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69 薄紅色に染まる


 『おひさま保育園』と文字が刻まれた門柱を見て美雨は、懐かしいと呟いた。

 卒園してから一度も訪れたことはない。家から近いのだけれど、駅に行くにも、小学校や中学校に通うにもこの前は通らない。

 だから本当に十年ぶりくらいに美雨は、このおひさま保育園を訪れたのだ。


 右手に持った黒い手帳を握りしめて美雨は、もう閉まってしまっている重い門扉に手をかけて、よいしょと少しだけ開けた。そして、その僅かな隙間からするりと中に入って走り出す。

 多分、砂場で遊んでるからと雪都は言っていた。雪都の代りに迎えに来たことを証明するためにと借りた雪都の生徒手帳を握りしめて美雨は、かつて幼い日々を過した園内を駆けて、迷わず園庭の方へと向う。雪都が言っていた通りに見覚えのあるピンクベージュの頭を砂場で見つけて美雨は、「晴音ちゃん!」と声を張り上げた。











 ケーキ屋で散々喋った後の帰り道で美雨は、具合の悪そうな人を見つけた。見通しのいい真っ直ぐな道のかなり前方で、壁にもたれかかっている人がいることに気づいた瞬間にはもう駆け出していた。

 それが誰なのかは、目立つ薄茶色の髪でわかる。永沢くんと、その名を呼んだ。彼は、すぐには振り向いてくれなかった。


 陸上部の練習で、膝を痛めたのだと彼は言った。平気そうな口調だったけれど、額には冷や汗が滲んでいた。すぐに病院に行きなよと言う美雨に、雪都は首を横に振った。これから晴音を迎えに行かなければならないからと雪都は、じゃあなと言って美雨に背を向け歩き出した。


 かなり痛いのだろうということは、歩き方を見ればわかった。ずっ、ずっと足を引きずって歩く雪都の後ろ姿をしばらく見ていた美雨は、放っておける訳ないじゃないと雪都を追った。

 「晴音ちゃんは、私が迎えに行くよ」と言うと、雪都は驚いた顔をした。もっとも表情のわかりにくい雪都だから、軽く目を瞠っただけだったけれど。


 「おひさま保育園でしょ?大丈夫、私が迎えに行くから永沢くんは病院に行って」

 「けど、お前」

 「いいから、家の鍵を貸してよ。永沢くんが帰って来るまで、私が責任もって晴音ちゃんを見てるから」


 おひさま保育園も、雪都の家も美雨にとってはお馴染みの場所だ。それに美雨は、晴音とも面識がある。

 図書館で会っただけだから本当に面識があるだけだが、あれからまだひと月ほどしか経ってないから晴音は美雨を覚えているだろう。もし忘れていても、思い出してくれるだろうと思う。ピンクベージュの髪の可愛い晴音を思い出して、子供好きな美雨はほわっとを頬の力を緩めた。


 「大丈夫、任せて。お昼にパンを買って来てくれたお礼だよ」

 「あれくらいで恩には着せないぞ」

 「いいの、すごく嬉しかったから。あのね、私が苺が好きって覚えててくれたでしょ?」


 美雨は、そう言って笑った。雪都の眉間の皺は、消えたままだった。


 「それに、パン代!まだ返してなかったよね、遅くなってごめんね」


 昼休みの後すぐに美雨は、希羅梨に返しておいてと頼んだのだが、何故か「中森さんから返してあげて」なんて、断られてしまった。確かに、パンを買って来てもらったのは美雨なのだから、美雨から雪都に直接ありがとうと返すのが筋だろう、だけどそれは美雨にとってはなかなか難しいことだった。

 前に、自転車で家まで送ってもらった時に感じた幼馴染に対する親近感は、どうしてか学校では全く感じられない。同じクラスなのに、最近では希羅梨のおかげで一緒に過すことが多いのに、そして何より幼馴染なのに、なのに何故か雪都を遠く感じる。

 ありがとうと、パン代を返すだけのことが難しい。タイミングがなかなか見つけられなくて、300円といえども借りっ放しのままで放課後に至ってしまった。


 美雨は、道端で立ったままで学生鞄を開けてごそごそと中を探り、根付の鈴をチャリチャリと鳴らしながら財布を取り出した。そして、これくらいは別にいいのにと言う雪都に小銭を押し付けてから、美雨は手を出した。

 怪訝そうな雪都に美雨は、「鍵!」と強めに言った。学校では遠く感じる雪都だが、二人きりになれば途端に幼馴染に戻るのが不思議だ。


 雪都は、しばらくじっと美雨を見おろしていたが、諦めたのかポケットを探って鍵を取り出し、目の前に突きつけられていた美雨の手のひらの上に乗せた。それから思いついたように、シャツの胸ポケットに入れてあった生徒手帳を引き抜いて、それも美雨に渡した。

 昨今では物騒だから、誰だかわからない者が突然に迎えに行っても保育園は子供を渡してくれないのだ。雪都の代理だという証明に持って行けと言われて美雨は、ナルホドと受け取った。


 「それと、携帯出せ」

 「え?」

 「持ってるだろ、出せ」


 出せと言われて美雨は、鞄につけている携帯ホルダーから中身を引っこ抜いた。雪都はそれをさっと取ると、ピピッと手早く何か操作する。


 「俺の番号、登録したから何かあったらかけろよ」


 ああ、そういうことかと納得して、美雨は自分の携帯を受け取った。この幼馴染はやっぱり機転が利く……そう思った瞬間、ボンッとあゆみに言われた言葉が蘇った。永沢くんが好きなんじゃないのと言われたのだった、早とちりもいいとこだけど。


 「……中森?」

 「あ、ん、えっと、わかった。何かあったら電話するから」


 辺りは、緩やかに暮れはじめていた。今日の夕焼けは、赤みが強い。薄紅色と薄紫が混ざり合う、不思議な色をしていた。

 薄紅色の淡い光を受けて美雨は、その色白な顔を薄紅色に染めていた。雪都はすっと目を細めてから、じゃあ頼むなと言って何故か目をそらした。










 「晴音ちゃぁーん!」


 精一杯の声を張り上げ、美雨は手を振りながら砂場に走った。小さな影がぴょこんと立ち上がるのが見えた。スモックを泥で汚した晴音は美雨を見て、ピンクベージュの頭を「はて?」と傾げた。


 「こんにちは、晴音ちゃん。私のこと、覚えてないかな?」


 やっと砂場に辿りついた美雨を指差し、晴音は一言 「なかもり」 と言った。『お兄ちゃんの彼女の』という接頭語がつかなかったのは、幸いだったのかどうかはわからないが。


 「わぁ、覚えててくれたんだ。晴音ちゃんのお兄ちゃんと同じクラスの、中森美雨と言います」

 「みゅう?」

 「み、う、だよ」

 「みゅうちゃん!」

 「……うん、みゅうちゃんでいいよ」


 いつだったかあゆみが、美雨という名前は可愛いけど微妙に発音しづらいよねと言っていたことがある。高校生のあゆみが発音しづらいと言うくらいなのだから、幼い晴音には尚更だろう。


 「あのね、お兄ちゃんはちょっと足が痛くなっちゃってね、病院に行ったから私が代りにお迎えに来たんだよ」


 美雨がそう言うと、それに対して答えたのは晴音ではなかった。失礼ですがと立ち上がった小山に、美雨はひっと引きつった声をあげた。

 健は最初から晴音の傍らに座っていたのだが、あまりに静かな雰囲気なので見えていたのに気づかなかったらしい。というよりも、美雨の目には可愛い晴音の姿しか入ってなかったということだろうか。


 「園長の八木と言います。失礼ですが、父兄以外の方に園児をお渡しすることは出来ないのですが」


 雪都の言った通りだったと思いながら、美雨は雪都から預かった生徒手帳を差し出した。黒いビニールのカバーには、沢浪北高校と白文字で書かれている。その手帳を開いて、健はそれが晴音の兄のものであることを確認したが、生徒手帳くらいで信用して大切な園児を渡していいものだろうかと考えているようだった。


 「少しお待ちくださいますか?今、ご父兄の方に連絡を取ってみますので」


 そう言われて美雨は、はっと気づいた。何かあったら電話しろと、携帯の番号を教えてもらったではないか。

 これを使ってくださいと、美雨は自分の携帯を出した。住所録を呼び出すと『永沢』と、素っ気なく苗字だけで登録してあるのがすぐに見つかる。


 健が美雨の携帯を使って雪都と連絡を取っている間に、晴音は美雨の傍に寄ってきて、こぼれそうな大きな目で美雨を見あげた。美雨が手を差し出すと、物怖じせずに両手で握って来る。

 その小さな手が可愛くて可愛くて、美雨はとろけそうな笑顔でよろしくねと言った。




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