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84 美味いコーヒーと上の空の彼女


 田之倉家の座敷で食後のコーヒーを飲みながら、怜士は密かに想いを寄せている少女、セスナをじっと見ていた。セスナは何やら物思いに耽っているようで、先ほどからぼんやりとコーヒーのカップを眺めているばかりで飲もうとしない。


 「何か、悩みでもあんのか?」


 前触れも何もなくいきなり静けさを破った怜士の問いかけに、セスナは驚いたように顔をあげた。大きな目を見開いて怜士を見る。


 「なんだ、突然何を言い出すのだ?」

 「いや、何か元気ねえからよ」

 「気のせいだ、馬鹿者」


 そう言うと、またカップに視線を落してしまうセスナを怜士はただ見ていた。


 怜士がセスナと初めて会ったのは、セスナが里美に弟子入りした中学一年の時だ。最初の頃は怜士さんなどと、セスナはよそよそしく師匠の息子である怜士を呼んだものだが、同い年の気安さと怜士の気取らない態度のおかげで、五年の歳月がそのよそよそしさをすっかり払拭してくれた。


 気が許せる友達、セスナの中で今の怜士の位置付けはそんなところだろう。


 稽古の後で里美がセスナに夕食を勧めるのはいつものことだ。セスナは遠慮はするものの断るのも悪いと思っているのか、わりと素直に食卓に着く。そして最近では食事が終ると、何故かいつも母の里美は用事を思い出すのだ。

 家に居ないことが多いが、たまに一緒に食卓を囲むと兄の慧一も、食事が終ると必ず用事を思い出すことになっている。明らかに怜士とセスナを二人きりにしようという魂胆な訳だが、その心遣いは今のところ全て無駄になっていた。


 「受験、大変か?」

 「ああ……まあな」


 気のない返事、適当に相槌を打っているのが丸わかりだ。


 怜士は、ごくっとコーヒーを飲んだ。ごくごくと、もうすっかり冷めてしまった琥珀色の液体を喉に流し込む。

 慧一がバイト先で、従業員割引きで買って来るいい豆を挽いて丁寧に淹れるから、田之倉家のコーヒーは実に豊な香りだ。その美味しいコーヒーを、怜士は味わいもせずに水か何かのようにごくごくと飲み干した。小さな陶磁のカップは、すぐに空になる。


 「志望校は、明条大だったよな?」

 「いや、青蘭女子だ」

 「青蘭?」

 「ああ」


 怜士が通っている丸山台高校は、初等部から大学部までエスカレーター式で進める。外部受験をしない限り、どんなに成績が悪くても進学の苦労はない。

 怜士もセスナと同じ高三だが、勉強らしき勉強なんて全くしていない。サッカー部でちんたらとボールを蹴ったり、非常階段の踊り場で無駄話をするばかりの毎日なのだ。


 「なあ、セスナ」と怜士が名前を呼ぶと、セスナは「んー」と気のない返事を返す。それはセスナが、義理の兄である柊也の前で見せる顔とはまるで違っていて、そのよく言えば寛いでいる、悪く言えば気が抜けているセスナの顔を怜士は見つめた。


 「……」


 好きだと思ったのは、一目見た瞬間だった。今度から稽古に通わせていただきますとセスナが挨拶に来たその場で、怜士はあっけなく恋に落ちた。


 絵に描いたような一目惚れ、しかも初恋だった。


 出会ってからのこの五年、本当にずっと好きだった。なのに告白しなかったのには、そんなたいした理由がある訳ではない。母の里美はもうセスナを怜士の嫁と決めつけているようなところがあって、そのせいで怜士は脳天気にも時が熟した頃に飛鳥井家に申し込めば、何の問題もなくセスナは怜士の元に嫁いで来るものだと思い込んでいたのだ。

 別に怜士がどうこうしなくてもセスナはいつか自分のものになる、そう思っていた。華道の家元に生まれた、世間の荒波なんて見た事も聞いた事もない世間知らずのお坊ちゃまは、欲しいものは待っていれば何でも向うからどうぞどうぞとやって来るものだと思っていたのだ。


 だけど、セスナには恋人がいるらしい。

 怜士にしてみれば、正に青天の霹靂だった。


 「あー、セスナ?」

 「んー?」

 「受験勉強もいいが、たまには息抜きした方がいいぞ。今度の土曜日あたり、映画とかどうだ?」

 「あー?」

 「飛鳥井には俺から……じゃなくて、お袋から言ってもらうから大丈夫だぞ」


 自慢ではないけれど、デートに誘うのでさえこれが初めてのことだ。五年も好きだった癖に呑気なのにも程があるだろう。


 「……土曜?」

 「そうだ、何なら日曜でもいいぞ」


 ぐっと拳を握って、怜士は思わず身を前に乗り出した。力いっぱい誘っている訳だが生憎とセスナは怜士をちらりとも見ない。


 「そうか、土曜日か」

 「何か観たい映画があんのか?何でもいいぞ、セスナが好きなので」


 この時、セスナの中で閃いたものがあった。憧れのデザイナーと会えることになっている、だけどセスナはその時間を作る口実が思いつけないでいたのだ。

 学校帰りなら部活で遅くなったという言い訳が使える。だけどセスナは、放課後の数時間ではなくて、もっとゆっくりと時間のある時に行きたかったのだ。


 『polka dots』の本店がある小堀町というのは、この辺りでは一番の繁華街で、沢浪駅から快速に乗っても三十分はかかる。つまり、行って帰るだけでも一時間はかかる訳だから、やはり放課後では足りない。

 せっかくなのだから、是非とも休日に行きたい。だけど、休日に外出する言い訳がセスナは思いつけなかったのだ。


 友人と買物に行くとか遊びに行くとかの、高校生なら誰でも普通にすることを柊也はセスナに許さない。身のまわりの必要な物は家政婦が適当に買って来るし、普段着の着物は呉服屋が屋敷に来る。

 屋敷では着物、学校では制服だからあまり必要ないのだが、洋服や靴などの、家政婦では選べないような物は柊也が買いに連れて行ってくれる。

 兄さまのお手を煩わせることはないとセスナは恐縮するのだが、柊也はたまに休みが取れるとセスナを車の助手席の乗せ、デパートに連れて行く。そして、セスナがもういいと言うほど何でも買い与えるのだ。


 もの凄い過保護と言えるだろう、息がつまるほどの。柊也にしてみれば、妻に頼まれたセスナを大切に守っているだけなのだが、それにしても過保護が過ぎる。セスナが一人で外出できるのは学校と、この田之倉家だけなのだった。


 「土曜日か、そうか土曜……」


 だからセスナは、休日はほとんど屋敷から出ることなく過す。例外は、たまに柊也と買物に行く他には田之倉の展示会などの手伝いを頼まれた時くらいで。


 確かに、里美から頼んでもらえば何の問題もなくセスナは外出できるだろう。前に展示会の受付を手伝った時にも、迎えには来られたけれど出るには出られた。怜士と映画に行くなんて用件でも、里美ならきっと上手く言って許可を取ってくれる。


 セスナが慕っている師匠は稽古のたびごとに、もっと若者らしく遊びなさいとセスナに説教をする。セスナが生ける花はこじんまりとまとまっていて、若々しい奔放さがないと言うのだ。もっと遊んで、経験値をあげなさいと里美は言う。そんな里美なのだから、きっと協力してくれるだろう。


 「怜士……あのな、私はその……」

 「あ?」


 それまで、何を聞いてもぼんやりと答えていたセスナが、さっと背筋を伸ばして座り直した。セスナの大きな目が、怜士に向けられる。

 

 「あのな、怜士。私は、映画ではなくだな」


 卓に肘をついて、だらしなく座ってた怜士もセスナに倣ってきちんと座り直した。セスナが怜士を見ている、真っ直ぐに見ている。


 「怜士、頼みがある。実は、行きたい所があるんだ」


 説明をはじめたセスナに何度も頷きながら、怜士は真剣にセスナの話を聞いた。

 セスナのためなら何でもする、セスナの頼みごとなら何でも聞く。

 怜士は、力強く何度も頷いた。俺に任せておけと、何度も何度も頷いた。




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