82 黒い心が囁く
自動ドアが開くのももどかしく希羅梨がスーパーに駆け込んだ時、ちょうど四時を知らせる放送が店内に響き渡った。四時からのタイムセール、卵88円、卵88円とスピーカーが怒鳴り始める。
希羅梨は慌てて卵売り場に直行したが、そこには既に人だかりが出来ていた。
駅の裏手にある大型ショッピングモールなんかとは違い、食品とちょっとした生活雑貨しか置いてないこの小さなスーパーでは一人一パックなんてケチくさいことは言わない。卵売り場に群がった主婦たちは、二パック、三パックと腕にかけた黄色い買物かごの中にドカドカと放り込んでいく。
これではすぐになくなってしまうと、希羅梨は人ごみに突っ込んだ。慣れた体捌きでひらりひらりと人の間をすり抜け、卵が見えたところで両腕を思いきり伸ばしてパックを掴む。両手に一パックずつ、計二パックの卵を無事にゲットして、希羅梨はよっしゃ!と小さくガッツポーズを決めた。
一パックは、希羅梨用。もう一パックは、いつも何かにつけて良くしてくれる春樹の家に届けるつもりだった。
希羅梨は今、伯父からの援助と僅かなバイト代、そして足りない分は兄の残してくれた貯金を少しずつ崩しながら生活しているのだ。兄は車の事故で亡くなったので受取人に希羅梨を指名してあった保険金を貰えたが、それは大学資金にするために手をつけていない。
希羅梨は、大学に行きたかった。
親に見放され、たった一人頼れる存在だった兄をも喪った身の上だけど、いいやこんな身の上だからこそ希羅梨はどうしても大学に行きたい。
薬学部に進んで、薬剤師の資格を取るつもりでいる。資格さえ持っていれば仕事に困ることはない筈だ、一人で生きて行くために薬剤師の資格は希羅梨をきっと助けてくれるだろうと思う。
「あれ、希羅梨ちゃん?」
他に買う物を手早くかごに入れてからレジに向うと、そこには白いパーカーに紺のミニスカートをはいた小学生くらいの女の子がいた。希羅梨に気づいて声をかけて来たのは和馬の双子の妹のうちの一人、美和だった。希羅梨と同じように黄色い買物かごを抱えて、レジ前に出来た長い列の最後尾に並んでいる。
「希羅梨ちゃんも卵買いに来たの?」
「そう、美和ちゃんも?」
「うん!お父さんもお兄ちゃんも卵、大好きだから、いくら買ってもすぐになくなっちゃうの」
「阿部くん、玉子焼きとか好きだよね」
「目玉焼きもスクランブルも好きなんだよ、オムレツも!」
「そっかぁ」
まるで主婦同士のような会話を交わして、希羅梨と美和はヘヘヘと笑い合った。
幼い頃に亡くなった母に代わって、美和はまだ小学五年生でありながら阿部家の家事全般をこなしている。だからこの生鮮食品が安いスーパーで、二人はよくかち合う。学校が終ってから買物に来るのだから、大体同じような時間になることが多いのだ。
「美和ちゃん、今日の晩ご飯は何にするの?」
「卵いっぱい買ったから、オムライスにしようかな」
「オムライスかぁ、いいなぁ」
「希羅梨ちゃんは、何にするの?」
「私は、コロッケ買っちゃった。揚げたてなの、おいしそうだったから」
「あー、コロッケおいしそうだったよね。私もちょっと迷ったんだぁ」
ざわざわと騒がしい店内に、希羅梨と美和の若い笑い声がきゃっきゃと弾ける。会計を待つ列はなかなか進まないが、そんなことは気にもならない。
「おじさんと和香ちゃんは、元気?」
「元気だよ。今、うちで一番元気がないのは、お兄ちゃんかな」
「阿部くん……元気、ないんだ?」
それは、希羅梨も気づいていたことだった。何かがどうかしたと言う訳ではないのだがここ最近、和馬は元気がないように見える。それは担任の女教師に食ってかかる時の勢いがいまひとつ弱いとか、その程度のことで、いつもいつも和馬を見ている希羅梨にしか気づけないような些細な変化だったけれど。
話しかければいつも通りに答えてくれるし、セスナと喧嘩しているという感じでもないので希羅梨はそれほど気にしてなかったのだが、美和も同じことを感じていたらしい。美和はお兄ちゃんっ子だから、希羅梨に負けず劣らず和馬の様子には敏感なのだろう。
「そうなの、セスナちゃんと喧嘩でもしたのかなぁ。希羅梨ちゃん、知らない?」
「喧嘩はしてないと思うよ、今日も普通に喋ってたから……あー、でも、飛鳥井さんもちょっと元気がなかったかも」
とは言っても、セスナが元気がないのはよくあることなのだ。あまり立ち入ったことは訊かないけれど、義理の兄の言葉や態度でセスナは激しく浮き沈みするらしい。養女というのは、難しい立場なのだろう。だから希羅梨は、セスナが沈んでいても気づかないふりをすることにしているのだ。
「やっぱり、セスナちゃんと喧嘩したの?」
「違うと思うけど……」
魔が差す、ということがある。ほんの一瞬の心の緩みに魔が入り込むことがある。そしてその時、確かに希羅梨の心に魔が差した。
和馬がセスナと喧嘩した、もしそれが本当ならもしかしてと、希羅梨は思ってしまった。ぱっと散った黒い染みが希羅梨の心を瞬く間に染め変えてしまったような錯覚に希羅梨は思わず胸を押さえた。
セスナが元気がないのはよくあることだが、和馬が沈んでいるのは珍しい。もしかしたら、二人の間に何か、目に見えない小さな亀裂が生じているのではないだろうか……。
希羅梨は胸を押さえた、心が黒く染まってしまうのを何とか押し留めなくてはならない。だけど染みは広がる、決して消えない染みだ。もしかしたら別れるんじゃないだろうか、その切欠が芽吹いたのではないだろうか。そんなことを考えてしまった、心が黒くなってしまう。
「……希羅梨ちゃん、どうかしたの?胸が苦しい?」
何でもないよと、心配そうに見あげている美和に笑って見せたけれど、だけどどうやっても誤魔化せない黒い心が希羅梨の中にある。
別れてしまえばいい、そう黒い心が囁いていた。




