41 偶然か必然か、それとも運命か
本屋から出て、歩道に止めていた自転車のロックを解除した時、駅からどっと人が吐き出されたのに気づいて雪都は顔をあげた。何となく、本当に何となく帰宅ラッシュの人波を眺めてみただけなのに、当たり前のように視界の隅に引っ掛かった少女の姿に雪都は思わず半眼になった。
……何でこう見つけちまうかな。
学校でならまだしも、こんな場所でまで美雨を見つけてしまう自分に少々呆れる。しかもあの人ごみなのに、たった一人に瞬時に気づくってどうなんだろう。いくら目がいいとは言え、道路を隔てて結構な距離があるのにだ。
朝といい、今といい、何かどうかしてないか?
ずっと同じ町内に住み、ずっと同じ学校に通っていながら雪都と美雨にはそれほど接点がなかった。見ようと思わなければ、何ヶ月でも顔さえ見ない日々が続いたのだ。なのに、この四月からはやたらと美雨が目につく。同じクラスになったからだけではないだろう、学校の外でもこうして頻繁に出くわしているのだから。
そう言えば、図書館でもばったり会ったのだった。二度あることは三度ある、のかどうかはわからないけれど。
家路を急ぐサラリーマンの群れに家とは反対方向に押されて四苦八苦している美雨から視線を外さないまま、雪都は買ったばかりの参考書が入った袋と重い学生鞄を自転車の前カゴに放り込んだ。
しかも、今日に限って自転車だし。
偶然なんてものは、重なる時には重なるものなのだろう。
今日は遅刻しそうだったから自転車に乗って来たが、いつもなら雪都は通学に自転車を使わない。陸上部だからという訳でもないが、ランニングをかねて走っているのだ。
もしも今朝、自転車を使わずにいつものように走っていたら美雨を乗せてやれなかった。いつものように晴音を保育園に送って、いつもの道を使ってたら、どう考えても間に合わないのに必死で走っていた美雨を見つけられなかった。
これも偶然ってやつか?
雪都は、自転車を歩道から車道に降ろしてからサドルに跨った。この自転車は晴音を乗せるために後ろに荷台をつけてある所謂ママチャリというやつで、スマートさには欠けるが実用性がある。人波に翻弄されて自分の行きたい方に行けないようなドンくさい美雨でも乗せてやれるのだ。
いや、偶然なんかじゃない。
こんなに都合良く偶然が重なる訳がないだろ?
だからといって必然だとか、ましてや運命だとか言い出す気はないけれど。
雪都は、すいっと走りだした。人ごみを避け、バスターミナルの方を迂回して美雨がわたわたと困っている改札口の前に自転車を寄せる。
「中森」
また電車が着いたらしい、改札から新たな一団が吐き出された。この時間はほとんど切れ間なく、次々と電車が到着するのだ。
「中森、こっちだ」
いきなり名前を呼ばれてきょろきょろと辺りを見回している美雨に、雪都は苦笑いを浮かべながらもう一度声を張り上げた。
「……永沢くん?」
美雨の大きな目が雪都を見つけて、更に大きく見開かれた。その脇を、焦茶のスーツを着た大柄な男がギリギリにすり抜けて、美雨はよろりとよろけた。
「こっちに出て来い」
雪都は自転車から降りると、車道から低い柵越しに手を伸ばした。途切れることない人の列を堰き止めて、美雨の手首を掴んで引っ張る。
「ほら、こんくらいなら越えられるだろ?」
「あ、うん」
雪都が美雨の鞄を持ってやると、美雨は腰の高さほどの柵に不器用に取りつき、スカートの裾を気にしながらも何とか越えて来た。そのおっかなびっくりの恰好が何だか可笑しくて、雪都はぶっと吹き出した。
「お前って、マジでドンくさいな」
「うっ!」
ドンくさいと言われても反論できないのか、美雨は口を横一文字に引いて雪都を恨めしそうに睨んだ。
夕焼けが街を暖かな色に染めていた。雪都を睨む美雨の顔が赤いのは夕焼けのせいなのか、それとも他の理由なのかわからないほどに。
「ほら、乗れ。家まで送ってやるよ」
「え、いいよ」
美雨はひくっと口の端を引きつらせて後ずさったが、雪都は構わずまだ持ったままだった美雨の鞄を自転車の前カゴに放り込んだ。革の学生鞄がふたつと参考書入りのビニール袋でカゴは満杯で、落ちないように雪都がもう一度ちゃんと入れ直していると、その背中に美雨の上擦った声がかけられた。
「あ、あの……永沢くん、あのね。私、歩いて帰るから」
「あ?」
「だって、今朝も乗せてもらったのに、悪いし」
振り向いてみると、いつの間にか雪都と美雨の間には二メートルばかりの距離があいていた。二メートル先で美雨は、ハハハといかにもな愛想笑いを浮かべている。
「遠慮しないでいいから、早く乗れ。もうすぐ暗くなるぞ、お前の足でちんたら歩いてたら、家に着く頃には真っ暗だ」
「そ、そんなに歩くの遅くないもん」
「いいから乗れって、何度も言わせんなよ」
雪都がそう言うと、美雨はむうっと頬をふくらませた。その顔が、保育園で一緒だった頃とほとんど同じで、雪都は再びぶっと吹き出した。
「何を笑ってるのよ?」
「や、別に」
「笑ってる!」
うわ、美雨だ。やっぱこいつ、美雨だ。
当たり前なことに当たり前に気づいて、雪都の顔は緩む。
気が小さい癖に変なとこ大胆で、強情なんだよな。
保育園で、誰も近づかなかった雪都に平気で近づいて来た美雨の幼い姿が、今のセーラー服に身を包んでいる高校生の美雨の姿と重なった。
雪都は自転車に跨ると、美雨に背を向けてにやりと笑った。この強情娘の扱い方なら、雪都は誰よりもよく知っているのだ。
「そう言えば最近、ここらに痴漢が出るらしいぞ」
「え?」
「お前の家のあたりって、人通りが少ないよな」
「……」
「街灯も少ないし。ま、気をつけて帰れよ」
雪都は振り向かずにそれだけ言うと、静かに自転車を漕ぎ出した。今、美雨の顔を見たら絶対にまた吹き出す。だから、ほんの十メートルほど走ってから自転車を止めた時も振り向きはしなかった。
振り向かなくてもわかる、美雨が走って来る。きっと泣きそうな顔してる、だけど平気そうな顔を取り繕おうとしてる。
あいつは気が小さい癖に変なとこ大胆で強情だけど、頭に超がつくほど恐がりなんだよな。
美雨が雪都のすぐ後ろで立ち止まる気配がした。駄目だ、顔が緩む。吹き出したい!
「永沢くん……あの、えっとぉ」
「何?」
雪都は振り向かない、美雨に背を向けたままだ。
「えっと、だから……あ、私の鞄!」
「あ、そか。ほれ」
前カゴに入れたままになっていた美雨の鞄を腕を伸ばしてひょいと持ち上げると、雪都は依然として顔を逸らしたままで、背中越しに重い鞄を差し出した。
そして、ありがとうと美雨が鞄を受け取ると同時に、ペダルに足を乗せて走り出すふりをする。
「あ!」
美雨の焦った声がもうどうしようもなく雪都の笑いの壷をついて来るが、ここで笑ったら美雨はきっとヘソを曲げる。そうなると、この強情娘はどんなに恐かろうが意地でも一人で歩いて帰るだろう。
「何?」
雪都は振り向かない。いや、どうにも振り向けないのだ。
「あの、だからね」
「だから、何?」
「だから、えっとぉ、そのぉ……」
やっぱり送ってくださいと、美雨の消え入りそうな声が聞こえると、雪都はもう堪らずにハンドルにガバッと顔を伏せた。ここで笑ったらヘソを曲げる、だけどもう我慢できない。
「……あの、永沢くん?」
声は何とか堪えているものの雪都は、ハンドルに縋りつくように顔を伏せてふるふると肩を震わせた。




