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91 雨の土曜日


 土曜日の朝、何の連絡もなく突然にやって来た親友に、休日なのをいいことにダラダラと寝坊していたあゆみは目を丸くした。美雨はしょっちゅうあゆみの家に遊びに来ているが、だけど必ず事前に電話してから来るからだ。

 とにかく上がりなよと自分の部屋に美雨を連れて行き、つい数分前まで寝ていたベッドをさっと整える。母に呼ばれて起き抜けで玄関まで走ったからまだあゆみはパジャマ姿だったりする、とりあえず適当なシャツとジーパンをタンスから引き出した。


 「急に来ちゃって、ごめんね」

 「別にいいけどさ、どうかした?」


 ここ数日降ったり止んだりの雨は今日もまた降っていて、美雨が着ている薄ピンクのカットソーの肩口を濡らしていた。雨に濡れた部分だけ色が濃い。


 「えっと……あ、お弁当箱!可愛かった、ありがとう」

 「何かあったでしょ?」


 美雨の目の前でさっさとパジャマを脱ぎ捨てて、シャツとジーパンに着替えながらあゆみは、ベッドを背に床に直接座り込んでいる美雨を見おろした。数日前にあげた誕生日プレゼントの礼を言うためだけにわざわざ家まで来る筈はない、何かあったのだろう。


 「もしかして誕生日の日、お父さんとお母さんが帰って来なかったとか?」


 思い返してみたらここ最近、美雨は少し元気がなかったような気がする。それは誕生日の翌日あたりからではなかっただろうか?

 美雨の両親が人気子供服ブランドを経営していて、ほとんど家に帰る暇もないほどに多忙だということは、美雨とはもう三年目のつき合いになるあゆみは当然知っている。ほぼ一人暮らし状態の美雨がいつも寂しいと思っていることも。


 でも、誕生日には必ず帰って来てくれるんだよ。

 そんなことが嬉しいなんて、子供っぽいかなぁ?


 照れくさそうにそんなことを美雨が言っていたのは、いつだったろうか。

 どちらかというと内気な性格の美雨は、あまり自分の気持ちを言葉にしようとしない。ご両親に寂しいって言いなよと、あゆみは何度か言ってみたけれど、仕事なんだから仕方ないよと笑うだけだ。


 「美雨、もしかして誕生日、一人だったの?だったらどうして電話しないのよ、すぐに走って行ったのに」

 「ううん、違うよ。お父さんもお母さんもちゃんと帰って来てくれたよ。一緒にご飯食べて、ケーキも食べた。今年のプレゼントはね、茶色いワンピースだったんだよ。すっごく可愛いの」

 「じゃあ、他に何があったの?」

 「別に何もないよ?」

 「嘘ついてもダメ、美雨は顔に出るんだから」

 「ホントに何もないって、ただ……」

 「ただ?」

 「ね、あゆみちゃん。小学校の頃のことって、よく覚えてる?」

 「は?」

 「私ね、あまり覚えてないんだ。もちろん、全然覚えてない訳じゃないよ?でもね、あんまり覚えてないの。中学のことならちゃんと覚えてるんだけどね、皆そんなものなのかなぁと思って」


 思いがけないことを唐突に問われて、あゆみは「小学校?」と首を傾げた。あゆみの小学校時代と言えば、あいも変わらず幼馴染の清太郎と過した記憶ばかりだ。毎日、ランドセルを放り出して清太郎と一緒に遊んだことが思い出される。


 「そうだなぁ、遊んでた時のことばっか覚えてるかな」

 「やっぱりそう?人の記憶って、そんなものなのかな」

 「そうなんじゃない?勉強したとかはあまり覚えてない、楽しかったことばっか覚えてるもんじゃないの?」

 「そっか、そうだよね」


 ほっとしたように、美雨は笑った。美雨も、雪都と遊んだことならしっかりと覚えているのだ。


 「そうだよね、そんなものだよね。よかった、それがちょっと気になってたの」

 「そうなの?妙なことが気になってたんだね」

 「妙かな?」

 「妙だよ」


 妙かぁと、言いながら笑う美雨を、あゆみはしばらく眺めていた。「あゆみちゃん、寝癖ついてるよ」と美雨があゆみの頭に手を伸ばす。


 「そうだ、美雨!ね、コーヒー飲みに行かない?」

 「コーヒー?」

 「そう、昨日清太郎が教えてくれたんだけどね、中瀬町に『cafe marron』て喫茶店があるんだけど、そこがなんと阿久津先生のお気に入りのお店らしいんだ」

 「え……中瀬町ってここより一つ先の駅だよね?小椿くん、どうしてそんなことを知ってるの?」

 「配達に行くのよ。その店の隣がショットバーで、あいつんちに注文が来るらしくてさ。いつもは親父さんがトラックで届けてるんだけど、量が少ない時にはあいつが自転車で行くんだって。それでね、阿久津先生に会ったんだってさ。そこね、来栖先生とか矢田部先生とかも来るらしいよ。中瀬町に住んでる先生、多いみたいだね」

 「へぇ……」

 「ね、行こうよ!私、朝ご飯まだだからモーニング食べたい」

 「う、うん?」

 「コーヒー専門店で、コーヒーがすごく美味いって有名な店なんだって。ね、行こう?もしかしてもしかしたら、阿久津先生に会えちゃうかもよー」

 「で、でも、もしホントに会えちゃったら何て言えばいいの?」

 「別に何でもいいんじゃない?こんにちはーとか、偶然ですねーとか、コーヒー飲みに来たんですかーとか」

 「そ、そうかな?」

 「そうだよ、普通の喫茶店なんだから会ってもおかしくないじゃない」

 「そ、そうだよね」

 「土曜日だし、会える可能性大だって。阿久津先生、一人暮らしだからモーニング食べに来るかもよ」

 「そ、そう?」

 「ほら、立って!行くよ」


 あー、それならもっと可愛い服着て来るんだったのにとか言い出した美雨にあゆみは吹き出した。来た時には確かに何か思いつめているような顔をしていたのに、阿久津に会えるかもしれないと聞いた途端に顔を赤らめて服のことなんて気にしている美雨が可愛い。


 「美雨って、本当に阿久津先生が好きだよね」

 「う?」

 「誤魔化しても、ムダムダ」


 わざとからかってやると、美雨の顔はさらに赤くなる。ほんの少しだけ美雨が別の人、実は幼馴染だったと言う永沢雪都に心が動いたかと思ったけれど、それはやはり思い過ごしだったらしい。

 大体、彼には姫宮希羅梨という彼女がいる。そんな人を美雨が好きになる筈がないのだった。


 よし、行こうとあゆみが歩きだすと、寝癖を直しなよーと美雨が追いかけて来た。母親がいるであろうキッチンに向けて「ちょっと出かけて来る」と声をかけてからあゆみは、玄関に置いてある傘立てから自分の青い傘を引き抜いた。




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