65 人は空を飛べないから
「こんなとこで寝てたら焦げちゃうよ」
上から声をかけると、雪都は顔の上に広げて乗せていた英語の教科書を少しずらした。目だけ出した雪都に希羅梨はにっこりと笑いかける。
「寝転んだら熱いでしょ、よく寝られるよね」
「夏じゃないんだから、まだそんなに熱くない」
「そう?」
希羅梨は手摺を背に、寝転んでいる雪都から少しだけ間を開けて座り込んだ。コンクリートの床を手のひらでぺたぺたと触っってみるが、確かにそれほど熱くない。
雪都がのっそりと起き上がった、ちょっと寝ぼけた顔をしている。床はそれほど熱くないけれど、それでも陽射しを遮る物のない屋上は昼寝に適した場所だとは言い難い。
「他の連中は?」
「とっくに教室に戻っちゃったよ。私も戻ったんだけど、ほっとくと雪都くんが夕方まで寝ちゃいそうだなと思って、起こしに来たの」
「そりゃどーも」
「いえいえ、彼女ですから」
寝不足?と希羅梨が訊くと、まあなと雪都は答えた。見あげる空は青く、鮮やかに明るい。
「中森さんて、苺好きなんだ?」
雪都が枕にしていた英和辞典を取ってぱたぱたと砂を払った。顔に乗せていた教科書と重ねて、右手で抱える。
「パン代、いくらだったか訊いて来てって、中森さんが」
「あー、俺のと一緒に買ったから、わかんねえな」
「いちごデニッシュが110円、苺クリームパンが100円、イチゴオーレが90円。合計300円、税込み。学校の購買って、ちょっとだけリーズナブルだよね」
「……知ってんなら、訊くなよ」
雪都が顔をしかめると、希羅梨はおかしくてつい笑ってしまった。少しだけあいた二人の間を風が吹き抜けて行く。
「やっぱり私たち、別れた方がよくないですか?」
「お前がそうしたいならな」
出来る事なら希羅梨は、雪都との契約は卒業までの継続をお願いしたい。和馬と同じクラスなうちは、雪都の彼女という肩書きを持っていたいのだ。
雪都の彼女だからこそ、和馬は希羅梨に気安く笑ってくれる。もしもまだ和馬が好きなんだということがばれたら、きっとあんな風には笑ってくれない。
せめていい友達で在りたい、どう頑張っても恋人にはなれないのだから。
生あくびを噛み殺しながら乱れた髪を手櫛で直している雪都を希羅梨は、やはりくすくすと笑いながら見ていた。
「いつでも契約解消って言っていいからね」
「何を今更なことを言ってんだよ、最初からそういう約束だろうが」
「時々は確認しとかなきゃ、契約書がある訳じゃないんだから」
「んなモンなくても、約束は破らねえよ」
「うん、わかってるよ」
希羅梨は、空を見上げた。晴れ渡った青い空をきれいだと思う、泣きたくなるほどきれいだと思う。
「中森さんて、可愛いね」
「……」
雪都は、ぎゅっと眉間に皺を寄せて顔をしかめた。希羅梨は、そんな雪都を見てくすくすと笑う。
「いやぁ、青春だなぁ」
「お前は何が言いたいんだよ」
「いえいえ、何でもございません」
希羅梨はそう言うと、すっと立ち上がった。そして、空に向って両腕を突上げる。
「うーん、いいお天気!」
もしもこの背に翼があれば、あのきれいな空を飛べるのに。あの天の高みまで昇って、青い色にとけるのに。
そうしたらきっと気持ちいいだろうと希羅梨は思う。とても幸せだろうと、そう思う。
「行こうよ、雪都くん。五時間目、始まっちゃうよ」
だけど翼はないから、悲しいことだけど、人は空を飛べないから。
「行こ?」
希羅梨は、足を踏み出した。ぐっと、コンクリートの床を踏みしめて。




