95 紫陽花の傘
ドアが開いて、入って来た客にいらっしゃいませと頭をさげようとした希羅梨は、お辞儀の途中で動きを止めて微笑んだ。和馬が、「よっ!」と片手をあげる。
「阿部くん、濡れてるよ」
そう言いながら希羅梨は、カウンターの下に置いてあった自分の私物の布袋からハンドタオルを取り出して、レジ越しに和馬に渡した。和馬は「悪ぃな」と受け取ると、まくり上げた袖から出ている腕を拭く。
「髪、拭かなきゃ。風邪ひいちゃうよ」
「おう。家を出た時はたいして降ってなかったから傘持って来なかったら、強くなってきちまってさ。傘あるか、ビニール傘」
「あー、今ちょうど売り切れちゃってるんだよ。もう入荷するはずなんだけど、トラックが遅れてるみたい」
「そっか、じゃあいいか」
「よくないよ、ちょっと待っててくれたら来る筈だから、立ち読みでもしててよ」
「店員が立ち読みを勧めるなよ」
そっか、私って店員だったと舌を出す希羅梨に、和馬も笑う。
いつもは眉間に皺を寄せて恐そうに見える和馬だけど、笑顔がとても優しいことを希羅梨はもちろん知っている。表向きは希羅梨の彼氏ということになっている雪都も不機嫌そうな顔をしていることが多いが、ふっと笑った顔はとても柔らかくて優しい。いつも不機嫌そうな顔をしている人は、実はみんな優しい人なのではないだろうかと希羅梨は思う。もっとも実例はまだ二人だけなので、希羅梨のこの仮説の信憑性は残念ながら低いのだけれど。
希羅梨がバイトしているこのコンビニは沢浪駅のすぐ傍で学校からは近いのだけれど、希羅梨や和馬が住んでいる夕日町までは歩いて帰るのは厳しい距離で、バスを利用するか、あるいは自転車だ。
和馬はどうせ自転車で来たのだろうから、傘をささずに帰れば風邪をひいてしまいそうだ。
午前中は降ったり止んだりだった雨足は、昼を回った頃にはまだ小雨だったのに、それが時間が経つにつれて徐々に強くなっていた。受験生なんだから無茶したらダメだよと希羅梨が言うと、でもなぁと和馬は頭を掻いた。
「親父も和香も出かけちまってるから、美和が一人で留守番してんだよ。早く帰ってやらねえと、あいつは寂しがりだからよ」
やはり優しい、そう思う。
優しいからなんて理由で好きになった訳ではないけど。
ちょっと待っててと言うと、希羅梨はカウンターの横にある扉から店の裏に入った。
朝、来る時に使った傘を更衣室に広げて干してある。乾いていたらいいのだけれど思いながら更衣室に入り、畳一畳分ほどしかない狭い空間をほぼ占領していた傘を手に取ってみると、まだほんのりと湿ってはいるがあらかた乾いている。これなら置き傘だと嘘をついても大丈夫だろうかと希羅梨は、それをくるくるときれいに巻いた。
傘と言えば、雨。雨と言えば、梅雨。梅雨と言えば、六月。六月と言えば、紫陽花などという単純な連想で買った希羅梨の傘は、白地に青紫の紫陽花が一面に描かれている。男の子がさすにはちょっと恥ずかしいかなと思い、だけど和馬ならそんなことは気にしなさそうだとも思った。
希羅梨の予想通り、これ使ってよと希羅梨が差し出した傘を和馬は、お前が困るだろうと一度は拒んだが、もう一本持ってるからと言ったらあっさりと受け取った。派手な紫陽花柄には気づいてもいないようだった。
「たく、創太がつまんねえことで呼び出しやがるから」
「そうなんだ?」
「雪都も来てたぞ、晴音と買物して帰るつってた」
「へえ、相変らずあの兄妹は仲がいいね」
「あいつ、よく面倒みるよな」
「妹だもん、可愛いんだよ。阿部くんだって、美和ちゃんや和香ちゃんは可愛いでしょう?」
「まあな、妹だからな」
希羅梨にも兄がいた、希羅梨を手中の玉のように大切に慈しんでくれた兄がいた。もう天に召されてしまったけれど、大好きな兄だった。
兄を交通事故で亡くした時、希羅梨は生きる意味を見失った。一切の食事を拒絶して、兄のあとを追おうと思った。
「自転車で帰るなら、車に気をつけてよ。傘さして走ったら、危ないんだから」
「わぁってるって」
希羅梨を死の甘い誘惑から掬い上げたのは、彼の一言だった。衰弱して運び込まれた小さな病院で、『ヒゲダルマ先生』というあだ名がぴったりの豪快な医者の息子である同い年の少年は、とてつもなく当たり前のことをごく当たり前に言い放って希羅梨を救った。
恋が、希羅梨の新しい生きる意味になった。
「阿部くん、美和ちゃんに今度、一緒にお菓子作ろうって言っといて。スコーン、美味しく作るコツを発見したって」
「おー」
来た時と同じように和馬は、軽く手をあげて見せてから店を出て行った。ポスターをベタベタとはったガラス越しに、ポンッと希羅梨の紫陽花の傘が咲いたのがかすかに見えた。




