34 仕方ない
最終カーブに差し掛かった時、踏み込んだ左足の膝に僅かな違和感を感じた。けれど雪都は、かまわずスピードをあげた。その途端、「無理するな!」と声が飛んで来る。
あれはエスパーか何かじゃないのか、そんな疑いを持ちたくなるほどに臨時コーチ・梶原朔夜の目は鋭かった。本人でも気づかない程のフォームの乱れを見逃さないばかりか、それだけで雪都の膝の不調を見抜くなんて只者ではない。
しかも朔夜は、今日はじめて雪都たち陸上部員と顔を合わせたのだ。
盲腸で入院しているコーチの知り合いらしいが、いくら選手たちのデータは貰っているとは言え、やはりエスパー並の鋭さだろう。
去年、二学期が終る頃に痛めた左膝はもう完治した筈だ。けれど、膝は癖になる。知らず知らずのうちに、雪都は左膝をかばう癖がついてしまっていた。
トラックを外れて息を整えていた雪都のところへ、朔夜は走って来た。軽い身のこなしだ。現役を引退してかなり経つと聞いているが、今すぐにでも選手としてグランドに立てそうだ。
「膝を見せてみろ」
なんともないですと言う雪都の膝に冷たい指先で触れて朔夜は、気に入らなそうに眉根を寄せた。僅かではあるが熱を持っている。
「無理しないで、今日はもうあがって膝を休めろ。確か、妹を迎えに行くんだろう?」
どうしてそんなことまで知っているのか、やっぱエスパー?
「いや、今日は母が休みなんで」
雪都が晴音を迎えに行くのは、十和子が仕事の時だけなのだ。もっとも、その仕事がひどく忙しいのだけれど。
今日は母が休みだから妹を迎えに行く必要はない、だからもっと走りたいと言外に雪都は言った訳だが、朔夜はとりあわずにあがるよう指示した。臨時コーチと言えども、コーチはコーチだ。運動部の上下関係は厳しく、コーチに楯突くなどもってのほかだ。
雪都は朔夜に軽く頭をさげると歩きだした。途中でベンチの上に置いてあったタオルを掴んで水飲み場に向う。
「調子、悪そうだね」
水飲み場には先客がいた。女子部のエース、秋田鈴子だ。
「膝?」
「ああ」
鈴子は肩にかけたタオルで洗った顔を拭きながら、感情の読み取りにくい静かな目を雪都に向けた。
「インハイ、今年も狙ってる?」
「どうかな……」
去年、雪都は鈴子と共にインターハイに出場した。成績はというと、残念ながら上位入賞は無理だったのだが、部活動に重きを置いてない進学校であるこの学校では、そもそも出場できたというだけで快挙なのだった。
「永沢って、A組だよね」
「ああ……秋田がE組ってのは驚いたぞ、絶対にA組だと思ってた」
「私はもう留学するって決めてるから、国公立進学クラスに入る意味がない」
「成る程」
鈴子は天からニ物も三物も与えられているようで、頭脳もトップクラスなのだ。普通に考えれば当然A組に入るだろう成績なのだが、しかし鈴子はA組を志望しなかったらしい。
じゃあねと去って行った鈴子の背中をしばし見送って、雪都は軽く溜息をついた。少しだけ鈴子の潔さが羨ましい、ほんの少しだけだけど。
雪都は、明条大学の医学部を狙っているが、それは父のあとを継ぎたくて医者を志している訳ではない。同じ医学部志望の和馬は、町医者をしている父親のあとを継ぐために医者になると言っているが、救急病院の雇われ医師である秋雪の場合は継ぐも何もない。
それでも将来の職業を考えた時、まず頭に浮かんだのが父と同じ医者という職業だった。人の命を救う仕事に誇りを持っているといつか言っていた父の言葉が、気づかないうちに雪都に影響を与えていたのかもしれない。
それにもう一つ、雪都にはどうしても譲れない医者になりたい理由があるのだ。
国立明条大は難関だ、しかも医学部。最初から浪人する覚悟ならともかく、一分一秒を惜しんで勉強しないと合格できないだろう。呑気に走っている場合じゃないことぐらいはわかっている。
それでも雪都は、去年は下位の成績で終ってしまったインターハイに再挑戦することを諦めきれなかった。高校生活最後の年だ、悔いは残したくない。
蛇口を捻ると、冷たい水が勢いよく迸った。雪都はバシャバシャと飛沫をあげながら顔を洗った。そうすれば、すっきりと目が覚める気がした。
「……仕方ないか」
左膝が微かに熱を帯びている。
「二兎を追うものは、一兎をも得ずとか言うしな」
苦い独り言は、自分自身に言い聞かせているようだ。
「……」
陸上か、受験か。どちらかを選べと言われれば迷う、だけど膝が熱くて。
雪都は、ついでとばかりに頭から水をかぶった。薄茶色の髪が濡れて、艶やかにその色を深くした。
いつもお読みいだきまして、ありがとうございます。
これまで更新したお話をあちこち訂正して、あとがき書き加えたりしました。
活動報告の方で、古い小説だから現代風に直すと書きましたが、どうにもごまかせない古臭さがあちらこちらにありまして、直しきれないので小説の舞台自体を2000年代に変更します。
ガラケーをスマホに直してたのを元のガラケーに戻して、あとがきに解説っぽいのを入れています。
着メロとかストラップとか、ガラケーならではの物も小説中に登場するので、スマホにすること自体が無茶でしたね。
他にも、書いた当時でさえ古いよって言われるようなネタもありますので、その都度あとがきで解説っぽいのを入れていきますね。




