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68 反則


 道端でよろりとよろけた雪都は、そのままどこかの家のブロック塀に肩をついた。額に冷や汗が滲んでいる。雪都はぐっと拳を握って、くそっと塀をぶっ叩いた。


 違和感は、練習を始めてすぐに感じた。ぐっと踏み込んだ時に、膝が逃げるような嫌な感覚だ。それでも雪都は、大丈夫だろうと走り続けた。今日も晴音を迎えに行かなければならない、練習できる時間は他の部員たちより確実に短い。


 焦っていたことは認める、膝がおかしいことに気づいていたのにがむしゃらに走り込んだことも認める。


 受験、インターハイ、そして妹の世話。

 時間が足りない、どうしようもなく時間が足りてないのだ。


 このところ雪都は、毎日明け方まで勉強していた。空が白みはじめてからベッドに入り、ほんの数時間だけ寝てから学校へ行く。

 睡眠不足は、休み時間に爆睡してるからいくらか解消されている筈だ。だから大丈夫だろうと、部活も休まず参加している。丈夫なだけが取り得だ、なんとかなると思った。実際になんとかなって来た。


 「くそ……」


 思わず雪都の口から呟きが漏れる。


 膝が熱かった、ズボンの中で倍ほどにも腫れあがっているような気がする。ズクズクと、鈍い痛みが這い上がって来る。

 やっちまったと、雪都はぎりっと歯を食いしばった。ブロック塀にもたれかかったまま動けない。歩くためには膝に力を入れなければならない、それが恐い。


 もしも、あの浅黒い肌をした臨時コーチがいたら止められていただろうか?やたらと膝に気をつけろと注意すると思ったら、自分も膝を壊して陸上を断念したのだと笑いながら言っていた。梶原朔夜とかいう、あのコーチならもしかしたらこんなになる前に止めてくれただろうか。

 だけど、盲腸の手術をして、自宅療養を終えた正規のコーチが先週から復帰している。母親が中国人という林美玲(はやしみれい)コーチは、小柄でまるで子供のように見えるが、陸上の知識は驚くほどに豊富だ。けれど、美玲の先輩だという朔夜のように、膝の不調から来る僅かなフォームの乱れまでは見抜けないようだ。


 コーチに止められないのをいいことに、雪都は走り込んだ。

 タイムが落ちていた。去年、インターハイに出場を決めた時の自己タイムにさえ及ばなかった。


 焦っていたことは認める。

 受験、インターハイ、妹の世話。


 やらなけれならないことが山ほどあって、焦っていたことは潔く認める。

 だけど、さすがにこれはないんじゃないだろうか?


 膝が熱い、燃えているようだ。

 早く晴音を迎えに行かなければならないのに、歩き出すのが恐い。


 もう一度、雪都は壁を殴った。今度は、先ほどのよりかなり弱い一撃だ。

 悔しかった。中学から陸上を始めて、今年で六年目。医者を目差すなら、大学では走れないだろうと思う。だとしたら、これが最後だ。六年間走り続けて来た、これが最後の年だったのに。


 悔しい、悔しい、悔しい。


 インターハイの予選会はもう目前だ。膝がこの状態では、棄権するしかない。

 わかってる、そんなことは誰に言われなくてもわかっている。


 両側に住宅が並んだ、狭い道。さっきから車も人も通らない。誰も見てないからという訳ではないが、雪都の肩は震えた。五月に入ってからは、重苦しい上着は着ていない。白いシャツの背中が小刻みに揺れる。


 涙が、出そうになる。悔し涙だ、それを堪える。

 この程度のことで泣くなんて、男として許せない。絶対に許せない。


 雪都は、塀に手のひらをついて、ぐぐっと寄りかかっていた体を起こした。晴音が待っている、迎えに行ってやらなければならない。


 膝に来るであろう衝撃を覚悟して、雪都がそろりと一歩目を踏み出した時、後方から永沢くんと、雪都を呼ぶ声が聞こえた。遠い声だったけれど、それが誰の声であるかは雪都にはすぐにわかる。


 わからない筈がない、幼馴染の声だ。

 夕方の、少し湿り気のある大気にすっと染み渡るような澄んだ声。


 「永沢くん、どうかした?」


 焦った声、ぱたぱたと駆け寄って来る足音。


 なんだよ……せっかく今、歩き出すところだったのに、力が抜けるだろうが。


 雪都は、振り返る前にぱちぱちと目を瞬かせた。泣いてなくてよかったなんて、妙なところが妙に嬉しい。


 「永沢くん、具合が悪いの?」


 膝に力を込め、立つ。大丈夫だ、立てる。これなら歩ける。


 「永沢くん?」


 美雨の足音が近づいて来る、雪都は振り向いた。

 振り向いて、雪都は思わず吹き出しそうになった。言うならば、必死の形相といったところだろうか。一生懸命にこちらに向って走って来る美雨の顔はかなり不細工で、これがなかなかに見物だった。


 なんでお前がそんなに青冷めてんだよと、雪都は苦笑いした。なんでよりによってこんな時に出て来んだよと、そう思った。


 これはさすがに反則だろと小さく呟いて雪都は、全力疾走しているのだろうがやたらとヨタヨタしてなかなか進まない幼馴染が自分のところまで辿り着くのを、大笑いしたいのを必死で我慢しながら待った。




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