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42 夕焼け帰り道


 痴漢と暴走自転車、どっちが恐いかと訊かれたらどっちも恐いと答える。でも痴漢と幼馴染、どっちが恐いかと訊かれたら考えるまでもなく痴漢の方が恐い。

 是非ともお会いしたくない、何が何でも会いたくなんてない。


 痴漢に追いかけられるくらいなら暴走自転車にだって乗ってやると美雨は、決死の覚悟で荷台に座った。鞄は、雪都の手によって再び前カゴに突っ込まれた。だから美雨の両手はあいていた、また朝のように雪都にしがみつく準備は整っていたという訳だ。

 行くぞ、雪都がそう言うと自転車は動き出した。身構えていた美雨にカタンと一度だけ軽い衝撃を与えただけで、後は滑るように夕暮れの街を走る。


 ……あれ?


 雪都の背中にしがみつく必要はなかった。雪都が座っているサドルの端を指で掴んでいるだけで、恐さなんて微塵も感じない。

 夕方になって少し冷たくなって来た風がゆったりと頬を撫ぜて行く。緩やかに流れる見慣れた街と茜の空を横切って行く大きな鳥。美雨には、景色を楽しむ余裕さえあった。恐くなんてない、全然恐くない。


 「中森、どこか行ってたのか?」


 ゆっくりとペダルを漕ぎながら、雪都はまるで独り言のようにそう訊いた。美雨が聞き間違いかと思って、「え?」と訊き返すと、雪都は僅かに後ろを見る仕草をしたけれど、だけど振り返ることはせずにそのまま視線を前に戻した。


 「電車から降りて来たろ、どっか行ってたんだろ?」

 「うん、あゆみちゃん……B組の藤田あゆみちゃんのお見舞いに行ってたの。風邪で休んでたから」


 黒い学生服の雪都の背中に美雨は答えた、とても普通に答えられる。


 「藤田って、よくお前のとこに来てるやつ?髪の短い」

 「そう、それがあゆみちゃん。長い髪をみつあみにしてるのが、E組の澪ちゃん。化学の沢口先生の娘なんだよ」

 「え、嘘だろ?」

 「ホントだよ、沢口澪ちゃん」

 「げっ、あんなのでも妻子持ちなのか」


 どうやら雪都は、澪が化学の沢口トキオの娘という部分にではなく、あの変な教師でも結婚できるのかという部分に驚いたらしいが、そんな雪都の反応が面白くて美雨はくすっと小さな笑いを漏らした。

 僅かな振動に揺られながら美雨は、きれいなオレンジ色の空を見上げた。不思議な気分だった。


 なんだか、昔に戻ったみたい。


 雪都の傍にいることが当たり前だった、小さな頃に戻って行く気がする。

 恐いどころか、暖かい安心感で美雨は満たされていた。それは胸がじんと痺れるような、懐かしい感覚だった。


 「ねえ、永沢くん。晴音ちゃんて可愛いね」

 「あれが可愛いか?」

 「可愛いよ、すっごく可愛い」

 「そうか?普通のガキだろ」

 「普通じゃないよ、モデルさんになれるよ。キッズモデルになったら、絶対に売れっ子だよ」

 「へえ……じゃ、ちょっと稼がすか」

 「もう、すぐにそんな言い方するんだから。あんなに可愛がってる癖に」

 「可愛がってない、面倒みさせられてるだけだ」

 「だって、グリーンの絵本読んであげるんでしょ?」

 「絵本読んでやらないと寝ないんだよ、あいつ。睡眠導入剤だ」

 「読んであげてるんじゃない」

 「寝かせるためだ、可愛がってる訳じゃない」

 「はいはい」


 自転車は走る、まるでゆっくりと時を遡るように。

 小学校の高学年から中学、高校と。疎遠だった時間を埋めて、二人の距離が不思議と縮まって行く。

 美雨の頭の中を小さかった頃の思い出が次々と過って行った。そっと目を閉じると学生服を着た広い背中が消え、代わりに保育園のスモック姿の可愛かった彼が瞼に浮かぶ。なんだか胸が痺れるように疼いた。


 「……ねえ、永沢くん。憶えてる?永沢くんが私を初めて自転車の後ろに乗せてくれた時のこと」

 「忘れた、全然これっぽっちも憶えてない」

 「憶えてるんだ?」

 「だから、憶えてないって」


 くすくすと、美雨は笑った。雪都は振り向かないけれど、振り向かなくてもわかる。きっと今、すごく不機嫌な顔してる。

 まだ四歳か、五歳くらいの頃のことだ。自転車の補助輪をやっと外して貰った雪都が、美雨を乗せてやると言い出したのだ。自分ではまだ自転車に乗れなかった美雨は喜んで雪都の後ろに乗った訳だが、一メートルも進まない内に見事に転んだ。

 腕と足、特に足には太腿から膝にかけてかなり広範囲の擦り傷を美雨に負わせてしまった雪都は、母親である十和子にこれでもかと言うほど怒られた。もしもこの傷が残ったら、責任取って美雨ちゃんをお嫁さんに貰いなさいとまで言われて雪都は、むうっと押し黙ったままで、コクリと神妙に頷いた……。


 「あの時の傷、残ってるよ」


 キーッとブレーキを軋ませて、自転車がいきなり停まった。油断していた美雨は振り落とされそうになって、キャッと小さく悲鳴をあげた。


 「ちょっと、永沢くん!」

 「嘘だろ!?」


 振り向いた雪都があまりに真剣な顔をしていたので、急ブレーキに対する美雨の抗議の言葉は思わず引っ込んでしまった。いつも何ごとに対しても平然としている雪都の、こんな焦った顔を見たのは初めてかもしれない。


 「傷、残ってんのか?」


 雪都の目が美雨の足へと向いたので、美雨は乱れていたスカートを慌てて直した。


 「嘘だよ、嘘!傷なんて全然残ってないから」


 雪都の勢いに呑まれて、美雨はわたわたと手を振りながら首もぶんぶんと横に振った。残ってない残ってない、ぜーんぜん残ってないと何度も繰り返す。

 そんな美雨を雪都は見つめ、そんな雪都を美雨が見つめる。道の真ん中に停めた自転車の上で、雪都と美雨の間に奇妙な数秒が流れた。


 「ご、ごめんなさい」


 美雨が頭をさげると、雪都は何も言わずに前を向いてまたペダルに足をかけた。そして、ゆっくりと走り出す。


 長い影を落として、二人を乗せた自転車はゆっくりと夕焼けの道を走って行った。




自転車の二人乗りは、各都道府県の公安委員会が定めた道路交通規則で原則禁止とされています。

小説の中だけと思ってくださいね。

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