55 それは澄んだ萌黄色の
春の月のおかげで淡く明るい障子に向けて置いた文机の上に書類を広げて、柊也はゆっくりと読み下していた。
組織の長たるもの、ほんの些細なことでさえ読み落としてましたでは通らない。特にこの書類は、先代から飛鳥井をがっちりと支えてくれている役員たちにさえ内密に組織した、柊也直属の内偵部隊からの報告書だ。上から見おろしていたのでは知りえない、企業内の細々とした問題が浮き彫りにされている。
飛鳥井商事の本社営業二課で秘密漏洩の疑いがある。ライバル会社に先を越されたことが、ここ二か月程で四件もあった。
同社の総務部の部長が女子社員にセクハラまがいの行為をしているらしい。一人で残業していた女性社員を無理矢理に口説こうとしたとかどうとか。
飛鳥井家は、古くは鎌倉時代まで遡れる由緒正しい名家で、有する企業の数も半端ではない。両親亡き後、柊也は若くしてその全てを支えているのだ。
もちろん、信用できる部下はいる。父の代から勤めてくれている頑固なオヤジどもが柊也の代になっても変わらず辣腕を振るってくれているからこそ、柊也は涼しい顔をしていられるのだ。それでも、総裁の責任は計り知れないほどに重い。
「セクハラか、下衆なことだな」
普通、こんなことまで総裁が知る必要はないだろう。けれど柊也は、どんな些細なことでも報告するよう内偵部隊に厳命している。
営業二課の件に関しては、引き続き調査すること。そして、総務部部長には即日解雇を言い渡す指示を書類にしたため、二枚の書類をそれぞれ別の封筒に入れて封をした。
柊也は不正を許さない、特に弱い立場の者を強い者が蹂躙することを極度に嫌う。
潔癖すぎると言われているが、曲げることはしない。美空のように不当に辛い思いをする者が柊也の下に居てはならない。
柊也が美空と初めて出会ったのは、柊也が父のあとを継いだばかりの頃だった。小さな鉄鋼会社が新しい鉄材の開発に成功して、飛鳥井鉄鋼はその会社と独占契約を結ぶばかりの段取りになっていた。要するに下請けとして飛鳥井グループの傘下に入れるというだけのことなのだが、相手は画期的な新製品という強みを持っていたためにかなり尊大で、総裁自ら挨拶に来いと言い放った。
柊也は飛鳥井鉄鋼の社長を伴って、ごちゃごちゃとした下町にあるその会社を訪れた。薄汚れた応接室に通されると、ソファーにふんぞり返ったままのいかにも成り上がり者風情な社長が出迎えた。
挨拶をするのに立ち上がろうともしない相手に飛鳥井鉄鋼の社長は眼光を険しくしていたが、柊也はこれも仕事と割りきっていた。従来のものより軽く、それでいて強度は倍以上という鉄材さえ手に入れば、他のことなどどうでもいい。
早く仕事を終らせようと柊也は、自ら契約書類を出してテーブルの上に並べた。もうすでに必要なことは記入済みだったので、あとは社長のサインと社印を貰えばそれで契約は成立する。
成り上がり者丸出しの社長がでっぷりと太った腕を伸ばして書類を手に持った時、遠慮がちなノックの音が聞こえて誰かが入って来た。それは、紺色の制服を着た小柄な事務員だった。手に持った盆から日本茶で満たされた湯のみを三つ、狭いテーブルの上に書類を避けて並べる。
最上級の玉露だと、茶好きの柊也にはその清々しい香だけでわかった。見ると白い陶器の中で、鮮やかな萌黄色の液体が透けている。いつだったか、名のある職人が作ったというトンボ玉を見たことがあるが、興味なく忘れていたのに何故か突然にその色を思い出した。
「ぬるい!山崎、お前は茶のひとつも満足に淹れられんのか。客人に失礼だろう、淹れ直して来い!」
いつもなら取引き先で出された飲み物には手を出さない柊也が思わず湯のみを持ち上げた時、客より先に茶に口をつけた成り上がり社長がだみ声でそう怒鳴ると、ひと口だけ飲んだ残りの茶を事務員目掛けて撒いた。美しい萌黄色だった茶は、事務員の白いブラウスの袖を濡らしてから床を汚す。ぬるいとは言うが、熱くない筈はない。けれどその事務員は、ただ申し訳ありませんと頭をさげただけだった。
良い茶葉は、熱湯ではなく80度くらいの湯で淹れるものだ。その方が茶のうまみと香が引き出せるからだ。ひと口、口に含むと、予想通りのまろやかで深い味が広がる。美味いと、柊也は率直に思った。実に美味い茶だ、温度も申し分ない。
最後の一滴まで茶を味わうと、柊也は黙って立ち上がった。何も言わずとも全てを心得ている飛鳥井鉄鋼の社長は、テーブルの上の書類を手早くまとめた。
茶の味もわからない下衆な男を使う気はない、契約はご破算だ。新素材の鉄材は惜しいが、その程度のものは飛鳥井ならいくらでも自社開発できる。
「あ、あの、どうかされましたか?」
急に弱くなった成り上がり社長の声を背に受けて、柊也は歩き出した。部屋を出る前に、濡れた自分の袖はそのままに雑巾を持ち出して床を拭いていた小柄な事務員に名を尋ねる。
山崎美空と名乗ったその事務員は、その翌週には飛鳥井財閥本社ビルの秘書室にいた。そして、それから半年も経たないうちに柊也の妻となっていた。
結婚してしばらく経った頃、美空が笑いながら言った。実はあの社長に愛人になるよう迫られて、それを断ったから辛く当たられていたのだと。柊也の部屋のこの縁側で、夫婦並んで手入れの行き届いた庭を眺めながら、美空が淹れてくれた相変らず美しい浅葱色の茶の味が柊也の喉に染みた。
それは、くもりなきガラス玉のような色だった。
どこまでも澄んだ美しさ。
障子の外に気配を感じて、柊也は入れと入室を促した。すっと障子を引いて現れたのは、美空と生き写しの妹、セスナだった。
「柊也兄さま、お茶をお持ちしました」
両の手のひらを廊下の冷たい床につけ、きれいな姿勢で頭をさげているセスナの声は固く、たどたどしい。その華奢な身に纏っている着物の柔らかな色がそぐわないほどに。
「ああ……」
ありがとうと、言えばいいのに言葉は出て来ない。失ってしまった愛しい女にあまりに似すぎていて、柊也の中で言葉は詰まる。
「そこに置いて行け」
「はい、失礼いたしました」
セスナは、美空によく似たその顔を一度もあげることなく障子を閉めた。あとには、浅葱色の茶で満たされた湯のみが盆の上にぽつんと置かれていた。
美空が最期の時まで心配していたその妹を幸せにするのが自分の義務だと柊也は思っている。飛鳥井の名に恥じぬ高い教養を身につけさせ、やがてはいい家に嫁に出してやる。下衆な男に見下されるなどという、辛い思いなど間違ってもしないように。
柊也は立ち上がると、セスナが置いて行った盆に近づいた。湯のみを持ち上げひと口飲むと、美空の深みのある味にはまだ遠く及ばないものの、丁寧に淹れられた茶だけが持つまろやかな、とても優しい味がした。




