61 手をつないで
晴れ渡った五月の青い空を背に仁王立ちした寛治は、さながら太陽のように輝いていた。いや、背の低い保育園児から見上げたらちょうど寛治の毛のない頭がツヤツヤと、まるで太陽のように見えたということなのだが。
「いいかてめえら、隣の奴としっかり手をつないで、前と間をあけずについて来いよ。はぐれたら恐いことになっからな!」
眩しそうに自分たちの担任の先生を見上げていた五歳児ひまわり組の園児たちは引きつった顔で、「わかったか」という寛治の言葉にコクンコクンと一斉に頷いた、ただ二人を除いて。
列の最後尾から少し離れた場所で、白いシャツに紺の単パンという体操服姿にピンクの小さなリュックを背負った晴音は、キョロキョロと周りを見渡していた。
もちろん、寛治の話など聞いていない。
そして、そんな晴音を横目で睨んでいる園児が一人いた。この子も、他の子供たちは震え上がって聞いている寛治の怒鳴り声などてんで聞いてはいない。
赤茶けた髪につりあがった目を持つ男の子の名前は、戸田元気。
晴音と並ぶ、ひまわり組の問題児だ。
「よっしゃあ、行くぞ!ちゃっちゃかついて来いよ、野郎どもっ」
晴音と元気が列からはみ出しているのなんていつものことなので、寛治は気にせず歩きだした。今日のしんがりを務めているのは、寛治が尊敬してやまない大先輩だ。晴音のことは任してしまって問題ないだろう、それよりも他の子供たちを無事に遠足の目的地である近くの児童公園まで誘導することの方が大変だ。
ちなみに、五歳児ひまわり組担任の寛治はいつものきつねさんエプロンは外して、今日はひまわり組のクラスカラーである黄色のジャージを着ている。おひさま保育園では園児が自分の担任を見つけやすいように、園外活動の時には保育士は必ずそれぞれ担当クラスのクラスカラーのジャージを着る決まりになっているのだ。
「はーい、皆そろったかな、揃ったよね、揃ったハズ、揃ってなくても僕のせいじゃないしね。じゃ、行くよ」
四歳児さくら組のクラスカラーはピンク、ということは担任の千歳大志のジャージも当然ピンクだ。
男がピンクのジャージを着るというのは普通は抵抗があるだろうが、こと大志に関しては心配無用だ。自慢のさらさらヘアーを春風になびかせて、軽い足取りで颯爽と歩いて行く。
「えーっと、今日の出席は二十人だから、ひぃふぅみぃよぉ……こら、そこ!ちょろちょろしないで。えっと、だから、ひぃふぅみぃ……あー、動くなつっただろうがっ!」
三歳児ばら組のクラスカラーは、赤だ。担任の荒川万亀夫、通称マキマキは潔いほど似合っていない真っ赤なジャージの袖と裾をぐるぐるにたくしあげて、それでもだらだらと額から汗を流していた。
今日はいい天気で暖かいが、普通は汗がしたたり落ちるほどではない。爽やかな風がおひさま保育園の園庭を吹き抜けて行く。
「えっと、ひぃふぅみぃよぉ……」
「荒川先生、全員揃っております故、出発してください」
後方から聞こえた落ち着いた声に、マキマキは「え、そう?」と太い首を傾げたが、さくら組の最後尾が門の外へと消えて行くのを見て、慌てて歩き出した。
その後を、ばら組の園児たちがちょこちょことついて行く。
二人ずつ手をつないで、きちんと列を作って歩いているのは万亀夫の手腕ではない。三歳児クラスは手がかかるから、野外活動の時には助っ人が入るのだ。
今日の遠足でばら組の助っ人に入ったのは根津慶次郎という、目つきの鋭い初老の男だ。先代の園長をずっと補佐して来た保育士だが、先代が引退した時に一緒に現役を引退した後は、オブサーバー的な役割でこうして園の手助けをしている。
その根津がきっちりと、放っておけばバラバラに駆け出してしまう子供たちをまるで魔法か何かようによう見事にまとめあげていく。いつもならなかなか歩き出そうとしない三歳児がきびきびとした足取りで一直線に門へと向って歩いて行った。
「おや、君は確か永沢晴音君だったね。ひまわり組はとっくに行ってしまったのに、どうして君は行かないのかね?」
三歳児ばら組も出発してしまった後、園庭にぽつんと残ったのは晴音一人だった。二歳児以下の遠足はまた別の日に行くことになっているので教室にいるだろうが、園庭には一人も出ていない。根津はばら組をきちんと送り出し、自分も行こうとしてから晴音に気づいたのだ。
「晴音君?」
ひまわり組の問題児、永沢晴音のことは根津も耳にしていた。他の園児には一切馴染まず、お遊戯や合唱などの団体行動の時間は全てボイコット。自由遊びの時間も、他の園児と一緒に遊ぶことはないらしい。
八木園長にだけ懐いていて、八木園長にだけべったりだとか。園長たるもの、一人の園児を特別扱いするとはどういう事かと、先代園長の孫であり、根津にとっても子供の頃から知っていて孫同然の健を叱責したのはつい先日のことだ。
「晴音君、先生と一緒に行こう」
そう言って根津は、晴音に手を差し出した。けれど晴音はその手には見向きもせずに、園舎の方をじっと見ている。
「……晴音君?」
「タケちゃんは?」
園舎に向けていた目をいきなり根津に向け直して、子供らしい可愛い声で晴音は訊いた。根津は咄嗟に返事が出来ず、そんな晴音をまじまじと見おろした。
「タケちゃんは、一緒に行かないの?だったら、私も行かない」
そう言うと晴音は、園舎に向って走り出そうとする。根津は、慌てて晴音の腕を掴んで止めた。晴音の足は、真っ直ぐに園長室へと向けられていた。
「晴音君、君は八木園長が遠足に行かないなら自分も行かないのかね?」
「そうだよ」
当たり前じゃないとでも言うように、晴音はきょとんと根津を見た。保育園児にとって遠足とは、楽しみで楽しみでしかたない行事のひとつだろう。それなのに、この子はそんなものはどうでもいいらしい。
根津は、さてどうしようかと考えを巡らせた。この子が他の子と馴染まない理由は聞いている。髪だ、髪の色が違うからと敬遠されてしまうのだ。確かに、赤味がかった薄茶色という珍しい色をしている。
十年以上前に卒園して行った、晴音の兄も同じだった。その当時、根津は現役の保育士としてこの保育園で働いていたからよく覚えている。薄茶色の髪を持った男の子もまた今の晴音と同じように園の中で孤立していた。
確か名前は、永沢雪都くんだったか。
根津は、古い記憶を引きずり出した。いつも無表情で、笑うことがない子供だった。わざと自分から他を威嚇しているようなところがあったから、このままではこの子の将来が心配だと思った。
けれど、そんな根津の心配はすぐに杞憂となった。
あの女の子は確か、中森美雨くんだったかな。
保育士として働いた長い年月で、根津が受け持った子供の数は千人以上になる。けれど、その一人一人の名前を根津は、今でもしっかりと記憶しているのだ。
一人孤立していた雪都の傍らに、いつからか可愛らしい少女の姿が見えるようになった。相変らず雪都は他の園児たちと遊ぼうとはしなかったけれど、だけど一人じゃないなら大丈夫だと根津は思った。
美雨と一緒にいる時の雪都には、尖った雰囲気がなかった。心を許せる友達が一人でもいるなら大丈夫、根津はそう思ったのだ。
「晴音君、先生と一緒に行こう」
「イヤ、タケちゃんが行かないなら行かない」
晴音は、頑なに首を横に振る。根津は考えた、どう言えばこの子は遠足に行く気になるだろうか。
これは、保育士にとって一番難しい局面だ。下手なことを言えば、このタイプの子供はさらに心を閉ざしてしまう。ここはひとつ、楽しいことを持ちかけてみようか。友達と遊ぶと楽しいのだということを教えてやらなければならない。
みんなと一緒にたんぽぽ摘みの競走をしよう、なんて根津が言おうとした時、小さな影が風のように門から走り込んで来た。その疾風は根津と晴音の前まで来ると、ざっと砂埃を立てて止まった。
「晴音、パチンコ玉に訊いて来てやったぞ。園長は用事があるから、それを済ましてから遠足に現地合流するんだと。ここで待ってても帰って来ねえぞ、おら!」
おら、という声と一緒に疾風……もとい、元気は晴音に向けてぬっと手を差し出した。晴音は、「そっか」なんて答えると、何のためらいもなく元気の手を取る。
「走るぞ、晴音。ひまわり組に追いつく!」
「合点承知」
そして、疾風は二人に増えて、それぞれの背の小さなリュックを揺らして瞬く間に行ってしまった。一人置き去りにされた根津は、しばらく呆然と二人が消えた門のあたりを眺めていた。
一人じゃないなら大丈夫、か。
十年以上前に、雪都と美雨が教室の隅で肩を寄せ合っている姿を見て根津の心はほのかに暖かくなった。その時と同じぬくもりを胸に、根津は走り出した。老体に鞭打つことになるが、頑張ってばら組に追いつかなければならないのだった。




