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83 小さな灯火


 ケーキショップ『黒猫』の閉店時間は一応、午後八時ということになっている。一応と言うのは、適当な店主とその妻が商っている店なので、八時を待たずに早々にシャッターを下ろしてしまう日もあれば、ずるずると遅くまで開いていることもあるからだ。

 店の奥に置いてあるテーブルで、お茶を飲みながら時間を忘れて話し込んでいる客がいても、閉店時間ですからお引取りくださいなんて言うことはない。客の話が途切れるまで、のんびりと何時間でも待っていたりする。

 全ては適当、寛容で呑気な店なのだ。


 ケーキ屋に似つかわしくない作務衣姿の英介が、今日はもうお終いにしましょうかねぇとのんびりと言ったのは、閉店時間の八時まではまだ少しある、七時半を過ぎたばかりの時間だった。

 陳列ケースにはまだケーキが残っているし、何かこれと言った用事がある訳でもない。早仕舞いする理由なんて全くないのに朔夜は英介の言葉にそうするかとあっさり頷いて、シャッターを閉めに店の外に出た。

 まだ夜の色は浅く、湿った空気が朔夜の肌を撫ぜる。雨が降りそうだなと、朔夜は星の見えない空を見上げた。


 「……」


 背後に人の気配を感じて、朔夜は空に向けていた視線を動かした。歩道の真ん中に突っ立って、朔夜を見つめていたのは美玲だった。同じ実業団で同じコーチに就き、何年も一緒に走って来た後輩だ。


 「美玲、どうかしたのか?」


 いきなり「どうかしたのか」と朔夜が訊いたのは、美玲の頬が濡れていたせいだった。細めた目からポロポロと、大粒の涙が零れている。


 「いい歳して、何を子供のように泣いておる」


 いい歳と言っても、美玲はまだ二十四になったばかりだ。童顔の上にひどく華奢なせいで実際の歳より若く見られることが多いが、二十四歳。選手を引退して、コーチになるには早過ぎる歳だ。


 「とにかく、中に入れ。好きなケーキを食って良いぞ、売れ残りで悪いがな」


 そう言って笑うと朔夜は、自動ドアの前に立ってドアを開けてから、美玲に手招きをして見せた。美玲はグズグズと鼻を鳴らしながら、朔夜が開けてくれたドアをくぐって店に入った。


 朔夜が美玲の背中を押して店の奥まで連れて行き、肩を押して椅子に座らせるとすぐに英介が銀色の四角い大きなトレイいっぱいにケーキをのせて持って来た。残っていたケーキを全部のせたという感じだ。皿とフォークも一緒に持って来たということは、どうやら即席のケーキバイキングらしい。好きなのを好きなだけ食え、ということだ。


 「飲み物は、何がいいっスかねぇ?」

 「美玲は確か、コーヒーが苦手だったか。紅茶にしてくれ」

 「了解っス」


 くるりと踵を返して戻って行く英介に、美玲はガラガラにしゃがれた声で「すみません」と言った。ほとんど聞き取れなかったが。


 「で、何があった?また入院でもするのか」


 朔夜は、盲腸で入院していた美玲の代理でつい先日まで沢浪北高校陸上部の臨時コーチをしていたのだ。ほんの数週間のことだったけれど、陸上から離れて久しい朔夜にとっては、楽しくて切ない頼まれごとだった。


 膝を痛めてやむなく陸上を断念した朔夜とは違い、美玲はまだまだ現役で走れるにも関わらず去年、周り中の反対を押し切って実業団を辞めた。

 朔夜がケーキ屋を開きたいと言う英介と一緒にこの沢浪町に来たのと、美玲が沢浪北高校の陸上部のコーチになったのは全くの偶然だった。もっとも朔夜に先輩として、そして一人の人間として崇拝に近い憧れを抱いている美玲に言わせれば、これは偶然ではなくて運命なのだそうだけれど。


 ハンカチで鼻を押さえて美玲は、「永沢が」とだけ言った。それだけで朔夜には充分だった。


 「膝か?」

 「はい」

 「インターハイの予選は、棄権か」

 「……はい」


 臨時コーチを頼まれて出向いた沢浪北高校の陸上部で、朔夜の目がまず向いた選手が永沢雪都だった。薄茶色の髪で目立っていたからではなく、その伸びやかな走りに目を奪われた。

 気持ちよさそうに走ってやがると、もう全力で走ることは出来ない朔夜は思った。だけど、もう走ることが出来ない朔夜だからこそ、雪都の膝の異変にはすぐに気づいた。


 「朔夜先輩ならきっと、永沢のフォームの乱れに気づいて止めておられましたよね?私は、気づけませんでした。朔夜先輩から永沢の膝には注意しろと言われていたのに、私は……」


 私はコーチ失格ですと、続いた美玲の言葉に朔夜は眉根を寄せた。うつむいて、鼻をすすりあげている後輩の頭の天辺を眺める。

 ガラガラと、外からシャッターが下りる音が聞こえた。英介が、朔夜に代わって店仕舞いをしてくれているのだ。そうして店に誰も入って来ないようにしてから、ゆっくりと美味しい紅茶を淹れてくれるのだろう。


 「再起不能なのか?」

 「いえ、少なくとも三ヶ月は走るなと医者は言ったそうです」

 「まだ走れるな?」

 「はい。ですが、インターハイは……」


 もう走れないとわかった時、朔夜の目の前は真っ暗になった。今でも、その闇は続いている。

 けれど英介が、成り行きで結婚した幼馴染が走れない朔夜の傍には居てくれる。紗奈も元気も、寛平も居る。絶望の闇は深いが、足元くらいは見えている。


 「永沢は医者を志しておりまして、元から陸上は高校で止めるつもりでいたようです。ですから、膝が完治しても永沢はもう走らないと思います」

 「ほう、医者か。成る程な、奴には似合いの仕事かもしれんな」

 「……そうですか?」

 「何となくな、そんな気がする」


 朔夜は、トレイの端の方にあったケーキをひとつ取った。モンブランだ、英介の得意なケーキ。


 「ほれ美玲、お主も食え」


 そう言うと朔夜は、美玲の方にトレイを押した。好きなのを取れと言いつつ、自分は手掴みでモンブランにかぶりつく。


 朔夜は、走ることしか知らない。

 陸上が朔夜の全てだった。


 全てを失ってしまった後に堕ちた闇は深かったが、今もこうして生きている。

 生きて、ケーキなんて食べている。


 「なあに、陸上だけが全てじゃない。奴ならきっと良い医者になる」


 どんな深い闇の中でも、小さな灯火は消えない。

 必ず、足元を照らしてくれる。


 もう走れない朔夜でさえ足元は見えているのだから、医者になるという目標がある雪都なら真っ直ぐに越えて行くだろう。

 美玲が泣く必要も、己を責める必要もないのだ。


 ほんの三口ほどでモンブランを平らげて、朔夜が指についたマロンクリームをなめているところに英介がお待ちどうと紅茶を運んで来た。遅いぞと朔夜は、笑いながら幼馴染の夫に文句を投げつけた。



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