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32 ずっと一緒だと思っていたのに


 放課後、掃除も終ってクラスメートたちはそれぞれに部活や委員会、もしくは自宅へと散って行った。さっきまでの喧騒が嘘のように静かになった教室で、セスナは黒板の前に佇んでいた。

 最近はホワイトボードを使う学校が増えているらしいが、沢浪北高校では黒板が現役なのだ。その黒板の右下隅に書かれた、今日の日直の名前。飛鳥井・阿部と並んだ文字を消そうと黒板消しを持ち上げたものの、なんだか消すのが勿体無い気がして手を止めたのだ。


 日直は出席番号順に回って来るのだから、セスナと和馬がペアになるのはいつものことだ。高校に入学してこの三年間、『阿部』のひとつ前にセスナの『飛鳥井』という姓はずっと居座り続けている。

 養女にしてくれた義兄には申し訳ないが、セスナには飛鳥井姓に愛着はない。飛鳥井でよかったと思うのは日直のたびに和馬とペアになる、その時だけなのだ。


 「セスナ、今日の欠席は?」

 「鈴木」

 「遅刻は?」

 「いない」

 「一時間目は何だった?」

 「日本史」

 「二時間目は?」

 「数学」

 「三時間目」

 「……和馬、お前は今日一日寝ておったのか?」

 「あ?」


 机の上に広げた学級日誌に落としていた視線を和馬があげると、黒板消しを持ったまま腕を組み、仁王立ちで睨んでいるセスナと目が合った。

 途端に、和馬の目がすっと据わる。


 「何だよ、何で睨んでんだよ?」

 「学級日誌ごとき、一人で書け」

 「別にいいだろうが」

 「よくない。ボケ老人か、お前は」

 「お前な、そりゃ全国のボケ老人に失礼だろ」

 「確かに」

 「だろ」

 「お前と一緒にされたのでは、ボケ老人の方々も心外だろう」

 「おいこら」


 ガタンと椅子を蹴って和馬が立ち上がるのと同時に、セスナはくるりと黒板の方を向いた。黒板消しをなすりつけるようにぐいぐいと日直の名前を消す。そうしてきれいに消してから、明日の日直の名前を書くために黒板消しをチョークに持ち変えた。


 「何をむくれてんだよ?」

 「むくれてなどおらん」


 和馬が近づいて来る足音に、セスナは目に力を入れた。チョークを摘んでいる指先が微かに震えている、明日の日直は誰だっただろうか?


 「おい、セスナ」


 こんなことで泣くなんて、どうかしてると思う。だから泣かない、絶対に泣くもんかとセスナは目に力を込める。

 自分で消してしまった、阿部・飛鳥井とふたつ並んでいた名前。日直で和馬とペアになる時だけ、セスナはこの飛鳥井という姓を好きだと思う。飛鳥井でよかったと、そう思う。


 「セスナ?」


 和馬の声が、耳元でセスナの名前を呼んだ。

 すぐ後ろに立った温もりにセスナは、小さく震える。


 違う大学に進んだからと言って、それで終わりになる訳ではない。一緒に過す時間は減るかもしれないが、この恋は終らない。

 元々、医学部志望の和馬と国文科志望のセスナでは同じ大学に行ったとしても会えるのは昼休みとか放課後とか、その程度なのだ。同じサークルに入ると言っても、和馬はどうせ空手を続けるだろうが、セスナは大学から空手を始める気はないし、マネージャーをやるようなタイプでもない。


 「セスナ、何かあったのか?」

 「別に」


 セスナは俯いた、明日の日直の名前がどうしても思い出せない。


 「……」


 和馬はセスナの背中越しに手を伸ばし、チョークをひとつ取ると深緑色の黒板に明日の日直の名前を書き込んだ。


 「日誌提出して、帰ろうぜ」

 「お前は、部活があるだろう?」

 「今日は休みだ」


 見え透いた和馬の嘘に、セスナはふっと気が抜けた。握りしめていたチョークを放す。


 「何か食いに行くか?腹減った……どわっ!」


 振り向き様に抱きついてきたセスナに、和馬は思わずよろけた。けれどなんとか持ち堪え、和馬の腰に手をまわし、腹のあたりに頭を押しつけている小柄なセスナを見おろした。


 「あのな、こういうことをする時には予告してくれ」


 溜息混じりにそんなことを言う声が聞こえたけれど、セスナは顔をあげなかった。和馬はセスナの髪をぎこちない手つきでそっと撫ででくれたけど、そのぬくもりが今のセスナには辛かった。


 「……ずっと一緒だと思っていたのに」

 「あ?」


 学籍名簿の中で、セスナの 『飛鳥井』 という姓は、ずっと 『阿部』 のひとつ前に居座り続けるのだと思っていたのに。


 ポンポンと、和馬の手がセスナの背をたたき始めた。まるで子供扱いだ。恋人ならこんな時、キスくらいしないか?

 だけど、和馬の不器用な優しさが、セスナの心を解きほぐして行く。ゆっくりと息を吸って、そして吐く。大丈夫、どうやら泣いて困らせるという最悪の事態だけは避けられそうだ。


 「アイスクリームがいい」

 「あ?」

 「だから、アイスクリーム屋に行くぞ」


 セスナは顔をあげると、ニッと笑って見せた。強がりじゃなく、自然と笑えた。


 「アイスなんて腹に溜まんないだろが、ハンバーガーかお好み焼きだな」

 「いや、アイスだ。行くぞ」


 たとえ進む道が離れても、和馬は変わらないだろう。セスナが泣きたくなったらいつだって背中をたたいてくれる。

 ポンポンと、ただ不器用に。


 ホントに勝手な奴だよな、なんて言う和馬のぼやきを背に受けてセスナは歩き出した。和馬より先に一歩踏み出すことは、少しも恐くないと思った。




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