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44 知らない表情


 ありがとう、それだけしか言えなかった。もっと他に何か言わなければならなかった気がする。わざわざ遠回りして送ってくれたのだから、あがってもらってコーヒーくらい出すべきだったろうか。


 美雨は自分の部屋に帰るなり、制服のままベッドにうつ伏せに倒れこんでそのまましばらく動けなかった。とりとめのない考えが浮かんでは消え、浮かんでは消える。

 顔が熱い、鼓動が速い。


 あんな顔、初めて見たかも。


 子供の頃に雪都の自転車に乗って転んだ時の傷が残っているなんて、軽い気持ちで言った冗談を真に受けた雪都が見せた、あの真剣な顔。噛み付かれるかと思った、そんなことある筈ないのだけれど。


 ゆき君はゆき君なんだけど、ゆき君じゃないのかも。


 美雨は、頬を押し付けている枕の端をぎゅっと握った。小花模様に皺が寄る。


 ゆき君て、どんなだったっけ?


 小さい頃から無口だった。話しかければ返事はしてくれるけれど、雪都の方から美雨に何かを言って来ることはあまりない。保育園時代から小学校の低学年までほとんど一緒に過したと言っても過言ではないけれど、その決して短くはなかった二人でいた時間を思い出してみても、美雨の思い出の中の雪都はやはり口を引き結んだままだ。


 「……どこか行ってたのか」


 美雨は、声に出して呟いた。どこか行ってたのか、そう雪都は訊いた。

 ゆっくりと自転車のペダルを漕いでいた雪都の、黒い学生服の背中を美雨は見ていた。夕暮れの街は暖かな色に染まり、見慣れている筈の景色がなんだか特別に見えた。鳥が飛んでいた、茜の空を大きな白い鳥が横切って行った。


 「大きくなっちゃったから、違う人みたいな気がするのかな?」


 子供の頃、雪都は小柄だった。美雨も小さい方だったから、二人揃って同世代の平均身長をかなり下回っていた。

 一番前だから見つけやすくていいと言うのは、雪都の両親と美雨の両親の共通見解だった。背の順に並んだら雪都は男子の一番前で、美雨は女子の一番前で二人仲良く並んでいたから、運動会などの行事の度ごとにビデオカメラを手に持った親たちは、撮りやすくていいと単純に喜んでいたのだ。


 「いつの間にあんなに背が高くなっちゃったんだろ?」


 家では一人でいることが多い美雨は、独り言が癖になっている。自分が声に出していることさえ気づかずに、美雨は「んー?」と枕を抱え込んだ。

 小学校に入学した頃までは、雪都より美雨の方が大きいくらいだった。ほんの数センチの差ではあったけれど、確かに美雨の方が大きかった。

 いつ頃ぬかれたのだったろうか?段々と疎遠になって行ったから、よくわからない。

 隣に並ぶことがなくなったから比べたことはないけれど、中学に入学した頃にはもうかなり差がついていたような気がする。


 「ゆき君ばっかり、ズルイ」


 いや、別にずるくはないのだけれど。だけど、ずるいような気がする。

 美雨は結局あまり伸びずに151センチなんて、女にしてもかなり小さいままで成長が止まってしまった。もうすぐ十八になるのだから、これから伸びるのはあまり期待できそうにない。


 「身長、何センチなんだろ……」


 今の美雨は、そんなことも知らない。保育園の頃だったら、毎月ある身長と体重の測定結果を毎回見せ合いっこしていた。クラスで一番小さい二人がどんぐりの背比べをしていた訳だ。


 「……」


 小さい頃の面影を打ち消すと、代わりに今の雪都の姿が浮かんで来た。背の高い学生服の背中と、その隣に並んでいる長い髪の女の子。

 お似合いだと、いつかあゆみが言っていた。あれだけ似合っているとムカつくと。

 枕に片頬を押しつけたままで、美雨は窓の方を見た。窓際の机の上、スタンドの横に置いた写真立ての中で憧れの先生が笑っている。


 「ご飯、作らなきゃ……」


 どうせ今日も両親は帰って来ないのだろう、だったら美雨は自分で自分の夕食の支度をしなければならない。


 「何にしようかな……」


 そう呟きながら美雨は目を閉じた、なんだか起き上がるのがひどく億劫だった。




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