75 嘘つき
和馬の家から飛鳥井の屋敷までは、バスに乗ってさらに二十分ほどかかる。沢浪北高校から和馬の家までが十分弱はかかるのだから、つまりセスナは毎日、三十分近くもバスに揺られて学校に通っているのだ。
柊也は車を使うようにと言うが、セスナは断った。中学まで通っていた白女ならともかく、公立の沢浪北高校に運転手つきのリムジンを乗りつける勇気はセスナにはなかったのだ。
セスナがバスを降りた時、あたりはすっかり暗くなっていた。今日は田之倉に行く日でもないのにこんなに遅くなってしまったことを何と言い訳したらいいのだろう。
学校帰りに寄り道することは、兄に固く禁じられている。だからたまに和馬と短いデートをする時には、部活動だと嘘をついて夕方には帰るようにしているのだ。しかし今日は、思わぬ出来事の連続で遅くなってしまった。
何と言い訳したらいいだろう、部活が長引いたで通るだろうか?
セスナは、兄がまだ帰って来ていないことを祈りながら走り出した。セスナの義兄である柊也は屋敷で仕事をするのを好むため、飛鳥井財閥の総裁という多忙な身でありながらも意外と屋敷にいることが多いのだ。
門から玄関までの二十メートルほどの小道に敷き詰められている玉砂利の上をなるべく音を立てないように歩き、引き戸も音を立てないようそっと引いてセスナは中に入った。玄関を入ってすぐのところにある使用人たちの控え室には必ず誰かがいるから、いくら音を殺してもセスナが帰って来たことは隠せはしないのだが。
案の定、セスナが靴を脱いであがった途端に使用人控え室の襖が開いた。もう何十年もこの屋敷に勤めているという古株の家政婦が、面倒臭そうに顔を出す。
「セスナお嬢様、柊也様がお待ちです。すぐにお部屋にいらしてください」
一応、使用人たちはセスナをお嬢様と呼ぶが、けれど使用人たちの声音には隠す気もないらしい侮蔑の色が濃く混じっている。所詮は養女、主人と崇める気はないらしい。
セスナは家政婦にありがとうとぎこちなく笑って礼を言った。けれど家政婦はそれには答えず、そのまま部屋の襖を閉めた。無視されるのはいつものことだ、セスナは気にしないことにしている。それよりも問題は義兄だ。
柊也の部屋は、屋敷の一番奥にある。四季折々の草木で美しく整えられている庭に面した広縁で膝をつき、セスナは閉じた障子に向って「ただいま戻りました」と深く頭をさげた。
もちろん、障子は閉まっているのだから頭なんてさげても柊也は見ていない。それでもセスナは、中から「入れ」と素っ気なく言われるまで決して頭をあげない。
「入れ」
「はい」
作法の教師に叩き込まれた通りにセスナは襖を開け、すべるように膝から部屋の中に入った。着物ではないから、制服のスカートではなんとなくやりづらい。
「随分と遅かったな」
「はい、部活動が長引きました」
「手芸部がどんな理由で長引くのだ?」
「秋の文化祭の出し物について、皆で話し合っておりました」
「まだ夏も来ぬというのに、もう秋の話か」
「手芸は、準備に時間がかかりますので」
嘘は、セスナの口をついて澱みなくするすると出て来る。最初は、大恩ある義兄を騙すことに耐え難いほどの苦痛を感じたが、だけどいつしかそれも慣れてしまった。和馬と過す時間を得るためなら、これぐらいのことは何でもない。
セスナは、同級生の彼がいることを誰にも知られないよう常に気を張っているのだ。和馬とつき合っていることを義兄に知られたらと思うと、それだけでセスナの背筋は凍る。和馬とのことを認めてもらえる可能性はないということをセスナはわかっていた。飛鳥井の娘として、それなりの家に嫁がせようと柊也が決めていることを知っているからだ。
「お前と一緒に食事を取ろうと待っていた、早く着替えて来い」
「はい」
もう一度、きっちりと頭をさげてからセスナは柊也の前を辞した。心臓はどきどきと早鐘を打っているが、そんなことは微塵も感じさせない優雅な所作だ。
セスナは、二階にある自分の部屋に入るとふうっと大きな溜息をついた。和馬と結婚したいとか、まだ高校生のセスナはそこまで考えている訳ではない。ただ漠然と、ずっと一緒にいたいと思っているだけだ。
窓際に置いた机の上にセスナは鞄を置いた。この中には、草一郎に貰った大切なパンフレットが入っている。早くじっくりと見たい、けれどそれは後回しだ。
和箪笥を開け、中から着物を出す。空色のものを選んだのは、この色を身につけていると亡くなった姉が傍にいてくれるような気がするからだ。
美空という、きれいな響きの名を持つ優しかった姉が。
手早く着物を身につけて、セスナは「よし」と両手を固く握った。
嘘つきの出陣だ。
柊也の前でぼろを出さないようセスナは、握った拳を天井に向けてぐっと突き上げて気合を入れた。




