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26 保健室の常連


 保健室登校なんて言葉が当たり前になった昨今では、どこの学校でも保健室の常連と呼ばれる者が一人や二人はいるものだ。どうしてもクラスに馴染めないおとなしい生徒や、心の悩みを抱えている生徒などが教室から逃げて来る先、それが保健室だと言える。今や保健室は、病気や怪我をした生徒のためだけのものではない。言うなれば、孤独な若者たちの心のオアシスと言うか、そんな役割を果たしている。

 ここ、沢浪北高校にも他の学校と同じように保健室の常連と呼ばれる者が存在する。しかし、他校と違うところは、その常連はクラスに溶け込めない内気な性格ではなく、心に悩みを抱えている訳でもない。もっと言うと、生徒ですらなかったりして。


 「まーおちゃ―ん、おはよ―」


 毎朝毎朝、毎朝毎朝っ!

 職員会議が終るとこうして保健室にやって来る美術教師に、養護教諭である宇崎真央はこめかみのあたりをピクピクと引きつらせた。

 噂によると、この右京朱海がいつも保健室に入り浸っているせいで、本当に気分が悪くなった生徒が保健室に行きたがらないとか。保健室に行くくらいなら早退してしまうとか。


 真央は、きっと朱海を睨んだ。朝っぱらから血圧があがりそうだ。


 「右京先生、用もなく保健室に来るのはやめてください」

 「用はありますよぉ―。今日はそうだね、頭が痛いなんてどうかな?」


 どうかなって、何なんだ。仮病なら仮病らしくそれなりに、せめて痛いふりくらいしろと真央は心の中で拳を握った。


 わたしは養護教諭、わたしは養護教諭、わたしは養護教諭。

 こんなの殴って失業するなんて馬鹿らしい、こんなの殴って失業するなんて馬鹿らしい、こんなの殴って失業するなんて馬鹿らしい。


 いつものようにいつもの如く、いつもの台詞を声に出さずに三回ずつ唱えてから真央は、黙って立ち上がって薬をしまってある引出しに向った。頭痛薬の箱から二錠取り出しながら、いっそのこと毒盛ってやりたいなんて思ったり思わなかったり。


 「はい、どうぞ。さっさとこれ飲んで、授業に行ってください。右京先生、一時間目は空きじゃないでしょう?」

 「そうなんだよ、月曜は一時間目から授業なんだよ。全く、芸術はこんな朝から語るものじゃないよねぇ」

 「朝も昼も関係ないと思いますけど」

 「わかってないなぁ、真央ちゃんは。芸術と書いて、情熱と読むんだよ。愛でもいいね、燃え上がる炎だ。炎はね、夜に燃えるものだよ。ベッドの中でね」


 朱海が意味深な流し目を送った時には既に、真央はデスクに座ってノートを開いていた。いつまでも相手をしてやる義務はない、薬を渡せば真央の仕事は終わりだ。

 薬剤管理ノートに、頭痛薬二錠と書き込む。利用者欄には右京朱海と、シャーペンの芯をガリガリと削りながら書きつけた。

 同じ名前が上から下までずらりと並んでいるのを見て、真央は眉根を寄せた。


 胃薬一錠―右京朱海。

 頭痛薬二錠―右京朱海。

 胃薬一錠―右京朱海。

 頭痛薬二錠―右京朱海。


 朱海のもらいに来るのは、胃薬が頭痛薬のどちらかが多い。胃痛持ちで頭痛持ちであることはどうやら本当のようだけれど、毎日毎日、学校の備品である薬を貰いに来ずに自分で買えと言いたい。


 「ねえねえ、真央ちゃん。今夜、呑みに行こうよ。いい店があるんだ、きっと真央ちゃんも気に入ると思うんだけどなぁ」


 何やらほざいているようだが、聞かないでおこうと思うと聞き流せる。真央は薬剤管理ノートを閉じると、今度は明後日行われる予定の健康診断の資料を取り出した。

 年に一度、四月に行われる健康診断は、真央にとって最大の仕事となる。何と言っても全校生徒が受ける訳だから、滞りなく済むように準備は怠れない。


 「ね、真央ちゃん。イタリアン、好きでしょう?パエリアやピザを食べながらワインなんて、いいと思わない?」


 一年生が全部で百六十四人、一時間目と二時間目だけで終るだろうか。なるべく三時間目にはずれ込まないようにと言われている。


 「ね、真央ちゃん。イタリアンが嫌なら、和食でもいいよ。懐石の美味しい店、知ってるからさ」


 二年生は、百五十一人。こちらは、三時間目と4時間目だけで終らせてくれと言われている。一年生が終るとすぐ、速やかに二年生を始めたら何とかなるだろうか。だけどそれでは、せっかく協力してくれる校医に休息を取ってもらえない。


 「やっぱ日本人は、日本酒だよね。辛口のを熱燗で、きゅうっとね!」


 三年生は、百五十八人。これは午後からだから問題ないだろうか。三年の学年主任からは、何も言われていない。だけど、受験生の勉強時間を削るのは最小にしてあげたい。ここは校医にお願いして、やはり速やかに……。


 「ね、真央ちゃん。今夜、いいだろ?」

 「あ」

 「ん?」


 キーンコーンカーンコーンと、軽やかなチャイムの音が校内に響き渡る。真央はずれた眼鏡を押し上げながら、ようやく振り向いた。


 「鳴りましたよ、チャイム」

 「そうだねぇ」

 「授業、行ってください」

 「そおだねえ」


 ハハハと笑って見せてから、朱海はがっくりと肩を落として今日もまた、すごすごと保健室を出て行った。ようやく静かになった保健室で、真央はゆっくりと息を吐きだした。



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