけれど、高校生が寝るにはまだ早い時間だと思う、だけどそんなことはわからない。寝てしまったのだろうか、それとも携帯の傍にいないのだろうか。
お願い、出て……雪くん!
祈るような気持ちで美雨がぎゅっと目を瞑った時、「はい」と暖かな声が聞こえた。
美雨の記憶の中の雪都はまだ幼いままで、変声前の高い声で喋る。だけど今、美雨の耳に染みる声は大人の男のそれで、だけど懐かしかった。泣きたいほど大好きな声だった。
「もしもし?」
美雨は雪都の携帯番号を教えてもらったけれど、美雨は雪都に自分の番号を教えていない。一度だけこの携帯で雪都の携帯にかけたことがあるにはあるが、その時の番号を登録していなければ雪都の携帯のメモリーには美雨の番号が登録されていないだろう。だとすると、知らない番号からの電話によく出てくれたものだ。
もしもし、もしもしと繰り返す声を聞きながら美雨は、震える小さな声で永沢くんと、大好きな男の子を呼んだ。電話の向こうで、息をのむ気配がした。




