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50 母の涙と見合い写真


 B4サイズの大きな茶封筒がドアに作りつけの郵便受けに入りきらずにはみ出しているのに気づいて阿久津優介は、大きな溜息をついた。仕事から疲れて帰って来たのに、出迎えがこれでは酷すぎる。

 斜めに突き刺さっていた茶封筒を外からガッと力いっぱい引き抜いて、ジャケットの内ポケットからキーホルダーも何もつけていない鍵を取り出して扉を開けた。真っ暗な廊下を進み、つき当たりの部屋に入って手探りで壁の電灯のスイッチを探して点ける。途端に、独身男の虚しい一人暮らしの部屋が照らし出された。

 部屋の中央に置かれているテーブルというか、こたつの布団を取っ払ったものな訳だが、その天板の上の、朝に使ったマグカップが汚れたまま置かれている横に優介は茶封筒を放り投げた。


 開封する気はない、中身が何かはわかりきっている。

 懲りもせずに田舎の母親が送って来た見合い写真だ。


 一体どういうツテで話を持って来るのか、この手の茶封筒が最低でも週に一通、ひどい時には五、六通は届く。そろそろまとめて送り返さなければならないくらいにたまってしまっている。


 優介は、ハアッともうひとつ溜息をついてから、上着のボタンを外しながら寝室にしている奥の部屋に入った。のろのろと部屋着に着替え、脱いだスーツは皺にならないようにハンガーにかけてクローゼットにしまう。帰りがけに駅前のコンビニで買って来た弁当を食べる気が起こらない。風呂に入る気にもなれずに優介は、そのままベッドにごろっと寝転んだ。


 教師は、授業が終って生徒が帰宅してしまえばそれで仕事は終わりと世間では思われがちだが、決してそんな楽な商売ではない。職員会議に学年別、教科別の打ち合わせ、テストの採点やら課題の添削、そして翌日の授業準備だ。その他にも、やらなければならない雑多な仕事は限りなくある。

 生徒たちは夕方には下校して行くが、教師はそれからが大変なのだ。提出させたノートを自宅に持ち帰る教師も多いが、優介は仕事は出来るだけ学校で片づける主義だ。どうせ一人暮らしだ、早く帰っても迎えてくれる家族はいない。だったら、一クラス三十数冊のノートを持ち帰るだけの労力が惜しい。無駄な体力も腕力も使いたくないのだ、もうそんなに若くないのだから。


 優介は、今年で三十二歳になる。

 就職は地元でするからと母を言いくるめて、大学進学のために家を出てからもう十四年だ。


 まだ優介が幼い頃に父は胃癌を患って亡くなり、再婚もせずに女手ひとつで一人息子である優介を育ててくれた母に毎年、来年には帰るから、きっと来年には地元に仕事を見つけて帰るからと言い続けて今に至る。

 保険の外交員としてバリバリと働いて来た母は昨年の暮れ、長年勤めた会社を定年退職した直後に受けた市の高齢者対象の健康診断で、父と同じ場所に癌が見つかった。

 幸い発見が早く、年明け早々に受けた手術は上手くいったらしい。比較的助かる確率が高い胃癌だったことも、父の時とは違って歳がいっているから進行が遅いことも幸いした。

 手術後ひと月で無事に退院し、春休みを利用して優介が様子を見に帰った時には、家中の模様替えなんてするくらいに元気になっていた。


 これなら大丈夫だろうと、優介は胸を撫で下ろした。

 この様子なら、まだ母は一人で暮らしていけるだろう。


 いつかは地元に帰って、年老いた母の面倒をみなければならないということはわかっている。だけど出来ることなら、そのいつかを少しでも先に延ばしたいというのが優介の本音だ。

 女手ひとつで苦労して大学まで行かせてくれた母には感謝しているし、親孝行したいとも思っている。だけど、一人は気楽なのだ。一度、一人の気楽さを覚えてしまったら、元に戻るのは嫌だと思ってしまう。

 母には感謝している、だけど重い。申し訳ないけれど、今さら実家に戻って、母と一緒に暮らすことを考えるだけで息苦しくなってしまうのだ。


 自分の体が癌に侵されているとわかってから、母は優介に帰って来いとは言わなくなった。その代り、見合い話を持って来るようになった。

 一日でも早く結婚して、なんとか生きているうちに孫の顔を見せておくれと、そう涙ながらに訴えられて優介は、これなら帰って来いと言われる方がいくらかましだと思った。

 相手は自分で見つけるからと見合いはことごとく拒否しているものの、送りつけられる茶封筒の数は増え続けている。さすがに数十年も保険のおばちゃんをやっていただけはある、どれだけ顔が広いのかと呆れるほどだ。


 五年だ。

 五年間、転移がなければ癌というものは、一応は完治したと考えていいらしい。


 春休みに帰った時に見た限りでは、心配はないように思う。けれど、何故か嫌な予感がする。杞憂だろうと思いつつも優介は今年、国立進学クラスの担任を降りた。

 もしも受験シーズンの真っ只中で母に何かあったら、教え子達を見捨てて帰る訳にはいかない。大丈夫だとは思うが、万一に備えてしまった。つまり、保険のおばちゃんの息子らしく優介は、自分の身の自由に保険をかけたのだ。


 担任さえ持っていなければ、もしも母が再び倒れた時にはすぐに駆けつけることが出来る。母には言ってないが地元の、優介の高校時代の恩師が校長を務めている私立高校に来ないかと何年も前から誘われてもいる。

 優介は、枕元に置いてある目覚まし時計を腕を伸ばして取った。九時を少し過ぎている。そろそろ、母から電話がかかって来るだろう。写真は見たか、美人だろう。次の週末は空いているか、相手は日曜日なら会えると言っている……。


 生きているうちにひと目でいいから孫の顔が見たいと、気丈な母が涙を見せた。

 これまで、どんな苦労をしても優介の前では泣いたことなどなかった母なのに。


 結婚する気が全くない訳ではない、だけど面倒だと思う。やはり、一人の気楽さは何ものにも変えがたいのだ。

 この気楽さと引き換えにするなら、それなりに好きな女性とでなければやって行けないだろう。見合いで結婚しても、上手くいくとは思えない。


 何をする気も起こらずにベッドに寝転んだままで優介は、今までにつき合った数人の女の顔を思い浮かべてみた。どの女も恋人にするにはいいが、一生を共に生きるビジョンはどうしても浮かばない。ましてや、自分の子供など想像もつかない。


 結婚するなら、素直な女がいいと優介は思う。素直で、おとなしくて、優介の言うことに黙って従うような女。

 年上は駄目だ、絶対に年下がいい。顔の美醜は、あまり気にならない性質だ。だが、やはり可愛ければそれに越したことはない。美人系よりも、可愛い系の方がいいだろう。美人は我が強いものだ、我侭な女は端から却下だ。

 それに、優介に惚れていれば尚いい。惚れた弱みで優介の言うことをよく聞くだろう、これほど扱いやすいことはない。


 つらつらとそんなことを考えていたら、いつしか優介の頭の中に一人の少女の顔が浮かんで来た。去年と一昨年、二年続けて担任した生徒だ。素直で、おとなしくて可愛い系で、告白はされていないが多分間違いなく優介に好意を抱いているであろう女子生徒。


 先生と、すっかり聞き慣れてしまった声に呼び止められて振り向く度に密かに胸が騒ぐ。

 自分に向けられる眼差しがあまりに真っ直ぐで、それが何とも心地よくて。


 あの娘ならいいか……そんなことをぼんやりと考えて、はっと我に返って優介はガバッと起き上がった。

 何を考えているのか、自分で自分が信じられない。中森美雨は、優介の教え子だ。今は担任ではないけれど、それでも教え子であることに違いない。しかも、相手はまだ高校生だ。いくら年下がいいとは言え、一回り以上も下なんてとんでもない。


 ベッドの上でうなだれて、優介がハアッと特大の溜息を吐き出したちょうどその時、隣の部屋で電話が鳴り出したのが聞こえた。




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