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92 憧れに会いに行く


 憧れのデザイナーに会える運命のその日は、生憎と朝から雨だった。小雨のそぼ降る中、昼を少し過ぎた頃に田之倉家の車が静かにセスナを迎えに来た。

 兄の柊也は、仕事で不在だった。

 おかげで挨拶をしなくて済んだなどと思いながらセスナは、田之倉家の運転手が恭しく開けてくれたドアから黒い外車に乗り込んだ。


 嘘の上に嘘を積み重ねているセスナだが、だからと言って平気で嘘をついている訳ではない。出来ることなら嘘の挨拶なんてしたくない。しないで済むなら、それに越したことはないのだ。それは怜士も同じ思いらしく、柊也さんいないんだなと、ほっとしたように緊張していた顔を少しだけ緩めた。

 もし柊也が在宅だったなら怜士はセスナのデート相手として、セスナさんをお借りしますくらいのことは言わなくてはならなかったのだ。それを免れたのだからほっとして当たり前だろう。セスナは嘘をつき慣れているが、怜士はそうではないのだから。


 結局、和馬には電話できなかった。

 どんな風に説明しても怒らせてしまいそうで、どうしても話せなかったのだ。


 滑るように昼下がりの休日の街を走る車の中で、セスナはずっと窓の外を流れる景色を見ていた。これから憧れの人に会いに行くというのに、心が浮き立たない。柊也に嘘をついて、和馬に黙って、怜士に頼って、そんなにまでして会いに行くべきだろうか?

 だけどもう車は走り出してしまった、戻ることの方が今となっては難しい。


 小堀町にある『polka dots』本店は、五階建てのビルだった。一階と二階が店舗になっていて、三階より上は事務所らしい。

 店に入って店員に声をかければ上まで案内してくれるからと、次の土曜日に行きたいと電話をした時に草一郎に言われた。午後からの方がありがたいとも言われたので、午後一時頃に行きますと答えた。


 午後一時少し前に田之倉家の車はセスナを『polka dots』本店まで送ってくれた。五時頃に迎えに来るが、それより早く帰りたい時には電話しろと言い残して怜士は、近くの映画館で一人で映画を観るべく去って行った。

 その背中に深々と頭をさげてからセスナは、これから入っていくビルを見上げた。


 決して大きなビルではない、細身で高さも周りの建物に比べたら可愛いものだ。茶色い外壁は、煉瓦をイメージしたものなのだろう。三階以上の窓辺には全て花が飾られていて、それが今は雨に濡れている。近代的な建物なのにどこかヨーロッパの古いアパートを思わせるような佇まいだ。


 「ビルまで可愛い……」


 また兄に嘘をついてしまった、和馬に黙って来てしまった、怜士にまで迷惑をかけてしまった。そんなセスナの良心の呵責を、『polka dots』本店の服たちは、一歩店内に足を踏み込んだ途端に吹き飛ばしてしまった。

 本店なのだから当たり前だろうが、ショッピングモールに入っている支店とは規模が違う。一階フロアには目も眩むような可愛らしい服がこれでもかと並び、二階フロアには帽子や靴などの小物の他、少ないけれど文房具や玩具まである。

 約束の一時になるまでの僅かな時間を潰そうと商品を見だしたセスナだが、心の中で声にならない悲鳴をあげながら店内を走り回った。

 あれも可愛いこれも可愛い、どうしてこんなに可愛いのか。十分弱なんて時間は瞬く間に過ぎ、一時ちょうどに近くにいた店員に来意を告げるために声をかけた時にはセスナの息はあがっていた。少ない時間で店中を走り回ったのと、あまりに可愛い商品の数々にのぼせてしまったせいだが、だけどそのおかげでセスナは、臆せず店員に声をかけることができた。


 「すみません、飛鳥井セスナと申しますが」と、それだけ言っただけで店員の若いお姉さんはにこっりと笑って頷いてくれた。どうやらセスナが来ることはきちんと店員に伝わっていたらしい。

 どうぞと、水色のおしゃれな制服を着た店員はセスナを『STAFF ONLY』と書かれたドアから奥へ導き、そのつき当たりにあったエレベーター前まで案内してくれた。


 「五階までお上がりください、社長には連絡しておきますので」


 セスナがエレベーターに乗り込むと、店員は丁寧に頭をさげてセスナを送ってくれた。慌ててセスナもお辞儀を返すとするりとドアが閉まり、上昇がはじまる。

 エレベーターが上がるのに比例して、セスナの心拍数もあがる。ドキドキと口から飛び出しそうな心臓を宥めるために一度、セスナは大きく息を吸った。

 チンという軽い音と共にエレベーターは止まり、開いたドアから緊張で固まった足でぎくしゃくと降りるとすぐに見覚えのある男が廊下の向こうから走って来るのが見えた。


 中森草一郎。

 『polka dots』の社長であり、セスナのクラスメート、中森美雨の父親でもある。


 その草一郎が、セスナを出迎えるために走って来る。今日は焦茶のスーツだ。ともすればダサくなる色だろうに、彼が着たらどうしてこんなにスマートに見えるのか。


 来たな、と草一郎は人懐っこい顔で笑った。最初に会った時には客に対する丁重な態度だったのが、今ではすっかり砕けている。元から気さくな人なのだろう、そのあたりのことを娘である美雨に聞いてくればよかったと後悔しながらもセスナはぎこちなく笑った。


 「草一郎殿、忙しいのに申し訳ない」

 「草一郎殿か!いいな、それ。侍か何かになった気がする」

 「ほ、他の呼び方をした方が良いのだろうか。な、中森社長とか?」

 「いやいや、是非、草一郎殿で!ちなみにうちの奥さんは、栄殿な」


 栄殿と、口の中で繰り返したセスナに笑いながら頷いて見せて、草一郎は「こっち」と先に立って歩き出した。外観はヨーロッパの古いアパートのようだが、中はごく普通の事務所だった。リノリウムの床に靴音が響く。


 「飛鳥井サン、娘に誕生日プレゼントくれてたね。ありがとう」

 「あ、いや、そんな、たいした物でなくて申し訳ない」

 「たいしたモンだろ、きれいな櫛だった」

 「ご覧になられたのか?」

 「ご覧になられました」


 セスナの言葉尻を捕らえておどけて笑う草一郎に、セスナは何だか気恥ずかしくなってうつむいた。

 セスナのこの武士か何かのような大仰な喋り方は、姉と共に飛鳥井家に入った頃に、丁寧な言葉を使わなければと緊張し過ぎたあまりにかえって変な喋り方になってしまったのがそのまま定着してしまったものなのだが、その喋り方をからかわれているのはわかるのだけれど、少しも嫌な気がしない。それは草一郎に悪い気持ちが全然ないせいだろう。


 なんと素敵な父上なのだろう。


 毎日一緒に昼を食べている美雨の、はにかんだような笑顔が目に浮かぶ。こんな人が父親だとあんなに可愛らしい娘に育つのかと、セスナは一抹の寂しさを感じながら思った。セスナ自身は、父親の顔さえ知らないのだ。


 「ほい、ここだよ。栄、いらしたよ」


 専務室と書かれたドアをノックもなしにいきなり開けて、草一郎は中に向ってそう言った。飛鳥井セスナさんだと、セスナを紹介してくれる。


 「あ、飛鳥井セスナです。よよよ、よろっしくお願いします」


 完璧に声が裏返ってしまった。しかも、どもった上に妙な抑揚までついてしまった……部屋に入ったと同時に下げた頭をおずおずと上げると、その人は口に手をあててくすくすと笑っていた。


 「中森栄です、こちらこそよろしくお願いします」


 美しい人だと、一目見てセスナは思った。長い黒髪を後ろで束ね、白いブラウスに淡いベージュのタイトスカートを合わせている。シンプルな服装なのにどこか洗練されていて、それがひどく恰好いい。

 しばし見惚れて、見惚れてしまったことにハッと気づいてセスナは再度、よろしくお願いしますと頭をさげた。


 「んじゃ、俺はちょっと出なきゃならんから、後は女同士でいちゃこいてくれ」

 「あら、いいんですか?後で焼き餅妬かないでくださいよ」


 どっちに妬くんだよと笑いながら草一郎は部屋を出て行った。交わす軽口さえ洗練されているようで、セスナはぼうっと草一郎が閉めて行った扉を見つめた。

 緑茶でいいかしらという声が聞こえて、セスナは慌てて振り向いた。栄が急須を片手に、大きなデスクの端に置いたのポットに手を伸ばしている。


 「あ、いや、そのっ、おかまいなく!」

 「お構いしたくても、ここには緑茶しかないのよ。コーヒーとかが良かったら、持って来させますけど?」

 「いえ、是非緑茶でっ!」


 力一杯叫んだら、やはり笑われた。栄はくすくすと笑いながら、セスナには綺麗な薄紅色の湯のみを茶托にのせてどうぞと出してくれて、自分用にはマグカップに並々と注いだ。


 「ごめんなさいね、応接室ならもう少しましな椅子があるのですけれど、飛鳥井さんはデザインに興味があるとお伺いしたので、私がいつもデザインをしているこの部屋に来ていただいたの」


 好きに見てくださいねと言いながら、栄は部屋の隅に立てかけてあったパイプ椅子を持って来てくれた。セスナは慌ててパイプ椅子を受け取ると自分で開いて、それにちょこんと座った。そして、いただきますと湯のみに手を伸ばす。


 「後で縫製室とかも見学していただいたらと思いますけど、その前に少しお話を聞かせていただいてもいいかしら?」

 「あ、はい!」

 「デザインに関係ないことで本当に申し訳ないんですけど、うちの娘、学校ではどんな風かしら?お友達とは仲良く出来ているのかしら」


 憧れの人に会えて、一体何を話せばいいのかと舞い上がっていたセスナは、この栄の言葉ですうっと落ち着くことが出来た。そうだ、この人はセスナの友人である中森美雨の母親なのだ。共通の話題があるではないか。


 抹茶入りなのか、鮮やかな若草色の緑茶をひと口飲んでカラカラだった喉を潤してから、セスナは話し出した。思うまま、感じるままに、セスナから見た美雨がいかに可愛くて優しいかということを、たどたどしいならがも一生懸命に栄に話して聞かせた。




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