27 これはすべて幼馴染のせい
こ、こわかった……。
朝のホームルームが終わり、一時間目の歴史担当である阿久津が教室に入って来てもまだ美雨の心臓はドキドキと暴走を続けていた。
恐かった恐かった恐かった、めちゃめちゃ恐かった!
恐かったとは勿論、雪都の自転車の荷台に乗ったことだ。おかげで遅刻せずに済んだけれど、歩くと十分以上はかかる距離をほんの二、三分で走り抜けたのだから、そのスピードは美雨にとっては未体験のものだった。
目も開けられないスピードって何なの?
自転車だよね?
バイクじゃなくて自転車、本当に足で漕いでたんだよね?
欠席者を確認すると、阿久津はすぐに教科書を開くように指示した。ぱらぱらと、教室のあちこちから紙をめくる音が聞こえる。
永沢くんて……訳わかんない。
おかげで遅刻せずに済んだけれど。
美雨は一度大きく深呼吸をしてから、歴史の教科書を開いた。大切な阿久津の授業中だ、他のことは考えていられない。
教壇の方に目をやると、今日も阿久津は穏やかな声で授業をしている。眼鏡の奥の優しい眼差しを見れば、美雨はそれだけで落ち着けるのだ。
週に三時間しかないんだもん、集中しなきゃ。
美雨は、阿久津が黒板に書いたきれいな文字を丁寧にノートに写す以外の時間は、きっちりと顔をあげて阿久津の姿を目に焼きつける。本当なら担任だった筈なのにと思うとまだ悲しいけれど、それでもこうして授業を受けられるだけでも幸せだと思う。
阿久津は今年、受け持ちを持たなかっただけでなく、授業を担当するクラスも少ないらしいのだ。具合が悪いという田舎の母親のために突然休まなければならなくなった時、あける穴が少しでも小さいようにだろうか。あゆみのクラスは阿久津が担当だが、澪のE組は違うと言っていた。だから、こうやって阿久津の授業を受けられるのは幸運なことなのだ、決して当たり前のことではなくて。
「ここは重要ですから、きちんと押さえておいてください。中間に出しますよ」
阿久津がそう言うと、クラス中が一斉に動く。ノートに書き込む者や教科書に蛍光ペンで印をつける者などその方法は様々ではあるけれど、こんなところはさすがにA組だと美雨は変なところを感心した。というのも少なくとも、去年のクラスはこんな風ではなかった。阿久津は、試験に出すと言えば本当に出す。それなのに、適当に聞き流している生徒の方が多かったくらいで。
そんなことを思って何となく教室の中を見渡すと、窓際に座っている雪都が見えた。
この学校は今時では珍しいほどに風紀が厳しく、髪を染めている者など一人もいない。生まれつき髪の色が薄かったり赤かったりする者も中にはいるが、ほとんどは日本人特有の黒い髪が並んでいる。その中で雪都の薄茶色の髪は目立つ、見ようと思わなくても勝手に目に飛び込んで来る。
……私、あの背中にしがみついちゃったんだよね。
廊下側の一番後ろの美雨の席から、教室を斜めに突っ切った窓際の前から二番目の席に座る雪都は、当たり前だけれど背中しか見えない。ノートを取っているのだろうか、ほんの少しだけ丸まっている。
恥ずかしいとは思った。男の子にしがみつくなんて、美雨にとってはとんでもないことだった。だけど自転車が速くて、あまりに速くて。恐くて恐くて、しがみつくしかなかった。思いきり両腕で抱しめていた気がする。
カ―ッと、不意に美雨の頬が赤くなった。ドキドキと、一旦は静まっていた心臓がまた騒ぎだす。
腕にまだ感触が残っている、彼を抱しめるようにして必死でしがみついていた感触を美雨の腕がまだはっきりと覚えていた。
お、思ってたより細くなかったかも。すっごく細く見えるのに、い、い、意外とがっちりして……あ、あ、あ、私、何考えてるの!
ドキドキドキドキ、心臓が全力疾走する。止まらない、どうしても止まれない。
しゅ、集中!阿久津先生の授業なのよ、集中しなきゃ!
だけど、大好きな筈の先生の声が遠く聞こえる。
こんなにドキドキしてるのも、せっかくの憧れの先生の授業に集中できないのも、全部まとめて訳のわからない幼馴染のせいだと美雨は思った。おかげで遅刻しなくて済んだけれど、でもやっぱり彼のせいだと思った。




