表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
58/306

57 午前八時二十五分


 美雨はいつも、クラスで一番早く登校している。

 たまにA組の委員長を務めている市川博隆の方が早く来ていることがあるが、大抵は美雨が一番早い。

 急ぐのが苦手だから、美雨は小さい頃から何でも余裕を持って行動するのが癖になっているのだ。

 そんな美雨とは対照的に彼は、本鈴が鳴る五分前にならなければ来ない。それより遅いことはあるが、早いことはまずない。つまり、いつもギリギリな登校という訳だ。


 先月のことだ、美雨は珍しく寝坊して遅刻しそうになったことがある。どう頑張っても間に合いそうになかったのだが、途中で彼に自転車の後ろに乗せてもらえたおかげで助かった。

 彼はあの時も平然と間に合ってみせた、美雨を後ろに乗せていたのにも関わらずだ。もしも彼に拾ってもらえなければ、美雨は確実に遅刻していただろう。


 あの時のことを思い出すと、美雨はいまだに恥ずかしい。力いっぱい抱きついてしまった。しかも両手で、思いきり。あまりに自転車が速くて、振り落とされそうで恐くてぎゅっと。幼馴染とはいえ、男の子の背中にぎゅーっと思いっきり抱きついてしまった。

 もしかして胸とかあたってなかっただろうか、と思うと勝手に顔が赤くなってしまう。いやいや、そもそもそんなあたる程の胸はなかったか、と思うと良かったような悲しいような。雪都の彼女である希羅梨の胸を思い出すと、そんなことを考えること自体が馬鹿みたいな。


 そして、自転車事件はそれだけで終りではなかった。


 美雨はその日の帰りにも成り行きで、雪都に自転車の後ろに乗せてもらうことになってしまった。帰りは別に遅刻しそうになっていた訳ではないから一人で帰れたのに、なのにまたもや送ってもらってしまったのだ。


 夕焼けに染まった街を、彼の自転車の後ろで揺られた。

 それはなんだか、彼と一緒にすごした幼かった日々へと帰って行くような不思議な時間だった。


 美雨にとってあの日はものすごく大変な、例えば新聞ならば一面を飾るトップニュースレベルの大事件な一日だった訳だが、彼にしてみれば些細なことに過ぎないのだろう。それが証拠にあの後、彼の美雨に対する態度はほとんど変わらなかった。ただ、朝の挨拶をしてくれるようになったことだけがささやかな変化ではあるけれど。


 とにかくあんなこと、特に朝みたいなことが二度とないようにと、あれから美雨は気合を入れて早起きしている。そりゃもう早い、ぶっちぎりで早い。

 博隆がいくら頑張っても、もう美雨に勝てることはないだろう。美雨が八時より遅く来ることはまずない。つまり美雨は、雪都より優に三十分は早く登校しているということだ。


 朝、誰もいない教室に入ると、美雨はまず窓を開ける。朝の風は気持ちよく、澱んでいた教室の空気を入替えてくれる。

 それから美雨は、廊下側の一番後ろにある自分の席に座り、予習を始める。無理をして国公立進学クラスに入ったせいで、焦りのようなものが美雨の中にはあるのだ。


 そんなに勉強しているようには見えないのに、どうしてみんなあんなに出来るのだろう。小テストの平均点を先生の口から聞くたび、美雨は密かに冷や汗が出る。去年のクラスより確実に十点は高い……。

 美雨の成績は今のところ、平均点あたりを辛うじてうろついている。だけど、少しでも気を抜くと落ちこぼれてしまいそうで恐い。受験のことまで考えが至らない、クラスについて行くだけで精一杯なのだ。


 やはり私立文系クラスを希望すればよかったと、今更ながらに美雨は後悔していた。そうすれば、あゆみと同じクラスになれたかもしれないのに。


 今のクラスになってひと月以上が過ぎ、美雨は姫宮希羅梨と飛鳥井セスナの二人と一緒にいることが多くなって来た。希羅梨が人懐っこく話し掛けてくれるから、徐々に友達になりつつあるという感じだ。

 希羅梨もセスナもとても優しくて、もっと仲良くなれたらいいなと美雨は思う。だけど、どうしても違和感のようなものを感じる。


 この学校で、多分一番有名で華やかなグループにどうして自分なんかが入っているのだろうか。


 傍にいるとよくわかる、希羅梨もセスナもびっくりするくらいに可愛い。そのへんのアイドルなんて目じゃない、これでは目立って当たり前だ。そして、何かにつけて希羅梨たちと一緒に行動することの多い男子グループがまた目立つ。


 四月の終わりにあった親睦遠足という名の山登りでも美雨は、希羅梨とその彼氏である永沢雪都、セスナとその彼氏である阿部和馬、それに国嶋伊佐美と早坂真琴を加えたグループに入れてもらった。

 入れてもらったこと自体は本当に嬉しかったのだけれど、一緒に歩いていると自分だけが浮いてるような気がした。被害妄想かもしれないけれど、可愛い希羅梨とセスナの間に挟まれて山道を歩いていると分不相応なような、そんな気がしたのだ。

 それに、前を歩いている雪都がやたらと気になった。和馬や真琴たちとふざけ合いながら歩いているその背中を気づけば見ていた。


 美雨は、雪都と幼馴染であるということを誰にも言っていない。別に隠すようなことではないと思うのに誰にも、親友のあゆみにでさえ言えずにいた。希羅梨が雪都から聞いているのかどうかは知らないが、そのようなことを言われたことは一度もない。


 こんな風に幼馴染の彼を変に意識してしまうのは、両親のせいだと美雨は思っている。あの、遅刻しそうになって雪都の自転車に乗せてもらった日の夜に、何をどう勘違いしたのか両親が揃って美雨に、「永沢雪都くんとつき合っているんでしょう?」なんて訊きに来たのだ。


 どういう経緯でそんな思い違いをしたのかは訊かなかったが多分、美雨は自転車の後ろに乗せてもらっていたところを見られたのだろうと思っている。というか、それ以外に考えられない。

 駅の裏にあるショッピングモールに最近新しい店を出したから、両親は今はその店につめている筈だ。あの日は、行きも帰りも雪都の自転車に乗せてもらったのだから、偶然見られていたとしても不思議はないのだ。


 「どうなの?」「どうなんだ?」と、詰め寄ってきた両親に美雨は切れた。彼には姫宮希羅梨さんという、もんのすっごく可愛い彼女がいると半ば怒鳴るように言ったら、両親は途端に空気が抜けた風船のようにへなへなになった。

 ほっとしたような、がっかりしたような微妙な顔を見合わせて、そして二人で苦笑いをしていた。


 まったく、いつもほったらかしの癖に、こんな時だけ揃って帰って来るなんてやめて欲しい。こんなことで帰って来れるなら、普段からもっと帰って来てくれたらいいのにと思う。

 一人きりなのはとっくに慣れっこだ。だけど、慣れているから寂しくないなんて、そんなことはないのに。そんなことある筈ないのに。


 朝、誰もいない教室で予習していると、何故だか美雨はもやもやした気分になって来る。どうしてかわからないけれどそうなる。

 もうすぐ、他の生徒たちが来る。美雨の次に来るのは博隆だろうが、希羅梨もセスナも早く来る方だ。今日も希羅梨は、長い髪をなびかせて教室に入って来るだろう。そして美雨におはようと、眩しいくらいの笑顔で挨拶してくれるだろう。


 どうしてあんなに可愛いんだろう。あんなに可愛かったら、きっと誰にでも好かれる。彼が好きになる筈だ、美雨の幼馴染の彼が。


 希羅梨におはようと言って、セスナにもおはようと言う。最近では和馬や真琴、それに国嶋伊佐美もおはようと言ってくれるようになった。

 教室の、廊下側の一番後ろの席に座り、美雨は次々と登校してくるクラスメートたちにおはようと、出来るだけ明るく聞こえるように声を張り上げる。


 そして、授業開始十分前を知らせる予鈴が鳴る頃にはほとんどの生徒が揃って、教室はざわめきに支配される。

 あゆみがいつか、国公立進学クラスは休み時間も勉強しているイメージがあるなんて言ってたけれど、実際に教科書を広げているのは美雨だけだ。みんな適当に仲の良いもの同士で集まって、雑談に花を咲かせている。

 そのざわめきの中で、黒板の上にかけられている見やすいけれど飾り気のまるでない時計の針が八時二十五分を過ぎた頃に、美雨の席のすぐ後ろで静かに戸が開く。


 教室の中はざわめいている、彼が入って来ても誰も振り向かない。

 美雨の背後を通る時、彼は低い声で「はよ」と言う。おはようではなくて、「はよ」と、短くして言う。


 美雨は、他のみんなと同じようにおはようと、明るく聞こえるように声を出そうと思う。だけど出せない、振り向くことさえ出来ないうちに彼は行ってしまう。そして、窓際の席では希羅梨が、眩しいくらいの可愛い笑顔で雪都を待っている。


 寂しいと思うのは違うと思う。彼はすぐそこにいる、同じ教室の中にいるのだから。


 だけど、美雨の幼馴染の雪くんはもうどこにもいない、そんな気がして美雨はどうしても寂しくなってしまう。

 彼は永沢雪都という名の、単なる同級生なのだ。疎遠にしていた数年で、すっかり美雨の知らない人になってしまった。


 だけど、間違いなく彼は雪くんだ。 遅刻しそうになっていた美雨を助けてくれた、あの素っ気ない優しさは少しもかわっていない。


 彼は幼い頃、まだ独りぼっちに慣れていなかった美雨の傍にずっといてくれた無口な男の子だ。美雨が誰よりも、大切な両親よりも大好きだった、あの男の子なのだ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ