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54 消えない記憶


 忘れはしない、あれは中二の夏だった。

 夏休みがあと数日で終るというある蒸し暑い夜に、涼華は幼馴染の彦市に告白された。


 『ほんまに好なんよ、ほんまに。』


 同じ愛の告白でも、京都弁で言われたらなんとなく冗談のように聞こえるのは何故だろう。いや、京都弁が悪いのではなく、言った男が悪いのだが。


 隣町である花火大会にどうしても一緒に行ってくれと、やたらとしつこく誘われて仕方なく涼華は彦市につき合った。田舎の祖母が送ってくれた、手縫いの浴衣を着たいという気持ちもあった。

 台風が近づいているとかでやたらと蒸す夜だったが、期待していなかった花火が思いのほか華やかできれいで、濃い紫の浴衣を着た涼華は結構いい気分で特に急ぐ理由もない帰り道をそぞろ歩いていた。後ろを歩いている彦市がいつになくおとなしいのも涼華の気分を良くするのを手伝っていた。右手には似たような建て売り住宅が行儀よく並び、左手には製紙工場の灰色の高い塀が続いている。夜空に浮かぶ月は白く大きく、夜道を明るく照らしてくれていた。


 「涼華、ボクな……涼華がほんまに好きなんよ、ほんまに」


 背後から聞こえた唐突な告白に涼華は、思わず足を止めて振り向いた。道の真ん中に突っ立っている彦市の癖のないサラサラの髪が月明かりに淡く光って見えた。


 「……何かの冗談?」

 「冗談ちゃうて、本気やて」


 いつも悪ふざけばかりする幼馴染が、静かにそう言って笑った。そして、考えといてやと捨て台詞を残して、呆然と立ち竦む涼華に背を向けて彦市はまるで逃げるように走って行ってしまった。











 「あー、疲れたぁ」


 部屋に帰るなり、涼華は持っていたバックを床の上に放り投げ、その勢いのまま着ていたものをぱぱっと脱いで、下着姿になるとベッドにばふっとダイブした。枕に頭がずずずっとめり込んで行くような気がする。


 「ああー、今日も一日がんばったー」


 教師になって今年で五年目、担任クラスを持ったのは初めてのことではない。けれど受験の年の、しかも国公立進学クラスを受け持ったのは初めてのことで。


 「あああー、疲れるー。あいつら、私の生気を吸ってんじゃないでしょうね」


 頭の中に教え子たちの顔を思い浮かべて、涼華は枕に埋もれている頭を振った。

 涼華の生気を吸っているのはあの子たちじゃない、どう考えても可愛い生徒たちではないと思う。教え子たちの屈託のない笑顔の上に、思い出したくもない狐面が重なる。いくら追い払っても、ひょいひょいとついて来るしつこい狐だ。


 「あいつか、あいつだな、絶対にあいつだ」


 腐れ縁の幼馴染、矢田部彦市。

 何が悲しくてあんな男と幼稚園から大学まで同じ学校の上に、職場まで同じなのか。これはもう、呪われているとしか思えない。


 「彦市めぇー、私の生気を返せぇー」


 もしそんなことを言ったならあの男は、嬉々として『じゃあ、口移しで返す』とか言うだろう。涼華の頭の中で狐が、唇をむにゅっと突き出す。


 「うわ、気持ち悪っ!」


 勝手に想像しておいて気持ち悪い呼ばわりでは、さすがに彦市が気の毒というものだろう。しかし涼華は、彦市に関しては欠片も容赦がない。自分の想像に鳥肌を立てて、腕をさすりながら身を起した。


 いくら暖かくなって来たとは言え、四月の夜に下着姿で寝ていては冷える。涼華は立ち上がると、シャワーを浴びようと風呂場に向った。

 歩きながら、ブラの後ろホックを外して豊満過ぎる胸の膨らみを解放する。そして、風呂場に到着する前に涼華の体を僅かに覆っていた最後の一枚も脱いでしまった。一人暮らしだからこそ出来ることだ。


 男なんていらないと、涼華は思う、下半身で物を考える生物と何を好き好んで一緒にならなければならないのか。

 一人がいい、自由でいい。男なんていたら裸で部屋の中も歩けやしない。


 給湯温度を高めに調節して、勢いよく迸る湯を頭からかぶった。洗い流してしまいたい、何もかも。聞きたくないのに今夜もまた聞いてしまった、彦市の『結婚してぇな』の言葉も。


 「結婚なんてする訳ないでしょ、あの馬鹿」


 涼華の低く押し殺した呟きが、水音に混じって消える。涼華は長い髪にシャンプーをぶっかけ、盛大に泡立て始めた。


 忘れはしない、あれは中二の夏だった。

 いや、正確には夏の終わり頃だった。


 涼華は幼馴染の彦市に告白された、いつもは悪ふざけばかりする彦市が真剣な顔で涼華に『ほんまに好きなんよ』と言ったのだ。


 台風が近づいていた、やたらと蒸し暑い夜だった。


 それからしばらく、涼華は悩みに悩んだ。彦市の告白は涼華にとって生まれて初めてのもので、初心な乙女心は大揺れに揺れたのだ。

 彦市を嫌いかと問われれば、そうではないと答える。悪ふざけばかりしてどうしようもない奴だけど、彦市は涼華の幼馴染だ、嫌いではない。けれど好きかと問われれば、答えはなかなか出てこない。ましてや、恋人になるなんて考えられない。


 彦市はあの告白の夜以来、涼華の顔を見るたびに『ボクとつき合うてぇな』と、軽い調子で言う。まるで冗談か何かのように、顔を見るたびに何度も言う。


 きっちり十日間悩んで、涼華は答えを出した。

 彦市は、嫌いではない。好きかと問われれば微妙だが、とりあえず嫌いではない。だったらつき合ってみるのも悪くないかもしれない、駄目だったら別れるという手がある訳だし。


 気づくと、彦市の誕生日が目前だった。涼華は自分の柄じゃないと思いながらもケーキを作って、彦市が生まれたその日に家まで届けに行った。

 ケーキを渡して、つき合ってあげてもいいわよと言うつもりだった。勝手知ったる幼馴染の家にチャイムも鳴らさず上がり込み、二階のつき当たりにある彦市の部屋のドアをノックもなしに開けるまでは。


 ガシャッとドアを開けた途端、目に飛び込んで来たあの情景は今でも忘れられやしない。ベッドの上でうごめいていた、盛り上がったタオルケット。ドアが開いた音で入り口の方を向いた女は、涼華も見知った顔だった。


 ギャ―ッという、もの凄い悲鳴をあげて女は二人を覆っていたタオルケットを力いっぱい引き寄せて自分の体だけを隠した。その結果、哀れにも彦市の一糸まとわぬ姿が頭のてっぺんから足の先まで丸見えになった。


 もしもあの時、キャーと可愛く悲鳴をあげられるような性格だったら、何かが違っていただろうか?

 それとも、私を好きって言ったじゃないとでも、彦市を責めていたら?


 しかし、涼華はそのままそっとドアを閉めた。そして、何事もなかったのかのように階段を下り、幼馴染の家を後にした。

 手作りケーキは、帰る途中でコンビニの前に置いてあるゴミ箱に捨てた。ちゃんといくつか並んでいたゴミ箱のうちの、燃えるゴミと書かれていたのに入れた。翌日には回収され、きれいさっぱり跡形もなく燃えた筈だ。


 熱い湯が涼華の透けるように白い肌を桜色に染めていた。この身体が男にとってかなり魅力的であることは、涼華は嫌というほど知っている。


 二十七のこの歳になるまでに涼華は、何人かの男とつき合ってみた。けれど、長続きしたことはない。どの男も涼華の中身よりも外側の方が好きらしく、つき合いだすとお約束のようにすぐに求められた。

 身体を求められると、涼華の心は急速に冷める。中学二年生の時に見た、幼馴染の裸体が頭を過ぎってしまって。


 二十七歳、次の秋が来れば二十八だ。

 彦市の『ボクとつき合うてぇな』は、いつの間にか『結婚してぇな』に変わっていた。


 「私ってやっぱ、行かず後家になるのかしら」


 虚しい呟きもまた、シャワーの音に混じって消える。湯に打たれながら涼華は、はぁっと大きな溜息をついた。



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